Episode:03-03 お腹を空かせた女の子


 お昼まで回って分かった。


 ワンダールームには絶叫系マシンが圧倒的に多い。


 室内遊園施設だと完全に侮っていた。

《マッドネスティーパーティ》が旧エレベーターシャフトを改造してフリーフォール・アトラクションに改造されていたように、限られた施設内をあの手この手で加工してスリルを提供している。何もそこまでしなくていいのに……と思うのは、野暮というものだ。


 だから、昼になってようやく一息ついたとき、優記はもうボロボロだった。


「あーっ、楽しかったっ!」


「はあ……、死ぬかと思った……」


 昼食は屋上のテラス席でとれる。

 ここは屋上庭園になっていて、丁度季節の薔薇が満開に咲き誇っていた。

 野生の蝶や鳥もまぎれている。

 屋内遊園地はやっぱり閉塞感があって、ここでこうして一息つけるのは気分転換に丁度良い。


「どうだい? アキラさんのガイドぶりは? 中々楽しめただろう? そうだろぅ?」


「はいはい……」


 椅子にもたれたまま、ろくにツッコむこともできない。

 確かに彼女が居てくれて助かった部分もある。

 ほとんどのアトラクションに並ばずに乗れたし、今もこうして一番眺めのいい席に着くことができた。


「気持ち良いねぇ」


 未鳥の髪がふんわりと風をはらむ。

 薔薇園と、アリスの衣装をイメージした服を選んできた未鳥が見事にマッチングしていて、いつまでも眺めていたくなる。


「ん~、みぃちゃんかわいいねぇ。今日はいつもと雰囲気が違うなぁ。あ、一枚撮っていいかな~?」


「えっ? わ!」


 未鳥が視線を向けた途端、先生の手の中でフラッシュが閃いた。

 デジカメを持ってきていたらしい。用意周到なことだ。


「ほらほら、ポーズとって。せっかくのアリスコスなんだから~」


「コスって言うな」


 とは言え、知らない人が見たら施設側の仕込みと思ってしまうかもしれない。

 優記はひそかに自慢に思う。未鳥はすばらしくこの会場にマッチしている。


「今日は一段と輝いてるね~、みぃちゃん! どうしてかなあ? ゆう君とデートだからかな?」


「なっ!?」


「あ、アキラさんっ! 何言ってるのよ」


「お、図星だ図星だ。未鳥と優記はアッチッチー!」


「小学生ですか!?」


 手拍子のリズムに乗せてからかう様はとても二十八歳とは思いがたい。信じたくない。


 ありがたいことに丁度テーブルに備え付けの呼び出しチャイムが鳴った。

 注文していたフードが出来たらしい。


「僕、受け取りに行ってきます」


 番号札を手に席を立つ。

 逃げるみたいだけど、先生の相手をするのは年季の入った間柄の未鳥が適役だろう。沿う判断して優記は彼らに背を向けた。


「あ、割り箸もらってきてね~」


 パスタを注文したくせに何に使うというのか。

 玲の謎のリクエストを背に受けて、薔薇の園を進む。



「あれ……?」


 道に迷った。


 未鳥たちが待っている席は薔薇園の一番奥で、カウンターは屋上入り口に位置する。

 記憶を辿って進んだものの、彼女たちのもとへ帰れるかも怪しい。

 一度戻って地図を捜すべきか、しかしそうしているうちに料理が冷めてしまうのが気がかりだった。


 ふと視線が一人の女性にひきつけられる。

 優記の視線をひきつけたのは見慣れない装身具だ。

 それはボンネットという、ゴシックロリータ趣味のお姉さまがたの好むアイテムだったと思う。優記はなけなしの知識でそう認識する。


 見ればアリスのようなエプロンドレスに、ごく淡い金髪のウィッグまでつけた念の入れ具合だ。もしかしたらここのスタッフかもしれない。

 そう思うほどに完成度の高い姿を、彼女はしていた。


「あの、すみません」


「はい?」


 おかっぱの髪を揺らして振り返る。

 女性――いいや、少女だ。

 年下かもしれない、けど、優記にはよくわからない。

 はっきりとした目鼻立ちをしている。きっと東洋人ではないだろう。


「迷子になってしまって。フードカウンターへ行きたいんですが」


「それなら、その角をお曲がりになって……」


 ころころとした響きのある、甘く軽やかな声だった。

 柔らかそうな生地の手袋をはめた指先が方向を示す。

 彼女は分かりやすく道順を説明してくれた。


「ありがとうございます。行ってみます」


「ハイ。ボクはここに居ますから、分からなかったらまた来てください」


「はい!」


 ……ボク?


