Episode:02-03 舌と指


 アキラさんも吸血鬼なの、と未鳥は説明をはじめた。


「わたしの親戚。あのね、吸血鬼っていっぱいいるの。学校に一人や二人混じってても不思議じゃないよ」


「そんなにいるの?」


「うん。みんな気づいてないけど、いるよ。普通の人は気づかない。気づかれないようにしてるの、わたしたちが。……同じ場所で一緒に暮らせるように」


「そうなんだ」


 間抜けな返事しかできない。

 どこまでが正気でどこからが空想かの区別がつかなかった。

 玲が未鳥の家庭教師なら口裏を合わせることもできるけど、そこまでしてお芝居を打つ理由が分からない。

 自分を騙したところで何も良いことはないし――あ、遺産かな。

 なんて、優記は我ながら不謹慎な思いつきにひっそりと笑う。


 帰りがけにスーパーに寄って買い物をした。

 ばら売りのタマネギを未鳥が何個もカゴへ入れる。


「タマネギ、みじん切りね」


「どうして?」


「すきなの!」


 わかったよと請け合って、先生の話はそれきりおしまいになった。

 彼女はどうやら未鳥の家出を心配しているお姉さんのような存在らしい。

 優記は危うく血を吸われるところを未鳥に助けてもらったのだ。

 うやむやになってしまって、まだありがとうを言えていない。



 家に帰って台所へ向かって、さて、どうしようと腕を組む。

 みじん切りって、ただ細かく切れば良いんだっけ。

 カレーを作るのに何から手をつければ分からなくてルーの外箱とにらめっこをした。


「わたしに貸して! わたしが作る」


 未鳥の申し出はありがたく気持ちだけ受け取る。


「包丁は危ないから、未鳥は味見係ね」


「また、子ども扱いして! あのねぇ、言っておくけど、わたしはゆう君と同い年なんだからねっ」


「同い年の女の子だって料理が不得手な子もいるよ。僕は料理上手の女の子にまだ会ったことがないなあ」


 そういえば、母さんはいつから料理上手になったんだろう。

 唐突に優記は疑問に思う。結婚してからかな。母さんの料理がまずかったときは、それは僕が苦手な食材が入っていたときだ。

 母さんの料理の腕前は文句なしだった。

 でも、誰にでも『初めて』はある。


「みじん切り……」


 外箱のとおりに食材に手をつける。タマネギのみじん切りに挑戦だ。

 未鳥が離れたところから見つめている。なぜかイーッと歯をむいていた。


「猿の威嚇?」


「違うっ! いいから、みじん切りっ! タマネギ、タマネギ!」


 未鳥の熱烈なリクエストに応える。

 タマネギのみじん切りが好きだなんて不思議な子だ。

 危なっかしくも、家庭科の調理実習を思い出しながら包丁を扱う。


「ええと、猫の手……」


 何故猫の手にする必要があるかは判らないまま拳を握り、いざ包丁を入れた。

 さく、さく、さく。少しずつ細かくしていく。


「うっ……」


 じんわりと鼻の奥に広がる刺激に優記はひるんだ。痛い。目が痛い。

 タマネギを切ると涙が出るって言うけど、こんなに強烈な刺激だったっけ。

 もう前が見えないほど涙が滲んでいた。


「ゆう君っ、ゆう君こっち」


「なに? 未鳥」


 未鳥が腕を引くまましゃがむと、彼女は短い舌を突き出して優記の目じりを舐めた。


「こっち側もっ」


 逆を向かされ、左右とも涙を舐め取られる。


「ごちそうさま~」


 ご満悦だ。

 頬にまだ未鳥の舌の熱さが残っていて、どぎまぎする心を落ち着けるために優記はなんてことないように尋ねた。


「もしかして、タマネギのみじん切りが好きってこういう……?」


「うんっ! あ、ううんっ、ちゃんとタマネギも好きだよ!」


 タマネギも、か。――まあ、未鳥が満足なら何でもいいや。


「未鳥は、タマネギ、目に染みない?」


「あのね、イーッてしてるとね、染みにくいんだって」


「へぇ」


「でもね、ゆう君はやっちゃダメ。ゆう君が泣いてくれたら、わたしがちゃんと貰うからね。ゆう君の涙はぜんぶ頂戴」


「はい、はい」


 せっかく裏技を教えてもらったのに実践できないなんて。

 やっぱり涙は滲んできて、未鳥は嬉しそうに優記の腕に手をついた。

 ゴハンを待ちかねる子犬みたいな仕草に笑ってしまう。


「かがんで、ゆう君。もう、こんなに背が伸びたなんてきいてない。不便だな」


「理不尽なことを言うなよ。それに、僕、これでも背は伸びてないほうだぞ」


