あした、あえたらそのときは、

 夏休みが終わって……約二週間。

 まだ暑い日が続いていたけれど、本屋にはもう来年のカレンダーが並んでいて……どんなに目をそらしたって、数ヶ月もすれば次の年が来てしまうことを意識させられた。

 秋が来る。夏が終わってしまう。真澄と過ごした、夏が。

 あの花火の夜から、五十嵐真澄の痕跡はこの街から消えてしまっていた。

 サイダーの泡のようにゆっくりと、けれど確実に。


   ◆


 日付が変わる頃。私は机に向かい、ノートの新しいページを開いて、思い出したことから書いていく。

 五十嵐真澄。たぶん同い年。身長は、私より少し高い。

 大好きなミルクティーの紙パック。一緒に行ったファミレス。テスト前の勉強会。カラオケで聞いた歌声。バレンタインに交換したチョコレート。

 まだ、覚えてる。忘れてない……真澄のこと。

 私以外の全員が、はじめから真澄なんていなかったように生活を続ける……それ自体は、初めてのことじゃない。

 あの時は、真澄は帰ってきた。でも今回は……どうなるのか、わからない。だから私がこうして、毎晩ページを真澄のことで埋めるようになったのは、おまじないとか、儀式のようなものだった。

 いつか、私も他のみんなと同じように、真澄のことを忘れてしまうのだとしたら。

 このノートを読み返しても、真澄の顔も声も思い出せなくなるのだとしたら。

 ……私は、それが怖い。怖いけれど、そのまま何もせずあの子を忘れてさよならなんて、それはもっと嫌だった。

 ノートを閉じて、私は席を立つ。ベッドサイドに置いた鉢の前に立ち、パラパラと顆粒状の餌を振り入れた。

 鉢の中では、二匹の金魚がゆらゆらと揺れるように泳いでいた。


「君らの飼い主は薄情者だね。あんな必死になってすくい上げようとしてたのに、君らを残して消えちゃうなんてさ」


 餌を二匹で分け合いながら、真澄のことなんて覚えてないだろう金魚たちは鉢の中を漂う。

 置いてけぼりにされた金魚。履歴だけ残ったメッセージアプリ。思い出を羅列したノート。

 私と真澄の間に残っていた、数少ない繋がりだった。


   ◆


 一つ減った机にも、空っぽのロッカーや靴箱にも、違和感を抱いてる子はいないようだった。

 あの子を人魚姫と揶揄した子たちも、一緒にお弁当を食べた友達も、ぼうっと外を眺めるあの子を注意した先生も。最初から五十嵐真澄なんていなかったみたいに、受験の準備を進めていた。

 私も……ほとんど惰性には近かったけれど、受験勉強自体は続けていた。この空気で自分だけ成績落とすのもなんだかいやだったし、時間を区切って過去問解いてる間は他の考え事をしなくてよかったから。

 ドラマで見たみたいに食欲がなくなるわけでもヤケ食いしたくなるわけでもないし、失恋した割には私はズブいのかもしれない……正直、今の私の状態を失恋と呼んでいいのか、確証は持てなかったけど。

 友達が、どこか手の届かない遠くに行ってしまった。

 外側から見たら、ただそれだけのことなのかもしれない。

 そしてそれだけのことだってきっと、この締めつけられるような胸の痛みには十分な理由のはずだった。


「いっそ、私の記憶からも消してくれればよかったのに」


 教室の隅でぽつりと呟いてしまったその言葉は、チャイムと雨音でかき消えていった。台風が近づいているとかで、前日から続く横殴りの雨が教室の雨を叩いていた。

 雨。思えば、真澄が消えた日も、真澄と最初にキスをした日も、こんなふうに雨が降っていた。

 下駄箱でローファーに履き替えて、雨傘をさして学校を出る。私の足は自然と、あの河川敷へと向かっていた。

 空の上の方には厚い雲が浮かんでいて、まだ日は沈んでいないはずなのに辺りは薄暗い。横断歩道を渡るときに大きな水たまりを避けそこなったみたいで、左の足で地面を蹴るたびにくちゃ、と湿った音が靴の中から聞こえた。カーディガンの裾は雨でまだら模様になって、きっとスカートも水を吸って重くなっているんだろう。