 女性にしては珍しい一人称だけど、この人の場合どうしてかそれほど奇特な印象はなかった。現実離れした容貌と装いのせいかもしれない。


「あと、ボクはスタッフではありませんよ」


「えっ、お客さんですか? すみません。アリスのような格好だったのでつい……。ご親切にありがとうございます。」


「うふふ。いえ。このワンダールームではお客さんがアリスの役なので、アリスの格好をしたスタッフを置いていないのですよ」


「ああ、なるほど」


 言われてみればそうだったかもしれない。

 優記は今更になって気付く。


「それではごきげんよう」


 スカートをつまんで膝を曲げ、演技がかった礼をする。

 優記もつられて一礼してカウンターへ向かった。

 なんだか不思議な人だったな――

 しばらく残っていた余韻は、食べ物の匂いで空腹を思い出した途端に霧散した。



 ハンプティダンプティの不可逆的オムライスドリアを食べて、薔薇アイスの庭園クレープを食べて、それでもまだ足りないと未鳥は追加のフードを買いに行った。

 優記はウミガメスープパスタだけで満腹なのに、小さな身体のどこにそんなに入るのか不思議だ。


「ああ、食べた食べた」


 玲がカフェラテをすすって心地よさそうに一息つく。

 ここは日当たりも丁度良くて、お腹いっぱいになった今、すぐにでも昼寝ができそうだ。


「さて、食後はこれに限るなっと」


 きゅ、と音を立ててキャップを外す。

 玲の手の中に保健室の冷蔵庫に入っていたものと同じ銀色のパック飲料が納まっていた。大人っぽいリップをつけた厚い唇が吸い口に密着して、ちゅるちゅると中身を啜り上げていく。


「プハァ!」


 親父臭く息継ぎをして、残りも一気に吸い上げた。


「あの……それって」


「うん? あげないよ。もう飲んじゃったし」


「いりませんよっ! じゃなくて、それって……血、ですか?」


「そ。血」


「人間の……?」


「そうだよ。一週間以内に採取されて飲用に加工された、人間の血液だよ。開封後の賞味期限は一応半日だけど、五分もしたら飲めたもんじゃないね、味が落ちちゃって。足が早いんだ」


 先生がパックを垂直に持ち、舌を伸ばして最後の一滴を受け止める。

 その色ははっきりと赤い。


「おいしい」


 唇を舐めて微笑む。

 その表情はぞくぞくするほど獰猛で、気を張っていないと怖くなって、涙腺にせり上がる涙の気配を感じてしまう。


「誰の血、なんですか?」


「誰だろ。わかんない。献血者の血だったり……」


「献血者?」


「ほら、よく街中で献血募ってるだろ。ああいうの」


「嘘ぉ?」


「本当ぉ。ま、あとは《提供者》とかな――」


 パックをきゅっと絞ってゴミ箱に投げ捨てる。

 玲は髪をかきあげて、優記を見つめた。


「未鳥にどこまで聞いたの?」


「血がないと……血を食べないと死ぬって。食事をしても無意味になるって」


「うん。それで、あんたは未鳥にあげてるの?」


「血……は、あげてない」


「ふぅん。まあ、血の代わりになるものはいろいろあるし、そっちのほうが良いって人はアタシも含めて少なくないから別にいいけど……ちょっと犯罪っぽくない? あんなちっちゃな子相手に……。それと、憶測だけどゆー君はもっと量出せるようになったほうがいいと思うの」


