ひばなをみあげて

 夏休みから隔離された、昼下がりの教室。

 カーテンは日光を遮ってくれるけど、暑さとセミの声は防いではくれない。効きの悪い空調の中、私はクラスメートに混じって模試を解いていた。

 人の気持ちなんて分からないけど、選択肢のどれか一つは正解らしいから、本文に丸をつけて、線を引いて。それっぽくない答えを消していって、残った答えの数字をマークシート上で塗りつぶす。

 相手が何考えてるかとか、なんて言えばいいかとか……こんなふうに選択肢が与えられて、考える時間があればいいのに。

 ちら、と疑われないように前の方の席を見る。

 五十音のはじめの方。廊下側に座る真澄も、私と同じように模試を受けている。私立一本の子も全員参加の模試だから、当然といえばそうなんだけど。

 こうして後ろ姿を見るといつもの真澄に見えるし、うまく表現できないけれど。

 水族館の翌日辺りから……真澄は少し、おかしかった。


   ◆


 最後の科目も終わって、解放された生徒たちが各々で散っていく。隣のクラスの子と答え合わせしに行ったり、カレシの顔見に行ったり、残って自己採点したり。

 私は……模試の中身については、結果待ちだ。B判定くらいは取れてるといいけど、どうだろう。

 答え合わせなんてする気にもなれなかったし、荷物をまとめて廊下に出る。遠くでは、吹奏楽部がチューニングを始める音が鳴っていた。きっと運動部も、秋の大会に向けて練習が始まっているんだろう。


「せーんぱいっ」

「うわっ……!」


 ぼうっと窓の外を見ていると、横から不意に抱きつかれる。踏ん張って衝撃に耐えて横側を見ると、一回り大きな見知った顔が楽しそうにこっちを見つめていた。


「え、綾乃じゃん。どったの」

「先輩たちが辞めちゃって、部活やる気出ないんですよー。今日模試って聞いて、先輩の顔見たらやる気出るかなーって」

「出るかな、って」


 一ノ瀬綾乃。部活の後輩で、私のことを妙に慕ってくれていた。別に懐いてくれるのは嬉しいんだけど、私がいなくても部活はちゃんとしてほしい。


「で、やる気出た?」

「うーん、少しは? 先輩の匂い嗅いだら、夏バテ解消した気がします!」

「……あんた、私が卒業したらどうする気なの」

「えー……先輩、留年しません?」

「絶対やだ」


 模試が終わったばっかの受験生に留年勧めるとか、いい根性してる。そもそも留年したとして、勉強で綾乃に構ってる余裕なんかないだろう。


「あ、そうだ先輩。今度の花火大会、一緒に見に行きません?」


 抱きついたまま、嬉々とした表情で綾乃は提案してくる。今週末に河川敷で行われる、市が主催してる毎年恒例の花火大会。去年は中止になったから、今年は気合が入っているらしい、ってうわさだった。

 後輩と見る花火。それはそれで、魅力的な誘いではあったけれど。


「あー……ごめん、今年は先約があるから」

「えー、ざんねーん」

「だからごめんって。美裕とか誘いなよ」

「いやーダメですよあの子、カレシと行きますもん」


 それは初耳だったけど、だからって私も一緒に行ってあげるわけにもいかなかった。


「はぁーあ、先輩が私より男を取る人だとは思いませんでした」

「いや、男じゃないし。一ヶ月くらい前から一緒に行くって……約束した友達がいるの。今回は諦めてよ、また落ち着いたら埋め合わせするからさ」

「友達……ですか……へぇ……しょーがないですね、今回はぼっちで見ることにします」


 デート、約束ですからね、と言い残して、綾乃は嵐のように去っていった。コンビニのアイスを食べながら、帰り道ひたすら綾乃の話に相槌を打つのがデートなら、まあ、デートか。

 それにしても、私が一緒に行く相手を友達、と表現した時……いや実際男ではないんだけど……綾乃が含みのあるような笑い方をしたのは、なんだったんだろう。


「らっこちゃん」

「ひぁ……!?」


 今度は背後から、背中を指でつつ……となぞられる。不意打ちに情けない悲鳴が出たけれど、今度の相手は振り返るまでもなかった。私をらっこちゃん、と呼ぶ子なんて、一人しか心当たりがない。


「やめてよ、背中弱いんだから私」

「だってらっこちゃん、呼んでも反応しないから……」


 呼んでた? 真澄が私を?


