Episode:01-04 涙の材料

 ぼさぼさの髪のまま、急いで道をたどった。

 昨日も同じように歩いた道を走って公園を目指す。


 なんとなく予感があった。

 未鳥はきっと、そこにいる。


 たどり着いた公園からは雨の匂いがした。周囲の土が水を含んでいるのだろう。


 開発予定地と施工開始時期を知らせる看板がまるで墓標みたいに突っ立っている。取り壊しを待つだけになった鳥籠みたいなジャングルジムのぽつんと佇む様子がいっそう寒々しい。


 未鳥は――

 いつかみたいに、ジャングルジムに腰かけて、風に髪をなびかせていた。


 ジャングルジムの傍らに大きな旅行鞄を立てかけて。

 よそいきの服を着て、未鳥は膝を抱えている。

 呼びかけたらたちまち消えてしまうような儚さを感じて、優記は立ち尽くしてしまう。


 初めて出会った日もそうだった。

 さみしそうな横顔を風にさらして、うつむいていた。

 でも、あの日のことは幻だったんじゃないかと優記は思っていた。

 だって知り合ってみると、彼女はとても活発で、気の強い女の子だったから。


 その女の子は、歳の割に大人びていて、男の子に混ざっても劣ることない活発さを発揮して皆を振り回していた。すばしっこくて、細くて軽いからだはかくれんぼにも木登りにも強かった。