 帰宅途中らしい小学生たちとすれ違って、河川敷が見える道へと出る。近づいてみても、ぽっかり雨の降ってない空間がある……なんてことはなくて、少し前に刈られたらしい雑草が濡れて、青々しい匂いを放っていた。

 土手から増水した川を見下ろす。こんな天気に川を見に来る人間なんていないようで、辺りの空間には雨音と私の吐息だけが広がっていた。

 川の流れから目が離せない。やっぱりいなかった、なんて想いが頭の中を覆いこんで、私はゆっくりと土手を降りていく。

 あの濁った川の中に飛び込んだら……迎えに来て、くれるだろうか。

 それとも、私も泡になって。


「せーんぱい」


 とん、と肩を掴まれる。全身が痺れとともに震えて、私はゆっくりと振り返ることができた。


「だめですよ。そこに、あの人はいません」

「……綾乃……?」


 同じ制服の、見知った顔。

 ここにいるはずのない一ノ瀬綾乃が、私を見て笑っていた。


「風邪、引いちゃいますよ。よかったら、私の家に来ませんか」


 その声は優しかったけど、私を掴む力はとても強いもので。有無を言わせない様子の綾乃に、私はアスファルトの上へと引き上げられた。


   ◆


 綾乃の家だ、と案内された部屋は、築数十年ぐらいのアパートの一室だった。

 布団の取り除かれたコタツの前に通され、座布団の上に座る。温かい緑茶を出されると、私はようやく自分の傘がどこかに消えていたことに気づいた。回らない頭でお茶に口をつけると、綾乃は肩まで濡れたカーディガンを脱がしてハンガーにかけてくれた。


「今、お風呂沸かしてますから、入ってくださいね。乾燥機とかないんで、制服は生乾きになるかもですが」

「うん……ありがと」

「いえいえ」


 温かいお茶が体に染み渡っていくと、少しずつだけど思考力も戻ってきたように思えた。今の自分が置かれている状況と、浮かんでくる疑問。


「それで……綾乃。綾乃は、真澄のこと覚えてるの。なんで河川敷にいたの。もしかして、真澄の居場所知ってるの」

「それは」

「教えてよ。どうしてあの子は消えちゃったの。なんで私にだけ記憶を残したの。なんで……私の何がダメだったの……」


 一度流れ出した言葉は止まってくれなくて、一緒に涙まで溢れてきて。

 取り乱した私の肩に、綾乃の手がそっと触れた。


「落ち着いてください、先輩。ゆっくり一つずつ、ちゃんと答えますから」

「……ごめん」

「いいんですよ。お風呂沸いたみたいですから、狭い湯船ですがまずは体を温めてくださいな」


 背中を押されるように借りたお風呂は、確かにお世辞にも広いとは言えなかった。あんまり広いお風呂に一人でも、寂しさとかを感じてしまいそうだから、そういう意味ではよかったのかもしれない。

 自分で思っていたよりも体は冷えていたみたいで、湯船の中で体育座りをしていると、少し落ち着いた。

 脱衣所に置かれていたぶかぶかのジャージに着替えて、促されるまま改めて座布団の上に座る。お茶のおかわりがテーブルに置かれると、綾乃はいつもの笑顔で話し始めた。


「まずは、私の話からしましょうか。私はあの方の同業者……の中でも、先輩寄りに近い方、といいますか。まあ、どちらかといえば普通とちょっと違う側でして」

「はあ……」

「ん、あれ、えっと。あの方がこう……普通じゃない、っていうのは、先輩は把握してたんですよね……?」


 私は黙って頷く。


「よかった、うっかり秘密をバラしたかと思いましたよ。私があの方を覚えているのは、それが理由です。そして残念ながら、今あの方がどこにいるのかは知りません。同業者ってだけで、親しい仲ではなかったですからね」


 それがマズかったんでしょうけど、と綾乃は漏らす。私が首を傾げると、いやいやこっちの話です、と綾乃は首を振った。


「私も迂闊でした。いや、先輩は確かに私の好きな匂いで、つい過剰なスキンシップをしてしまって……同業者ってことを考えれば、自制するべきでした」

「……ええと」

「ああ、いえ。話を戻しましょうか。彼女がここしばらく姿を消しているのはわかっていたので、私としては先輩が少し心配だったんですよ。だからたまたま河川敷にいた、のではなくて、先輩を追いかけてきた、のが正しいんです」