「ごめん、ちょっと考え事してた」

「んーん。あの子、らっこちゃんのお知り合い?」

「んー、まあ……部活の後輩。なんか、懐かれてるんだよね」

「……そっか」


 納得したような、でもどこか不服そうな、そんな顔で真澄は頷いた。やっぱり、変。曖昧な表情のまま、真澄は窓の外を見つめる。


「晴れるかなあ、花火大会」

「どしゃ降りになんなきゃやるでしょ。去年中止だったし、小雨決行って書いてるし」 


 そりゃまあ、晴れるにこしたことはないけど。天気予報では、週末この辺りを発達した前線が覆うことになっていた。降るかどうかは、今のところ五分五分。


「もし濡れちゃったら、母さんクリーニング出してくれるって」

「え?」

「え、って……真澄の家にある浴衣、貸してくれるって話でしょ。汚したまま返すのも、なんか悪いし」

「あ、あー、浴衣の話……うん、そうだね。よろしくお願いします」


 ……絶対、変なんだけど。今それを指摘しても、真澄が理由をしゃべってくれないことはなんとなくわかった。心当たりもないけど、たぶん、私に関することなんだろうし。


「じゃあ、当日は四時に真澄の家集合ね」

「うん……らっこちゃんのこと、待ってる」


 結局私は、問い詰めないことにした。

 なんとなく……今聞いてしまったら、真澄と花火を見れなくなる気がしたから。


   ◆


 予定よりも、早く家を出た。

 見上げた空は薄く雲が覆っていて、日差しは降ってこない。アブラゼミの鳴き声だけが、まだ日が高いことを教えていた。

 花火大会当日。降水確率、六十%。

 雨傘の持ち手を手首にかけて、私は真澄の家へ向かった。歩くのは、去年二人で花火をして以来。あの時は真澄が案内してくれていたけど、朧げだった記憶を頼りに進んでも無事に着くことができた。


「……いらっしゃい、らっこちゃん」

「ん。これ、母さんから菓子折り」


 真澄は、見た目上……いつも通り、なように見えた。奥に通されて、客間のテーブルに菓子折りの袋を置く。

 そのまま次の部屋に案内されて……私は、息を呑んだ。


「きれい……」


 臙脂に朝顔の、素敵な浴衣が飾られていた。


「じゃあ、着付けするね」

「ん……よろしく」


 見惚れている間に紺に牡丹の浴衣に着替え終えたらしい真澄が、部屋に入ってきた。着てきた服をカバンに積めて、真澄に浴衣を着付けてもらう。

 キャミソール姿を真澄に見られるのは、なんか……胸の奥がむずむずした。されるがままの私を姿見越しに見ながら、真澄はてきぱきと帯を巻いていく。

 せっかくだから、と、私はカバンからかんざしを出して真澄に手渡した。真澄からの、誕生日プレゼント。真澄の指がすっと私の髪に入っていって、姿見の前から真澄が離れていく。

 写っているのが私だと認識するまで、一瞬間があった。


「どう? 似合う?」

「……うん。とってもきれいだよ、らっこちゃん」


 似合う、かどうかは別として。うん、浴衣姿で真澄と並ぶと、私もそれなりにサマにはなってるんじゃないだろうか。

 巾着も用意してあったけど、雨が降ったらそのまま家に帰ることになりそうだし、カバンを持っていくことにした。浴衣姿で雨傘をもつのは、生まれて初めての経験だった。


「らっこちゃん、傘持ってくの?」

「んー、念のため、ね。真澄から借りた浴衣、濡らすわけにもいかないし」

「でも、傘さしたらお店回れないかも……」


 なるほど、確かに。あの混雑の中を雨傘広げて歩くのは、単純に邪魔だろう。まあ、そこまで降っちゃったら中止になるとは思うけど。


「じゃ、真澄も入ってよ、傘の中。そしたら場所取らないし」


 真澄は目を見開いて、


「……うんっ」


 たぶん、久しぶりに、心の底から笑ってくれた。

 二人並んで玄関を出る。せめて、花火が打ち上がる間は降らないでいてくれたらな、と願った。


   ◆


 打ち上げ場所に近い河川敷では、端から端まで出店が並んでいた。店と店の間を、見物客がひしめいてどうにかこうにかすれ違う。

 はぐれないように手をつないで、私たちはその人混みの中に入っていった。

 りんご飴、射的、フランクフルト。

 焼きそばやたこ焼きのパックを抱えた人たちは、場所取りをした席へと向かっているみたいだった。その場で食べられるものを買い食いした私たちは、人の波に飲まれながら気になった店へと抜け出していく。

 真澄が特に夢中になったのは、金魚すくいだった。射的で一発も当たらなかった時点で察してたけど、真澄は一匹も金魚を掬えないままお金を溶かしていく。

 穴の空いたポイがそろそろ二桁に突入するってタイミングで、おじさんのお情けで金魚を二匹袋に入れてもらえた。真澄は自分で掬いたかったみたいだけど、あの調子じゃ朝になっても成果はゼロだろう。

