Episode:02-02 危うくあやしい朝ごはん


 教室の前まで行ったのに、ドアをくぐるのが怖かった。

 立ち尽くしているうちに気分が悪くなって結局踵を返し、玄関へ向かうも思いとどまって保健室へと足を向けた。


 このまま帰ってしまうよりは、と思った。

 保健室へ一時待避して様子を見よう。


 スライドドアを開くと、デスクに掛ける先生の姿が視界に飛び込んだ。


「おや。またきみか~。どうしたの?」


 優記の顔を見てにっこりと笑う。つい先日早退した際も一度保健室へ寄ったから、彼女も優記を覚えていたようだ。

 保健室には養護教諭一人のみで、生徒の姿はない。彼女はまだ若いのに落ち着きのある雰囲気だ。黒い髪で、眼鏡をかけていて、大人しそうだから時折不良な生徒にからかわれているけど、すぐに笑って許してしまう。穏やかな性格なのだろう。


 教諭は椅子を立って優記に駆け寄った。


「顔色悪いよ。どした? 大丈夫?」


「あ、あの、えと……」


 暖かな指がそっと優記の前髪を掻き分ける。

 不意な接近にどぎまぎしてうまく状況の説明ができなかった。


「えと、気分悪くなっちゃって……教室の前で……」


「そっか……」


 深刻そうな吐息に、なにか誤解を受けた気がした。

 イジメとかじゃないんです、先生。ごめんなさい……。


「いいよ、だいじょうぶ。先生はきみの味方だよ」


 先生はクスっと笑う。そんな大げさなものじゃないのに。

 優記は恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちになる。


「座って座って。保健室利用の紙を渡せば怒られないから、ゆっくりして行っちゃえ。えっと、なに君だっけ? ごめん」


「あ、はい。えと……一年B組、広瀬優記です」


「そう。広瀬君。紙に書いておいて」


「あ、はい」


 わら半紙の書類にボールペンで記入する。

 どこの誰で何が目的でどんな処置をされたのか、項目を埋める。

 少しベッドに横になれればありがたいな。

 そう思いつつそつなく書き終え、指示を待つ。


「熱、測ってみよっか? んー、ちょっと熱いし……」


 ごく間近で再び彼女の手が額に触れる。吐息が耳にかかって背筋がぞっとした。

 意図しない反応が恥ずかしい。

 顔を上げると、すぐ間近に白衣の胸元が見えた。

 薄いシャツの向こうにブラの柄がうっすらと浮かんでいる。

 意外と派手な装飾付きだ。想像も及ばない柔らかさを予感させるふくらみが、目の前でたわんと揺れる。

 窓から差す日を受けてプラスチックの名札が光った。

 小時田玲の字が目に飛び込む――。


「あ、の? 先生?」


 名札の文字がどんどん近づいてくる。


「だいじょーぶ、ちょっと横になれば治るよ」


「え?」


 玲はペンを持つ優記の手に手を重ねた。

 真っ白でしなやかな長い指が、ほかの生徒とは違って大人だなと感じさせる。

 爪もピカピカ光っていて綺麗で、手入れが行き届いている女の人の指だ。

 指輪はどこにも嵌めていない。

 結婚していても不思議ではない歳に思えるけど、まだ若いのかもしれない。


「先生が一緒に寝てあげるから。すぐよくなるよ」


 カーテンを引いて、彼女は綺麗に整ったパイプベッドを優記へ示した。


「はい、ここに寝て。靴脱いでね、あと上着も。先生が広瀬君の悪いとこ、全部消毒してあげるからね」


「え? 消毒?」


 気分が悪いと言ったはずだが――優記は首をひねる。

 そういう症状に対して消毒って正しい判断だろうか?


