Episode:02-05 夜の訪問者

 からかわれたせいで、肝心なことは何も聞けなかった。


 吸血鬼のこと。未鳥のこと――。


 放課後に改めて訪ねると、未鳥だけが保健室で待っていた。

 学校の仕事があるのか、例の姿は無い。


「帰ろっ、ゆう君」


 本棚に本を戻して未鳥が飛びつく。

 あの忌まわしい健康器具は見当たらないから、怒り狂った未鳥が捨てるか隠すかしてしまったのだろう。

 こんな小さな女の子があんなに足ツボが気持ち良いとは、なんだか意外だ。


「う……」


 未鳥のつやっぽい声を思い出してしまって、耳の先まで熱くなる。


「どしたの?」


「ん、ううん。晩御飯、今日はハンバーグだけど、パンとゴハンどっちがいい?」


「ん~、パンっ!」


「じゃ、スーパー寄って帰ろう。せっかくだし、パン屋さんでもいいかな」


「うん♪」


 自然と手をつないで、夕暮れの町へ出て行く。

 この姿、兄と妹に見えるだろうな、きっと。優記はそう思って頭を振る。

 ううん、でも、僕と未鳥じゃあまりに似ていない。

 未鳥は少し現実離れした、美貌の萌芽みたいなものを幼いかたちの中に潜めているから。自分自身、それと気づいていないような、かすかなきざし……。

 自分みたいな凡人では、きっと手の届かないくらい綺麗な女の子に育つのだろう。

 ――……育つの、だろうか。未鳥はどうして、幼い姿を保っているのか。


 聞いてはいけない気がして、優記はまだ聞くことが出来ない。


 「学校、今日はどうだった?」


 未鳥が気遣わしげに見上げる。微笑みを返して、


「ん。大丈夫。普通にいられた」


 少し見栄をはって答える。

 本音を言えば、今日は疲れた。

 色々あったけど……久しぶりに登校したのは、やっぱり緊張した。

 遠慮がちに、普段付き合いのある友人から声をかけられた。

 質問はほとんど未鳥のことだ。

 未鳥のことは親戚から預かっている従妹だと答えた。すると、両親を失ったばかりなのに面倒ごとを押し付けられるなんて、といわんばかりの眼差しを浴びるはめになった。

 でも、だからと言って、気分を害したわけじゃない。


 うんうん、分かるよ、僕だってきっと同じ立場だったらそう思う――。

 優記は彼らを理解した。無神経だとか、不謹慎だとか、そんなふうに他人の感情を縛れないのは知っている。だから、腹立たしくはない。


「未鳥は? 保健室で、どうだった?」


「んーとね、アキラさんと桃鉄した」


「ゲームなんか持ち込んでたのか……」


 ほんとうに呆れた人だ。


「だいじょうぶよ。キングボンビーつけてやったから」


「それは、いい気味だね」


 笑いあって、和やかに、二人は雑踏へまぎれていく。

 どこかでもう夕飯の支度をしている良い匂いがする。

 部活動で走りこみをする集団とすれ違う。

 不思議と穏やかな気持ちだった。

 未鳥とつないだ手が温かい。

 こうして誰かと手をつなぐなんて、久しぶりだ。

 いつしか優記は父や母とも、手をつながなくなっていた。

 触れ合うことさえ滅多にない。どうしてだろう……。

 もっともっと、触れておけばよかったのに。

 体温や感触を覚えておけばよかったのに……。

 もう、思い出せない。


「ゆう君って、ハンバーグ作れるのね。すごい。成長だ」


「ん? 作れないよ。今日がはじめて」


「えっ!」


「だから、レシピを見て、二人で作ろう」


「なーんだ、そういうこと。いいよっ。一緒に作ろうね」


「うん。頼りにしてるよ」


「んはは、任せなさい!」


 この前台所を壊滅させたばかりなのに、未鳥は自信たっぷりに薄い胸を叩く。



 涙を分泌するために玉ねぎを切る必要はないかもしれない。

 でも、両親のことを考えて涙するのは、心身共に疲れる。

 あまり考えないようにしておけば、向き合わなければ、悲しい気持ちもひとまずはどこかにしまっておける。泣かずに済む――。