「そっか……ごめん、迷惑かけちゃった」

「大丈夫ですよ。さて、本題ですが」


 綾乃は自分のお茶を飲み干す。


「向こうが消えたこと、たぶん先輩に非はありませんよ。忘れられるなら、時間をかけて忘れた方がいいです」


 突き放すように、試すように、綾乃は言う。


「そもそも、そこまで彼女にこだわる必要ありますか? ファーストキスの相手と結ばれることなんてごく稀です。先輩はこれから、もっと素敵な……女性とも男性とも、出会う可能性があるんですよ? 川に飛び込むまで追い詰められる必要なんて、どこにもないんですよ」

「そうかもね。でも……」


 冷たい言い方だったけど、綾乃がここまで時間をかけてくれたおかげで、私の気持ちは固まっていた。


「真澄はたぶん、私じゃなきゃダメなんだ」


 そう。自惚れかもしれないけど……真澄が女なら誰でもいいような子だったら、泡みたいに消える必要も、あんな泣きながら別れを告げる必要もないはずなのだ。

 私じゃなきゃダメだから……勝手に私の将来を杞憂して、いなくなってしまったのだと、思う。


「それに……私をらっこちゃんなんて名前で呼ぶ子なんて、この世界にそんなにいないでしょ。結構気に入ってるんだよね、あのあだ名」


 私は、そう言って笑ってみせた。


「そういうことなら、私から言うことは何もないですね。ごちそうさまです」


 私の答えに理解を示してくれたのか、綾乃は大きく頷いた。


「そうそう、最後の質問に答えないと。なんで先輩だけ、あの人のことを覚えているか、でしたよね」


 そういえば。まくし立てる中で、そんなことを綾乃に問い詰めたような覚えがある。


「答えは簡単ですよ。向こうの方が、先輩を忘れられずにいるからです」

「……それ、って」


 綾乃は窓の外に視線をやる。つられて外を見ると、未だに厚い雲が空を覆っていた。


「そういえば、明日は満月らしいですよ」


 そう言って綾乃はまた、こちらを向いて笑った。


「晴れると、いいですね」


   ◆


 次の日の夜。雨は、まだ降り続いていた。カーテンレールにくくりつけたテルテル坊主が、申し訳なさげに揺れていた。

 仕方ない、雨天決行だ。

 金魚鉢に餌を振り入れて、私服の上からレインコートを着込む。両親に気づかれないようにこっそりと家を出て、近くのコンビニまでダッシュ。

 明るい場所でスマホを開いて、メッセージアプリを起動させる。相手のいない状態になってしまったページを開いて、文字を打ち込んだ。


『去年一緒に花火したとこで、待ってる』


 既読なんてつくわけはなかったけれど、そんなメッセージを送った。あの星の降る夜、真澄が私にそうしたように。

 夜道は暗かったけれど、神社への道は体が覚えていた。おまわりさんに見つかったら確実に補導されてしまうだろうけど、こんな雨の夜道ですれ違う人なんていなかった。

 鳥居や神社そのものは残ってて、それで少しホッとした。この場所まで無かったことになっていたら、本当に二度と会えないような気がしていたから。

 脇に傘を置いて、本殿の裏、少し高くなった丘に寝転がる。服は濡れるだろうけど、もう降る雨にも無防備だし別にいい。

 真澄はあの夜、どんな気持ちで私を待っていたんだろう。今の私と同じように、来ないならそれでいいって諦めと、もしも来てくれたならって期待の間で、揺れていたのだろうか。


「真澄……私はね。あの日雨の中会いに行ったこと、後悔はしてないよ」


 ひとりごとを、私は続ける。


「私が嫌いになったなんて言ってないのに、勝手に消えるの、やめてよ。悩んでることがあるなら、言ってよ」


 恥ずかしいけど、照れもあるけど。もしも真澄に会えたら、もう少し、自分の気持ちを素直に伝えられたらいい。


「怒んないからさ。二人で……今度は笑いながら、キスしたいな」


 気がつけば、雨は止んでいたようだった。

 空を覆う雲が晴れていく。

 雲の切れ間、煌めく星々の中で。

 丸い月の光が、私たちを見守っていた。

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ほしのあらし 冴草優希 @yuki1341

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