 頭はジリジリと痺れていて、どこかふわふわとした心地のよさにとらわれていて、玲の言葉を深く疑わずに従った。


 上着と上履きを脱いでベッドに身を横たえる。


 玲が後ろ手にカーテンを閉めて、意味ありげに微笑んだ。

 消毒液も綿棒もデスクに置いたままで、一体どうやって消毒するのだろう。


「怖い? でも、平気だよ。広瀬君は先生にぜんぶ任せて。大丈夫、はじめては誰でもちょっと痛いものだもの、恥ずかしくないわ」


 白衣を脱ぐとはっきりした身体のラインが良く分かった。

 シャツはぴったりと体に張り付いていて、スカートはタイトなミニだ。

 白衣の印象で分からなかったけど、先生は結構大胆な服を着ている。

 成熟した身体のめりはりがよく分かる。


「リラックスしてね……うふふ、赤くなっちゃって、カワイイ」


 彼女は腕にはめていたヘアゴムを咥えた。

 膝をベッドにかけて、優記を覗き込むように見つめる。

 両手で髪を束ねると咥えていたヘアゴムでひとつにまとめた。

 細い首筋が露わになる。


「あの……せん、せい?」


「なあに?」


 少し首をかしげると、後れ毛がはらりと垂れ下がった。

 心臓がドキドキ弾んで、風邪を引いたときみたいに体がだるい。

 もしかして本当に風邪だったりして……。


 ぎし、とベッドが軋む。

 玲が優記の腰にまたがると、タイトスカートの裾が危ういところまで引っ張られてしまう。


「味見くらい、いいよね。朝ごはんまだだし……」


 上体をかがめる。豊満な乳房が優記の胸に重なる。

 意外な重さに息が苦しくなった。玲の指が優記のシャツのボタンを二つ、鮮やかに外してしまう。整った大人の指が首筋をまさぐった。くすぐったい。

 身をよじりたいのに、玲の体が優記を押さえつけて自由を奪う。


「せ、んせ……」


 ひとかけらの理性が恐怖に染まっていく。

 何をされるんだろう。

 これは絶対に消毒なんかじゃない。保険医のやることじゃない。

 そう理解しているのに、すべて身をゆだねてしまえと囁く自分が膨らんでいく。


「んー、こっちにしておくかなぁ……。でも、傷つけちゃうのも可哀想だもんなぁ」

 ぺろり、と舌が首筋を舐め上げた。ひ、と喉の奥が引きつる。


「やっぱり、こっちかなぁ~」


 先生の手が太ももを撫で回した。

 少しずつ手の平が太ももを這い登り、内側へと滑っていく。


「広瀬君は、ドーテー?」


「はっ……はい?」


「だ、か、ら、童貞?」


「そ、そうです」


 答えたくないのに、勝手に舌が動く。

 先生がチロリと舌舐めずりをした。


「最高」


 獰猛な微笑み。


「新鮮で健全なカラダなんだね。感心、感心」


「あの、何の話を……」


「そう、なにの話だよ。先生はねぇ、血よりもコッチのほうが好きなんだ。風味とか、喉越しとかさぁ、血じゃ物足りないの。それに、一方的じゃないカンジが良いよね。先生も嬉しい、キミも気持ち良い。どう、フェアだよね? 損はさせないと思うの。スッキリするよ?」


「な――? ひっ!」


 他人には触らせないようなところを玲の手が触れる。

 かたちを確かめるみたいに包まれ、優記はもう動けない。

 痛いことを予感したときみたいに全身緊張して身構えている。


「ふふっ。かわい……。いただきまぁす」


 笑う。玲は大きく口を開いた。

 赤い口腔の縁に、人とは思えない鋭い犬歯が覗く。

 未鳥と一緒だ。


「み――……」


 未鳥。彼女の顔が思い浮かぶ。

 途端に頭の中が未鳥でいっぱいになった。

 今にもはじけてしまいそうで、叫ばずにはいられない。


「未鳥!」


 自分の声の大きさに驚いて目をむく。

 玲も驚いた顔をしていた。

 突然カーテンが開いて、差し込んだ陽光に目が眩む。

 逆光の中、ひどくちいさな人影を見つけた。


「何やってるのよ、あんたたち!!」


 体中を怒りに震わせて、未鳥がそこに立っていた。



「みっ、未鳥!?」


「ゆう君! 何してるの! どういう状況なの、これは!」


 校庭へ向かう窓が開け放たれて風が吹き込む。

 未鳥の豊かな髪がはたはたとなびく。


「あれっ!? 分かんない、どういう状況、これ!?」


 なんでベッドに組み敷かれているんだろう。


「あー、やらかしたわぁ」


 ふっと体の上から圧迫感が消える。

 玲が体を起こしてベッドに座った。

 慌てて優記も起き上がってシャツのボタンを留める。


「アキラさんっ! ちゃんと説明して!」


 誰――?