 だから、その必要もないのに、今日もどっさり玉ねぎを切ってしまった。


 大丈夫、これなら心を痛めず泣くことができる。

 夢の中でまで自制できればよかったのだが――。


 起きているあいだ蓋を閉めていた反動か、今日の夢は幸福だった時を、まだ守られていた少年時代を、あるいは両親へ対して心残りとなった出来事をこれでもかと展開していた。


 まるで惨い行いを無理やり見せ付ける嫌がらせみたいに。

 優記の心を取り出して大根おろしで摩り下ろすみたいに。


 痛みのあまりに目が覚めて、傍らに未鳥が寝ていたから叫ばずに済んだ。

 もし一人ぼっちだったら近所に迷惑をかけてしまうくらい喚いていただろう。

 心臓がどくどくと早鐘を打っている。喉がからからだ。


 窓の外に、まだ朝の気配はない。

 月がぽっかりと浮かんで部屋を照らしている。


 自身に張り付く軽いからだをそっと剥がして優記は階下へ向かう。

 この家はやっぱり二人では広すぎると思う。

 しんと静まり返ったキッチンで水を飲む。


 未鳥と暮らしていて本当によかった。

 がらんとしたダイニングで、未鳥とのやりとりを思い出していれば、両親との記憶と向き合わなくて済む。むやみに思い出さずに済む。


「っはぁ……」


 コップ一杯分の水を飲みほして立ち尽くした。

 微妙な時間だ。寝たら寝すぎてしまいそうだけど、起きていたら明日一日中あくびをしてしまいそう。でも、一番はまた夢を見るのが怖くて、眠りたくなかった。

 未鳥を起こしても悪いし――何か本でも読んでいようかな。


 そう思って廊下へ出て、玄関のすりガラス越しに人のかたちが見えてぎょっとした。とっさのことに悲鳴も出ない。

 ばくばくと心臓が跳ねて、身動きが取れなくなった。


 見間違いであれと願ったが、ガラス越しの影は見れば見るほど現実感を持っている。今にも軽く戸を叩く、コンコンという音が控えめに廊下に届いた。


「あのさー。あーけーて。あそびに来たよ、アキラだよー」


「……はあ?」


 影が喋った。


「あれー、通じないかな。養護教諭の小時田玲だよ~」


「……今何時だと思ってますか?」


「四時」


 即答だ。だから何、と言わんばかりの即答だ。

 非常識な人なんだな、と心底で実感できた。


 まあ知らない顔でもないし、いつまでも外で騒がれても近所に迷惑だからと、優記は鍵を開けて彼女を招いた。白衣は着ていないけれど、服装は今日と同じものだ。


「っていうか、どうして僕の家を……うわ、酒くさいですね」


「へへへへへー、飲み会だったのだー」


 そのノリでやって来たのか。優記は納得する。

 玲は玄関の式台に腰かけて足を投げ出した。ストッキングに包まれ肉感の強調されたふくらはぎが妙に目に眩しくて優記はさりげなく目をそらす。


「ほれ、きみも座りなさい」


 いきなり年長者ぶって言う。

 従わないと面倒臭そうだから、おとなしく隣に腰かけた。


「いけませんなぁ、きみ。いたいけな幼女とふらりぐらりなんて」


「はあ? なんて?」


「いたいけな、よーじょと、ふたりぐらり!」


 二人暮らし、と言いたいのだとやっと理解した。呂律まわってないなあ。


「……未鳥の親は、心配してますか」


「んー、まあねえ。心配してるけど、させとけばいーんじゃない」


「なにか、家庭環境が複雑そうなんですけど……」


 せっかくのこの機会だし、酒に酔って口が軽そうだし、気になっていたことを訪ねた。すると、玲は己のブラウスのボタンを二つ軽やかに外して首筋をあらわにする。


「あー、暑い暑い」


 ……回答が得られない。

 僕の質問、聞こえているんだろうか? 優記は不安を感じる。

 不安は的中していて、いつまでたっても玲は回答を寄越さなかった。

 諦めて次の話題へうつる。


「そうだ。僕の家をどこで知ったんですか」


「グーグルマップでみた」


 と言ってサムズアップを決めた。本当かなあ?