 変なことを誇ってしまった。


「それにさ、未鳥……」


「なに?」


 もう出しかけていた舌先をひっこめて、首をかしげる。


「その、あの――相談なんだけど」


「はやくして。涙が乾いちゃう」


「ああ、うん。どうしてもその食べ方なの? もっと、何か、ほかの……」


「だめ?」


 キスよりも過激な行為かもしれない。


 そう意識してから、落ち着かない気持ちになってしまった。

 行為そのものに至ってしまえば、不思議と心地よいものなのだけど――それこそが、何かいけないことに思えて、躊躇する。こういう触れ合い方を気安くしてはいけないと倫理観が優記を引き止めた。それに、何より、恥ずかしいし……。照れくさいし――。


「じゃあ、どういうのがいい?」


「ぼ、僕が拭うから。ほら」


 目じりから涙をぬぐった指先を未鳥へ差し出す。


「ん」


 未鳥は優記の手首を掴むと、そのままぱくりと指に食いついた。

 付け根まで全部口の中に入ってしまう。


「うわ!?」


 未鳥の暖かい口内と舌にねぶられる感触に体がカッと熱くなった。


「んーっ、ちゅっ」


 ちゅぽっ、と軽快な音を立てて指を放す。


「うぁあ、ナマねぎの味……からい」


 べ、と舌を出して眉を寄せた。


「し、仕方ないだろ。今切ってるんだから」


「だけどぉ」


「じゃ、未鳥の指で取ってよ」


「むー。わかった」


 手が届くように腰をかがめた。

 未鳥は腕をいっぱいに伸ばして、小指の先で目じりを拭う。


「ん」


 思わず瞼が震えた。未鳥の指は冷たい。


「いただきます」


 囁いて、自分の小指を口に含む。

 白い指を這う赤い舌の動きに目が釘付けになった。

 いやらしい妄想をかきたてられる動きだった。

 下卑た妄想を追い出すように優記は慌てて頭を振る。


「んー。やっぱり、いつも通りのほうが、余さず全部わたしのものにできるから」


「そ、そっか。わかった」


「うん♪」


 未鳥は椅子をひいてそこへ立つ。

 優記より背が高くなって、上体をかがめて彼の目じりを狙う。


「いただきます」


 優記の視界いっぱいに、赤い色が迫る。



 未鳥は終始ご機嫌だった。

 みじん切りで作ったカレーは優記もはじめて食べるけど、中々悪くない。


「んふふっ。おいし~」


「それはどーも」


 テーブルの下で足をぶらぶらさせて、いかにも子供っぽい。

 でもそれを指摘するときっとむきになるだろうから、黙っておく。

 さっき散々『食事』をしたくせに、未鳥はカレーもきっちり完食した。

 その様子を見ていると、やっぱり吸血鬼だなんて話が怪しく思えてくる。


「ねえ、未鳥」


「んー?」


「未鳥のごはんは、その……」


「うん? ゆう君の涙だよ」


「でも、普通は血なんだよね?」


「わたしは、血なんか飲まないの!」


「ご、ごめん。僕の涙がゴハン、でしょ?」


「そ!」


 食事を終えて満足そうな未鳥が、畳に寝そべったまま矛盾した答えをかえす。


「じゃあさ、カレーとか、ファミレスでのご飯とかは、どうして食べるの?」


「美味しいから!」


「えっ」


 こともなげに言う。


「ゆう君、気になるの? わたしのこと、キョーミある?」


「あるよ。だって、吸血鬼……とか、言うんだもん。気になるよ。そうだろ?」


「そーだよねぇ」


 がばっと上体を起こして神妙な顔つきになった。


「んーとね。吸血鬼……ていう呼びかたも、ほんとは正しくないんだけど。ヤヤコシイから、みんな吸血鬼って呼ぶ。似てるからね、習性が。でね、わたしがゴハン――ゆう君の涙を食べるのは、そのほかのゴハンを栄養に変えるため」


「ふぅん?」


「ん~~、なんだろう。ヒトと同じゴハンは必要なの。でも、それだけだと、栄養失調で死んじゃうの」


「えっ」


「よくわかんないんだけど。そういうからだの仕組み。栄養を体に吸収するために、血――ん、ゆう君の涙が必要。わかる?」


「なんとなく……どっちも必要ってことは納得したよ」


「うん。おそまつさまです」


 ごろんっ。また畳に寝そべって、ごろごろしている。

 髪と服の装飾がからまっていく。

 あれを後でほどくのは、たぶん、僕なんだろうなあ……。

 優記は嘆息して、でもこの状況を楽しんでいる自分に気付く。

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