「な、何の話ですか? またナニですか!? あなたちょっと自重してくださいよ!」


「あれっ? 違うの? なーんだ、アタシはてっきり……てか、じゃあ、ゆー君は未鳥に何を上げてるわけ? まさか……母乳!?」


「出ませんよ!!」


 思わず立ち上がると、テーブルと一緒にパラソルが揺れた。

 ちらちらと影が揺れて日差しがあちこちを走る。


「ぼっ……母乳も、血の代わりになるんですか」


「えっ、そういうのキョーミある? 母乳の話に?」


「ま、真面目に、僕はっ、話を……!」


「ゴメンからかった、うはは。ま、なるよ。みぃは十歳までそれで育ってるし」


「十歳まで? そんな」


 一緒に公園で泥んこになって遊んでいた頃に、母乳を貰っていたなんて想像できない。身体は僕より大きいくらいで、足も早くて、すばしっこくて、それなのに――赤ちゃんみたいに食事をしていたって言うのか。


「みぃ、成長してないでしょ? あの子が血の提供を拒むせい。アタシたちって、いわゆる吸血鬼みたいな体質で――ヒトから血を分けてもらわなきゃ身体を満足に機能させられないのよ。未鳥はヒトの血を嫌がって、だから成長が止まっちゃった。栄養失調なんだよ、あの子」


「栄養失調……?」


「あ。帰ってきた。あはは、あんなおっきいパフェ、一人で食べる気かしら。よほどお腹が空いてるのねぇ。紛らわそうとしてるのね――」


 未鳥が笑顔で、駆け出したいのをこらえて慎重にトレイを運んでいる。

 トレイの上には絶妙なバランスで様々なスイーツを積み重ねたボリューミィなパフェが載っていた。落とすまいと真剣な顔つきに戻って、一歩一歩確かめながら踏み出している。


「ね、ゆー君。寝るときは刃物を隠しておきな。寝込みを襲われても知らないよ」


「未鳥がそんなことを?」


「寝ぼけた身体が勝手に動いちゃうかもしれない。おいしそうな血の詰まったタンクがそばにあるんだもの……」


 未鳥へ笑顔を返しながら、玲の声は冷え切っていた。


 面白半分の脅しじゃない。

 これは親切な忠告なのだろう。


 だとしたら、僕は――どうすればいいのだろう。


 未鳥がハートのジャックの有罪チェリーパフェを食べている間、ずっと、脳内にちらついて離れない。未鳥が赤い舌を出してスプーンにしゃぶりつく。

 それが、母親のたわわな乳房に稚児のように吸い付く空想の姿と重なった。

 どこか倒錯的な光景に頭がくらくらする。


「ゆう君。はい。チェリーあげる」


「ヤダッ! みぃちゃんどこでそんなやらしい言葉覚えたのっ?」


「アキラさんはどうして言語中枢を麻痺させないの?」


「わっ、むつかしい言葉使って~。みぃちゃん賢い良い子だねぇ。アッキーには分かんない」


「うざいなー。……ゆう君?」


「え? あ、ごめん」


「チェリー嫌い?」


「ううん。ありがと」


 小さな手からチェリーを受け取る。

 真っ赤に熟れた果実は口の中で甘く潰れた。


 それから優記はずっと上の空で、その場その場ではちゃんと楽しんでいるのだけど、ふとした気持ちの隙間をぐちゃぐちゃした思考が埋めた。


 未鳥が自分を害するなんて想像もつかないけれど、どこかで納得している自分もいて、それが僕には許せなかった。どうしてか、優記はまだ心のどこかで未鳥を恐れている――そんな錯覚を抱く自分を叱咤する。