 片手がチョコバナナで塞がってる真澄の代わりに、私が金魚の袋を持った。


「げ、花火始まっちゃう」


 打ち上げ会場から、開始のアナウンスが漏れ聞こえてきた。偉い人のちょっと長い話が終われば、打ち上げは始まるだろう。


「お客さん、結構残ってるね。こっからじゃ、花火見えなさそうなのに」


 真澄はぽつりと呟く。確かに、花火が始まる直前にしては、店の並ぶ通りは人で賑わっていた。


「ほんとはみんな、花火を見たいんじゃなくて、お祭り気分で嫌なこととか忘れたいだけなのかもね」


 納涼、ってお題目はついてるけど、花火大会が終われば季節は秋へと移っていく。夏休みも終わりかけの時期だし、夏が終わる前に何か楽しいことをしたって記憶を、残しておきたいものなのかもしれない。


「そういう、ものなのかな」

「いやまあ、わかんないけどね。花火より外でお酒飲むのが好きなお姉さんとか、好きな子に告白したくて花火どころじゃない男子とか、この中にはいるんだよ、きっと」


 思い出を作りたいって気持ち自体は、私にもあったし。

 来年も夏は来るんだとしても。結局、真澄と過ごす高校最後の夏は、一度だけしかないんだ。


「私は」


 花火が打ち上がる。

 少し喧騒から離れた木の下で、私たちは立ち止まってそれを見上げていた。


「真澄と花火見に来れて、よかったって思うよ」

「……そっか」


 大小、色とりどりの花が曇り空に咲く。


「また、見に来ようよ。だからとっておいてね、この浴衣」


 破裂する花火の音で、真澄の返事は聞こえなかった。

 ちら、と横を見る。花火の光に照らされて、真澄はじっと花火を見上げていた。

 網膜に、焼きつけるみたいに。


   ◆


 最後の花火がうち上がって、大会終了を知らせるアナウンスが流される。

 余韻に浸る人、二次会を始めようとする人、後ろ髪を引かれながら帰り道を行く人、いちゃつき続けるカップル。私と真澄は、帰宅するグループの最後尾だった。

 毎年そうだけど、花火大会が終わると本当に夏休みも終わっちゃうんだな、って気がする。

 夏が終わって、秋が来て……春になれば、私はこの街を出ていく。花火大会の時期には、戻ってくるつもりではいるけど。

 ふと。くい、と腕を引かれた……ような気がした。振り返ると、真澄は立ち止まってうつむいている。


「……真澄?」


 びく、と真澄の肩が震えた。ゆっくりと顔を上げて、真澄は私を見つめて……笑おうとした、のだと思う。


「なんでもない。行こ、らっこちゃん」


 そんな顔して、なんでもないわけ、ないでしょ。

 行こ、なんて手を引かれたって、まっすぐ帰れるわけがない。今度は、私が立ち止まる番だった。


「言いたいこと、あるなら……ちゃんと、言ってよ。そんな顔で何も言わなかったら……私だって、モヤモヤするじゃん」

「……でも……」


 真澄は言い淀む。ふっ……と、真澄の手から力が抜けていった。私は、真澄の話を聞くまでここを動く気はなかった。


「私……私ね……」


 根負けしたらしい真澄は、ぽそぽそと口を開く。


「らっこちゃんのこと、やっぱり、ひとりじめしたい……」

「……うん。知ってる」


 気づいてなかった、といえば嘘になる。そもそも去年の夏にあんなことがあったのだって、それが一番の理由のはずだった。


「私ね……花火大会なんて、中止になればいいって思ってた」


 私が都内に進学することを後押ししたのだって、たぶん本心からではなかったんだろう。私を攫おうとしたことの後ろめたさとか、そういう暗い感情を殺して、真澄はずっと笑っていたんだと思う。

 それが、この夏、変わってしまった。


「花火が打ち上がったら……夏が、終わっちゃうから……らっこちゃんが、本当に、思い出になっちゃうから……」


 受験モードに入った学校の空気は、どうしたって卒業を意識してしまう。私が、この街を出ていくことを……私だって気にしていたんだ、真澄だって考え込んでいるって、今思えば気づくべきだった。

 たぶん、真澄はずうっと……どうするのが「らっこちゃん」にとって幸せなのかを、思い悩んでいた。


「でも、火花で照らされるらっこちゃんは、とってもきれいで……もっと見てたい、って思ってる間に、最後の花火が上がって……」


 ぽつ、ぽつと、手のひらに雫が落ちる。

 私は直感的に、ああ、この雨は真澄のなんだ……って理解した。


「ありがとね。らっこちゃんに会えて、私はたぶん、幸せだったよ」


 するり、と握りしめていたはずの手のひらが滑り落ちていく。


「真澄っ!」


 このままじゃ、ダメだ。

 そう思って、力の限り名前を呼ぶ。

 それがもう手遅れであることは、わかってしまっていたけど。


「ごめんね、らっこちゃん。大好きでした」


 ざぁっと、急に雨の勢いが強くなって。

 数度まばたきをする間に、真澄の姿は海に落ちた人魚ように消えてしまっていた。

 土砂降りになった雨の中。

 手に持った傘をさすことも忘れて、私は立ちつくしていた。

 青い朝顔が、雨水で黒く滲んでいった。

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