 班分けをして遊ぶときはいつも女の子を取り合いになる。

 だけど、女の子は必ず優記のいるチームに来てくれた。

 優記が『ミソ』だから、バランスが均等になるようにと子供なりに公平心を働かせた結果だった。

 優記がチームに居るハンデを、その女の子で補う。そうすると丁度良くなった。


 女の子が僕を気に入っていたからではない――

 でも、そうであればいいなと心の中では思っていた。

 不名誉なポジションだけど、優記は女の子のことが大好きだったから、一緒のチームで遊べることがすごく嬉しかった。とても楽しかった。


 彼女のことを、みんなはよく知らなかった。同じ小学校だっていう子は一人も居なくて、だけどいつも公園に行けば大抵は会えたから気にしなかった。

 あんまりのろまな優記がいじめられると、決まって彼女が助けてくれた。

 身体の大きな男の子と取っ組み合って負かして、口喧嘩で打ちのめして、背中に優記をかまってくれた。


 二人きり、公園に残されて、未鳥は優記を慰めてくれる。

 そっと、涙を拭って。

 思い出せば気恥ずかしい、だけど今でも勇気付けられる、小さな未鳥と小さな自分の過去。

 時には未鳥も優記のことをからかっていじめた。

 だけど、許せないほど傷つけられたことはない。


 ――僕は未鳥が大好きだったんだ。

 未鳥のことを、慕っていた。

 未鳥はやっと優記に気付いて、ちょっとだけ目を見開く。


 様変わりした公園にショックを受けたのか、呆然とした表情でつぶやいた。


「いつから……」


 か細い問いかけに優記は答える。


「去年から。……三年くらい前、ここの遊具で事故が起きてさ。それかから少しずつ遊具が撤去されてこのありさま」


「そ、っか。やっぱり、長いなぁ、五年って。町並み、変わっちゃってるもんね」


 未鳥が来た道を振り返る。

 町並みが変わったと言われれば、確かにそうだ。

 だけど、優記はもうその景色に馴染んでしまって、昔はどういう姿をしていたのかを思い出せない。


 また未鳥に会えた。

 胸の奥が熱くなる。未鳥は幻じゃなく、存在している。


「……ごめんね、未鳥」


 謝罪を聞き届け、未鳥は小さく首を横に振った。


「未鳥。ごめん。僕、幼いころ、きみにひどいことを言ったよね。怖いって、嫌いって言った。でも、怯えていただけだったんだ。本心から嫌いなわけなかったんだよ」


 未鳥はぷるぷると首を横に振る。


「わたしこそ……ごめんね。……怖い思いをさせたよね。ごめんね」


 気の強い未鳥が今は心細げに膝を抱えて、たちまち泣きそうに声を震わせる。


「突然上り込んで、一緒に暮らすなんて、無理言ったよね。ごめんね……」


 優記はジャングルジムへ向かって歩き出す。

 改めてそばで見ると、昔はあんなに大きく思えたのに、ジャングルジムは妙に小さく感じられた。よじのぼって、錆びた鉄の匂いを感じる。それは血の匂いに似ている。


 確かに、幼いころは怖かったんだと思う。

 未鳥はその頃優記より背が高かったし、自信に満ちて言葉も強かった。

 だから、優記は気おくれしてばかりだ。


 でも今こうして隣に並ぶ未鳥は、とても小さな女の子だ。

 怯えることなんか何もない。

 幼い頃憧れ慕っていた未鳥が、こんなにちいさな存在だったなんて。


「ゆう君もさ……そんなに、背、伸びちゃって」


「でも、僕……前から三番目だよ。背の順」


「でもっ! それでも、こんなにさ……遠いんだもん」


 未鳥はうるんだ瞳で優記を見上げた。悔しさを瞳に滲ませて、唇を噛む。

 夕日を受けて淡い光に輪郭を模られた彼女が、この世のものではなく美しく感じられて胸が詰まる。


「未鳥……君は人間なの? 僕と同じ……?」


 優記は決定的な質問をした。

 少女は一瞬答えに詰まって目を閉じる。

 覚悟を決めたように顔を上げ、微笑んでみせる。


 それは、優記の記憶の中にはない、彼女の成長をうかがわせる表情だった。


「わたしのこと、怖い?」


「ちょっとだけ。でも、もっと怖いもの、知ってるから」


「もっと怖いもの?」


 未鳥は不思議そうに首をかしげた。

 優記は答えようと思うのに、息が詰まって沈黙してしまう。


「ゆう君……?」


 おそるおそる、未鳥は小さな手で優記の膝に触れた。

 そうして隣から彼の顔を窺い見る。

 優記を見上げる未鳥の頬に、涙のしずくが落ちた。


「君も、居なくなってしまう? 僕を一人ぼっちにする? 僕は、一人が怖いよ」


 この数日ですっかりばかになった涙腺が体中の水分を排出しようとする。

 優記の目は抗いようもなくそれをあふれさせ、ぽたぽたと頬へ流しだす。

 咄嗟に俯くと、いい加減学習してもいい頃なのに、また眼鏡がしずくで汚れた。


 胸が痛い。人間は悲しいとき、傷ついたときに胸が痛むって、そんなはずないだろうって思っていたのに。胸の中心に硬い金属がぐりぐりと押し付けられているような圧迫感のせいで息が詰まる。


「ゆう君……」


「未鳥、居なくならないで。僕を一人にしないで。寂しいんだ。僕、無理だ……。どうしたらいいか、分からないんだ。一人で居ると、どうしようもなく怖い。父さんと母さんが居ないこと、人が死んでしまうこと、骨になって元に戻らない……怖いよ。想像するんだ。二人が死んだときのこと。怖かっただろうなって、痛かっただろうなって、すごく嫌だっただろうな、まだ生きてやりたいことがあったはずなのに……助かりたかったはずなのに。どうして。ねえ、未鳥。ねえ……」


