Episode:04-02 秘密のたべもの


 いつの間にか、優記は一人でも動揺せずに学校で過ごせるようになっていた。


 気持ちが沈みがちになってしまうのは仕方ない。

 でも以前に比べると全然マシだ。

 ふざけあったり、些細なことに笑ったり、以前と変わらずに過ごしていられた。


 家に帰れば未鳥が待っていてくれる。

 それに今は、リーチェも……。


 これが正しい有り方だったように思う。

 あの家で、人が三人暮らしている。それって、すごくしっくり来る形だ。


 帰り際、ちょっと気になって保健室を訪ねた。

 リーチェのこと、未鳥のこと、何か聞くことができればと思ったが、玲は留守だった。優記は諦めて踵を返す。


『――寝るときは刃物を隠しておきな。寝込みを襲われても知らないよ』


 ワンダールームでの言葉を思い出し、背筋が不意に寒くなる。


 ――未鳥が僕を襲うはずない。

 そんな乱暴なことをするような子じゃない。

 でも……。


 今朝の取り乱した姿を思い起こす。

 かんしゃくを起こした子供のように拒絶を示した未鳥。

 あの銀のパックの中身は、本当に人間の血なんだろうか――。


 夕食の材料を適当に(タマネギを多めに)買って、家へ帰ると窓にはもう灯りが灯っていて、それがむしょうに嬉しかった。

 すでに何か、調理の始まったような匂いがする。


「ただいま」


「お帰りなさい、優記さん」


「リーチェ、ただいま。……」


 廊下へ姿を出したリーチェはエプロンをつけて、髪を後ろにまとめて、家庭的な雰囲気を漂わせている。

 日本人離れした端整な顔立ちと妙にミスマッチで、ちょっと見つめてしまう。

 意外だ。


「あんまり見蕩れないでください、優記さん。ボク、照れてしまいます」


「あっ、わ!? ごめんっ、えっと……未鳥は?」


「今はお休みになっていますよ」


「え? 未鳥……寝てるの? どこか悪いの?」


「そうですね……なんと説明申し上げたらよいのか。食事をしたくないと不貞腐れて、引きこもってしまったのです」


「それって――」


 銀色のパック。

 滴る赤い雫、それを舐め取る獰猛な舌。


 血を食べなきゃ、死んでしまう――

 代わりに、彼女は、優記の涙を求めている。


 そうだ。今朝から一滴も涙を与えていなかった。

 優記は気づいて焦った。


 きっと、未鳥は腹をすかせている。


「僕、ちょっと様子を見て来るね」


「お気をつけて」


 頷いて階段を上がった。


 ――お気をつけて?


 何か気をつけることでもあるのだろうか。

 あんな小さな未鳥に引っかかれたところで痒くもないはずなのに。

 二人の寝室と化した僕の部屋のドアをノックする。


「未鳥? 帰って来たよ」


 ドアの向こうで何かうごめく気配があった。

 小さな足音、多分裸足――が、トン・トン・トン、と床をたどる。


「……ゆう君?」


「そうだよ。僕だよ」


 頼りなげな声が妙に胸に痛い。

 そっとノブが動いて、小さくドアが開く。


「チカトリーチェは、そこに居ないのね?」


「下で夕食の準備をしてるよ」


「わかった。……入って、いいよ」


 己の部屋だというのに、許可がなくては入れないなんて。

 だけど、許可を得たことが嬉しくて、ちょっと頬が緩んでしまう。


 部屋は暗かった。

 未鳥が引きずって歩いた毛布が、ベッドとドアの間でくたびれている。


「来て、ゆう君」


 手を引かれた。

 思ったよりも勢いがあって、優記はベッドに尻餅をつくように腰を下ろした。

 未鳥が優記の腿の上に跨って、手を頬へ、目元へと伸ばす。


「ちょうだい、ゆう君の……」


「うん。気づけなくてごめん。待ってて、今――」


 体に重なる未鳥の体温に動揺してしまう。


 小さな動物を抱いたみたいに温もりが伝わってくる。

 触れ合う箇所がむずがゆく感じられて、なんとも落ち着かない。

 自分の心臓がばくばく脈打っていることに気づいて恥ずかしくなる。


「はやく……はやく、おねがい」


 未鳥の指が頬をくすぐる。

 涙を出そうと思うのに集中できずに、なかなか泣けない。


 前まではあんなに、面白いくらいに、すぐに涙が出てきたのに――。


 辛かったことを思い出そうとすると、未鳥と過ごした日々の、楽しく嬉しい出来事ばかりが浮かんで、悲しい気持ちになれなかった。


「待って、未鳥……タマネギ、切るから……」


 でも台所にはリーチェが居る。

 そこで未鳥に涙を与える姿を見られるのは、なんだか避けたいように思えた。


「ゆう君……はやく、はやくぅ……」


 焦がれたような声。

 未鳥が背を伸ばして、優記の肩に手をついた。

 眼鏡をそっと押しのけて、未鳥の舌が眼前に迫る。


「未鳥、まだっ……」


 まだ、涙は出ていない。

 未鳥の舌が乾いた頬に触れる。


 ぺろ、ぺろ、ぺろ――。


 熱い柔らかい感触に頭が痺れていく。

 濡れた舌が涙の在り処を求めて優記の目じりを探りまわる。


「痛っ……」


 ちいさな舌が目に入った。

 鼻にツンと抜ける刺激をうけて、ようやく眼に涙が滲む。

 ほんのちょっとだけ、だけど、未鳥の舌が逃さずそれをすくった。


 たったの一滴。

 舐め取った後も未鳥は執拗に、未練がましく優記の目元を舐めた。


 未鳥の体温の痕跡が、じんじんと頬に熱くうずく。

 このまま触れ合ってちゃいけないという理性で、もっと未鳥に触れて欲しい欲求を打ち負かして、彼女の軽い体を膝の上からどかした。


「もう……今はもう、出ないみたいだ、未鳥……ごめん」


「ううん……ごめんね、ゆう君――」


「夕飯、食べようか? もう準備できてるみたいだから……」


「いらない。きもちわるい、から。……わたし、もうちょっと眠るね」


 もぞもぞと、ベッドを這って、タオルケットにもぐりこむ。

 大きな猫みたいな格好になって未鳥は目を閉じた。

 調子が悪そうだ。風邪かな――ううん……


『栄養失調なんだよ、あの子』


 玲先生の囁きが耳に甦る。


『栄養失調で死んじゃうの』


 未鳥の説明が、今更実感できて、胸の底が冷えた。


「ねえ、未鳥。僕は、構わないよ。涙だけじゃなくて……きみのためになるのなら――僕の血をあげるのに……。未鳥、どうかな?」


 問いかけに答えはない。

 見ると、もう寝入ってしまったようだ。

 未鳥の小さな呼気に耳を澄ます。

 か細く、頼り無い、儚いそれが痛ましくて、歯がゆく感じた。


 布団をかけて、絡まらないように髪を整えて、未鳥を置いて部屋を出る。

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