 ――未鳥は僕のそばにいてくれた。

 温もりが欲しいときに寄り添ってくれた。


 彼女にも事情があって僕を頼っているのだとしても、僕だって未鳥のことを頼りにしている。恐れることはない。今まで通りに過ごせばいいんだ――。


「あっ、アタシ便所」


「アキラさん! もうちょっと上品に言って!」


「ほほほ、ごめんあそばせ。アタクシ、お花を摘みに行って小便して参りますわ~」

「うぇぇ、最低~!」


 批判もなんのその、玲は軽やかに通路を踏んでいく。

 顔をゆがめて軽蔑を表現しつつも、未鳥の顔の造形はかわいらしさの内に留まっていた。


 パフェは気づけばきれいに平らげられていて、口の端にちょっとクリームがついている。


「未鳥、ここ」


「ん、ついてる? 取って取って」


 無邪気にほっぺたを差し出され、咄嗟に指ですくい取る。

 ぷにっとした温かい感触が、小動物と触れ合ったときのようで、なんだか癒やされる。けど……


 これ、どうしよう。


 指先に付着したクリームの処遇に迷っているのもつかの間、


「ぱくっ」


 未鳥が食い付くさまは、小動物というより蛇か何かみたいだった。


「わっ。こらっ」


「えへへ。甘い~♪」


 未練なく指から離れていった口内の暖かさが名残惜しい。

 いや、と首を横に振って、そんないかがわしこと考えちゃだめだと自分を叱責した。


 僕のバカ、エッチ。

 反省している優記の耳にキンと硬質な音が届く。

 顔を上げると、未鳥が執念深くパフェのビンの内側からクリームをこそげ落として、長スプーンを舐めていた。


「未鳥、まだ足りない?」


「ん~ん、ちがうの……違うんだけど……」


 こちら見上げる彼女の眼差しが、なにか迷っている。

 迷子の子供の目をしている。

 言いたいことを我慢するように唇をきゅっと一文字に結んだ。


「……舐めたいの?」


 なるべく慎重に問いかけた、それに、未鳥がはっとして、遠慮がちに頷いた。


「でも、すぐになんて……無理だよね。わがまま、言わないよ、わたし……」


「それくらい、わがままなんて思わないよ。試してみるけど、期待しないで」


「うん……」


 今日は楽しい気分でいたけれど、遊んでいる場面場面で、ふとした瞬間、両親のことを思い出した。こうして遊園地へ出かけて、幼い優記はとんだ我侭を言ったり、理不尽なことに文句をつけたり、散々両親を困らせたっけ。


 まだ年齢が一桁だった頃の思い出だけれど、それに両親は根気強く付き合って、懲りずにまた優記をレジャーへ連れ出してくれた。愛されていたんだと思う。


 ――僕は彼らの、たった一人の息子だったんだ。

 もっと聞き分けを良くすればよかった。

 今更になって優記は思う。

 彼らのために尽くせばよかった。

 いつかきっと親孝行をするからと後回しにして、自分のことばかり考えて振る舞っていた――戻りたい、過去へ。でももう戻れない。


 悔恨に浸るうちに、鼻の奥がツンと痛くなってきた。頭がじんじんと痺れ出す。


「ゆう君……ゆう君、もういいよ」


 気づけば頬を流れる、温かい感触がある。


 未鳥は優記の膝の上へよじ登って、頬に手を触れた。

 指先は少し冷えている。冷たいものばかり食べたせいだろうか。

 未鳥が「れっ」と小さく舌を突き出して、そっと、涙の軌跡をなぞる。

 吐息が熱く頬にかかって、優記はちょっとだけ震えた。


 目尻のぎりぎりにまで、未鳥の舌先は触れて、涙を舐め取る。


 未鳥がそうして己に触れると、優記は自分を苦しめる後悔や悲しみが、温かく溶かされるような心地になった。


「れろっ……ぺろ、ぺろ……んふ、……ふぅ」


 あまり、涙は出なかったと思う。


 そのせいなのか、未鳥は執拗に、物足りないと言わんばかりに、何度も何度も同じ場所を行ったり来たり、舌をめぐらせた。


 きっともう涙の味は消えて、汗すら舐め切って、皮膚の味しかしないだろうに。


 いつでもすぐに泣けるように、今度からワサビを持ち歩こう。

 優記がそんなことを心に決めた頃、やっと未鳥が顔を離して、膝から降りていく。


「ごちそうさま、ゆう君。……ごめんね、せっかくなのに、悲しいこと思い出させたよね」


「ううん、僕こそ……、あんまり出なくてごめん」


「いい。充分」


 未鳥が無理をして笑ったのが解かって、胸が痛んだ。


「だいじょうぶだよ、ゆう君」


 頼り無く笑う彼女を恐れるべき相手とは到底思えない。

 

 だから優記は、己の感じるままに、未鳥を信じようと決めた。

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