 未鳥について聞きたいことは山ほどあるのに、この人に尋ねるのはなんだかズルっこのように思えて躊躇われた。それに、なんだか一言一言が軽薄で信用ならない気がする。


「質問が選べないって顔だねえ?」


「ええ、まあ……」


「ググればいいと思うよ」


「……そうします」


 考えてみれば、自分はそれほど未鳥のことを知りたいわけじゃないのかもしれない。そばにいて、楽しそうにしてくれる。それだけで十分な気がした。

 未鳥に何か隠していることがあっても、未鳥から言い出すまでは待っていればいい。優記にはそれが一番の結論に思えた。


「先生、早く帰らないと、明日出勤がつらくなりますよ」


「ええー。いいじゃん泊めてよぉ」


「困ります」


 未鳥はともかく、まだ知り合ったばかりの異性を泊めるのは抵抗があった。


「なんで? ドキドキしちゃうから?」


「違います!」


 気づけばブラウスのボタンはほとんどが外れて、豊満な乳房が圧倒的な存在感を放ってブラに収まっているさまが見える。

 真っ白な清純そうな肌を包むのは黒い総レースのブラで、谷間の陰影までくっきり見えるほどにカップが浅い。はっきり言って下品だった。


「あー、赤くなってるー」


 趣味じゃないのに、刺激は強かった。

 指摘されて優記はますますテンパって、頭に血が上るのを自覚する。


「いいんだよーもっと見ても。それで、お返しにアタシにいいものをちょうだい?」


 そっとしなだれかかってくる。

 肩に乳房のずっしりした重みを感じた。

 そのまま玲は優記を押し倒すと、体で覆うように組み敷いた。

 彼の右手首を細い指で捕まえてしまう。


「へへへへー、かわいいねえ」


 今、優記の視界に入るものは玲の乳房と上機嫌な笑顔だけだ。

 今から何をされるのか、焦りに声も上げられなかった。


「みぃちゃんもずるいんだ。自分だけ、こんなおいしそうな提供者、いつの間に見つけたんだろ」


 彼女は優記の頬を舌先でくすぐるように舐めた。

 ぞ、と首筋に鳥肌が走る。

 それは嫌悪感によるもので、いつも未鳥にされていることがどうしてこんなに嫌なのか不思議だった。


「だいじょーぶ。アタシが欲しいものってたぶん君は要らないものだろうし、おとなしくしてればそれこそ一分で昇天させたげる」


 ばふっ。


 顔の上に何か重たい暑い柔らかいものがのしかかる。

 それが玲の乳房だと気づくまでに時間はそうかからなかった。


 あんなに柔らかそうに見えても、顔の上に伸し掛かられると呼吸が塞がれて苦しくなるのだ、と優記はこのとき初めて知った。


「むー! むうう、むーーー!」


「舐めてもいいけど、歯は立てちゃヤだよ」


 そんなことを伝えたいわけじゃない。苦しい。呼吸ができない。

 乳房はみっちりと鼻や口を圧迫してくる。

 このままだと死ぬかもしれないな、と頭の隅で思った。

 遠のいていく意識のさなか、優記は己のズボンに玲の指がかかるのを感じた。


「いただきまーす」


「(あっ)」


 すごい恥ずかしい場所を触られていると思うのに身をよじることもできない。

 なんとなく百合の花の散る光景が瞼の裏に浮かんだ。


「だめぇぇぇぇぇ!」


 絹を裂くような悲鳴――は、優記のものではない。

 何せ口を塞がれているのだから。


「だめだってばぁぁ―――――――――――!」


 それは未鳥の叫び声だった。

 未鳥の声が聞こえて安心して、優記は脱力してしまう。。