 尋ねかけた優記を玲が振り返って笑う。

 羽織りなおした白衣の胸、プラスチック製の名札をつまんで見せた。


「小時田玲、レイじゃなくてアキラ」


「あ、え、そうなんですか。へー」


 生返事のお手本を演じた優記を、未鳥がキッとにらむ。


「ゆう君、やらしい。おっぱい見てた」


「ちがっ、名札、名札見てたの。未鳥、なんで学校に来たんだよ」


「ゆう君が危ないって思ったからだよ。セーフだったでしょ、わたしちゃんと間に合ったのに!」


 優記にはまだ何の話か分からない。僕の貞操がセーフだった話か。


「あら! みぃちゃんはそう思うの? セーフだったかなあ、どうかなぁ? この年頃の男の子なんてね、一分もかからないんだから」


「何の話!?」


「な、に、の話かな~?」


 優記もようやく卑猥な話題だと気づいた。

 未鳥はぜんぜん判らないみたいで、からかわれたのだと思って怒っている。


「アキラさんはもうっ、いっつもそう! わたしのことばかにして! もうおとななのに!」


「はいはい、みぃちゃんおっとな~」


「みぃちゃんって呼ぶのもやめるって約束したでしょ!!」


 どうやら二人は知り合いのようだ。

 玲は普段の清純な印象を受ける保険医とは別の顔を覗かせている。

 きっとこっちが素の性格だ。


「ええと、じゃあ、未鳥は……助けに来てくれたの?」


 つまり僕は、襲われていたのか。優記はようやく理解する。


「そうだよ! まさか、アキラさんが襲ってるなんて……」


「襲ってなんかないよぉ、人聞き悪いよ~」


「アキラさん!」


 彼女は髪を解いてすっかり普段の『保健室の先生』に戻っている。

 さっきまでの妖艶な気配はすっかり消え去って、少し鈍そうな雰囲気を取り戻していた。


「パパに頼まれてやったの!?」


「アタシは本家とは関係は切れてるもん。個人的な行動だよー」


 全然何の話か分からない。完全に置いてきぼりだ。

 ぽつねんとした優記に気づいて玲は囁いた。


「あのねえ、アタシはみぃちゃんの家庭教師なの」


「はあ」


「みぃちゃんが家出したのを心配したみぃちゃんのパパは大慌てよ。こんなに慌てている彼見たことないってくらい。せっかくだから、みぃちゃんの騎士様の顔を拝んどこうかなって? ついでにできたら味見もしようかなって?」


「しないで!」


 未鳥が机を叩く。ぴしぃ、と非力そうな音が立った。


「パパに頼まれたわけじゃないのよね?」


 玲は白衣を翻して立ち上がる。答えるまでもないと無言を貫いている。


「卑怯なんだから。パパのそういうところ、わたしは大嫌いなの」


「慎重な人なのよ」


 冷蔵庫から銀色のパックを取り出した。

 よくゼリー飲料が入っているパウチ容器だ。

 未鳥がなぜか顔をしかめて目をそらした。

 彼女は慣れた手つきでキャップを外して口をつける。


「朝ごはん。広瀬君も食べる?」


 優記の視線に気づいて問う。慌ててかぶりを振って視線をそらした。


「い、いりません」


「みぃちゃんは?」


「要らない! わたしは、人の血は飲まないって決めたの!」


「ひ、人の血?」


 咄嗟にあの銀色のパックの中に入っているものを想像する。

 再び視線を戻した優記へ、玲は意味深に笑った。


「中身、気になる? トマトジュースだよ~」


 不機嫌そうな未鳥を伺う。

 不機嫌なときの未鳥は昔からどんな無茶をするかわからない。

 優記は己の体に染み付いた条件反射でつい身構えてしまう。

 未鳥は黙り込んで玲を見上げていた。


「アタシもみぃのこと心配してる。それだけ分かっておいて」


 玲は空になったパックをゴミ箱へ投げ入れる。


「イヤ。知らない」


 ぷいっと顔をそらした。玲は苦笑する。


「……帰る」


「あ……未鳥」


 気づけば一時間目も終わろうとしている。

 なんだか気が抜けてしまって、とても教室へ行って今日一日を過ごす元気がなくなっていた。


「僕も――帰るよ」


「体調不良で早退ね。担任に伝えておく」


「あ、ありがとうございます」


 玲が軽やかに書類を書き換える。未鳥は振り返りもしないで窓から出て行った。

 優記も慌てて追いかけて、上履きのまま外へ出る。

 ――靴は玄関だけど……ま、いいや。

 明日ちゃんと取りに来よう。今日はもう帰ろう。


「ゆう君も帰るの?」


「うん。お昼ごはん、何がいい?」


「……カレー」


「わかった。作るよ」


 結局登校できなかったけど、リハビリだと思えばいい。

 優記は前向きにそう考える。

 もう、今朝家を出たときの悲壮感じみた気分は消えて、少し気分が落ち着いていた。

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