 嗚咽混じりの水っぽい声が、何度もつかえながら、何度も言葉を迷いながら、胸のうちを吐き出した。頭がじんじん痺れている。

 涙を搾り出しすぎて、脳みそはきっとからからに乾いてしまっただろう。

 そう優記は思う。

 自分で自分が何を喋っているのか分からない。

 視界がぼやけて未鳥の表情が見えない


「どうして僕は置いて行かれたの。一緒に死ねばよかったのに。きみが幽霊なら、僕を連れて行ってよ」


「ゆう君。ダメ」


 強く腕を引かれ、優記は顔を露わにした。

 彼女の顔がそばにある。こんなに現実感を持って。

 頬に触れる指先に熱い血の温度が宿っている。


「ダメ、そんなこと考えちゃダメだよ」


 未鳥は優記の頭を胸に抱いた。


「聞いて、ゆう君。聞こえる? わたしの、心臓の音」


 薄い布地の一枚向こうに未鳥のきめ細かな肌を感じた。

 その奥で、トクトクと少し慌てたように心音が鳴っている。

 呼吸のたびに上下する胸が頬に当たる。

 呼吸のたび、心音は少しずつ落ちついて行く。


「わたし……生きてる?」


「分からない、けど、たぶん……心臓は動いてる」


「ここに、居るでしょ?」


「居る……幽霊じゃないの?」


「んはは。幽霊じゃないよ」


 未鳥が笑う。

 嘲る色のない、どこか安心したような笑い声だった。


「でも、じゃあ、だって、未鳥は」


 優記の唇を細い一指し指が塞いだ。

 顔のすぐ間近に未鳥の唇が見える。

 小さい赤い舌が覗いて、ペロリ――今日だけで何度目だろう。

 頬に伝う涙を拭う。


「ゆう君、知ってる? 涙の材料」


「涙の、材料?」


 何の話をしているのか分からない。


「悲しみとか、……嬉しい出来事とかも?」


「んはは、それは間違いじゃないけど……そっちじゃなくて。もっとキホン的なこと。体は何から涙を作っていると思う?」


「それは……」


 優記は咄嗟に答えられない。涙は涙じゃないんだろうか。

 汗みたいなものだ。

 じゃ、汗は何から作られているのだろう――それは、体の中の水分から。

 体の中の水分というのは、つまり――


「血だよ」


 じゅる、と唾液をすするような音が立つ。

 涙に吸い付いて、キスと何ら変わらない行為をしていることが、今更恥ずかしく思えて優記は身をよじった。

 未鳥は思わぬ力の強さで優記を抱きしめて、いまだに頬を舐め続ける。

 眼球に触れるほどの位置を舌先でくすぐる。


「はぁあっ……」


 彼女は水を一気飲みしたあとみたいに吐息した。

 熱い呼気が顔にかかって、体温まで上がった気がした。


「み、未鳥――」


 戸惑いが口をついて彼女を呼ぶ。

 獰猛な動物みたいに未鳥は舌なめずりをした。


「……しょっぱい」


 単純な感想を囁く。ぎらぎらとぎらつく眼差しが優記を捕らえている。

 彼女の背後で夜の気配が膨れ上がったような、そんな気がした。

 ふいに、少女の瞳の色が変わったことに気づく。

 黒い瞳孔が今は琥珀を埋めたような黄金色に輝いていた。

 薄く開いた唇の奥に鋭い犬歯が――牙が、白く覗いている。


「あのね、ゆう君。内緒にしてたことがあるの」


 うんとも答えられない。

 優記は未鳥の瞳に魅入っていて、恐怖さえも感じない。


「わたしね、吸血鬼なの」


 その言葉を理解するまでに、しばらく時間が必要だった。


「でもね、血は吸わないの。ゆう君が涙をくれれば、それで大丈夫。涙も血みたいなものだから。ヒトの体をめぐったものだから……。それで大丈夫。生きていけるの」


 優記が理解を示す前に未鳥はさらに付け加える。

 何をおいても大事だと思う一点について彼は質問した。


「生きているんだね。僕と同じように?」


「うん。生きてる。ゆう君と同じように」


 未鳥は頷き優記の頭を抱き寄せた。耳元で囁くように答える。


「そばにいるよ。ゆう君がいいなら、ずっと居る。わたし、家に帰りたくなくて、家出してきたの。行く場所なんてほかにない。ゆう君しか頼れないよ。ねえ……一緒に居てもいい?」


 断る理由なんてどこにもなかった。


 優記は未鳥に、そばにいて欲しかった。

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