「あらら」


 先生はあっさりと優記を解放すると、ブラウスを直して身づくろいをした。


「まーた邪魔されちゃったよ」


「何してんのよぉ! どうしてアキラさんがここに居るの!」


「いやー飲み会の帰りにちょっと立ち寄ってみたらゆう君が起きてたから。これ幸いと思って締めを頂こうかなって?」


 飲み会の締めに頂かないでほしい。僕は炭水化物じゃない。

 優記は憮然とそう思う。


「ま、頂こうとおもったのはたんぱく質なんだけど?」


「うるさーいっ! 言い訳無用! 早く帰って! あっち行ってゆう君に触らないで!」


 寝癖のついた髪を振り乱し未鳥が怒鳴る。

 耳を人差し指でふさいで涼しい顔をしたまま玲は立ち上がった。


「ちぇ。みぃちゃん独り占めなんてずるいぞ。今度でいいから、きっと分けてよね」


「あげないもん! ゆう君はわたしのなんだから!」


 ……なんだか恥ずかしい宣言をされた。

 優記はどういう顔をしていいか分からずに俯いてしまう。


 気をそがれた様子で玲は肩をすくめ、「おやすみ」と言い残して玄関を出ていく。

 気が立ったままの未鳥は、彼女の影が見えなくなるまでずっとそこで仁王立ちしていた。


「……行ったみたいね。ゆう君、大丈夫だった? 怪我はない?」


「ああ、うん、へいき……」


 差しのべられた手をとって体を起こし、立ち上がる。

 ようやく、未鳥がほっとしたように表情を和らげた。


 ――また未鳥に助けられちゃったな。情けない……。


「怪我はないけど、なんだか寒気がするかも――って、うわ!?」


 玲にずり下げられたズボンがそのままになって、立ち上がった拍子に足元へ落ちた。あらわになった下半身が未鳥の目前にさらされる。

 未鳥の顔が見てわかるほど一瞬で真っ赤になった。

 彼女は瞬きもできずに目をむいている。


「ゆう君の……えっち!!」


 髪を逆立てて叫ぶ。耳がくわんくわんするほどの大音声だった。

 慌ててズボンを履き直す。

 未鳥は今見たものを脳裏から消し去りたい様子で、今更手遅れなのに両目を手のひらで塞いでいた。


 無事に済んだかと思ったのに、まさかこんな傷を負うことになるとは。


 ――恥ずかしくて涙が出る。

 優記は心底からの情けなさを涙に変えて目じりに浮かばせた。


 すん、と鼻を鳴らすと、未鳥が気づいて顔を上げる。


「泣いてるの?」


「情けなくて涙が出てきた」


「情けないときも、涙が出るのね。……舐めていい?」


 もう先刻見た光景は忘れたみたいに未鳥はけろっとして尋ねる。

 お詫びになるなら、と思って優記は頷いた。


「♪」


 未鳥は優記の袖を引き、高さを合わせるように催促する。

 身をかがめて頬を差し出すと、未鳥のちいちゃな舌先が肌の上を滑って涙をぬぐった。玲がしたときは嫌悪感で震えたのに、未鳥が同じことをしてもぜんぜん不安がない。


「ぺろ……ぺろぺろっ。ちゅ……」


 未鳥に『ぺろぺろ』されると、優記は段々と落ち着いて眠たくなってきた。

 ほんの少しだけこぼれた涙を拭い去って、未鳥も満足そうに息を吐く。


「はやく寝ないと、朝が来ちゃうよ」


「そうだね。急ごう」


 未鳥に手を引かれて部屋へ戻る。

 悪夢の余韻はすっかり消えて、朝までぐっすり眠れそうだと思った。

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