Episode:01-03 記憶

 何か忘れている。でも、一体、何を。

 


 行ってらっしゃい、と未鳥に見送られて登校した。


 朝方は晴れていたのに、昼になるにつれ湿っぽい重たい風が吹き、いまにも雨の降りそうな曇り空になった。

 そのせいもあるのか、優記は体調を崩して早退した。


 教室にたくさん人がいることが信じられなかった。


 どうしてみんな、こんなぎゅうぎゅうに集まって生活しているんだろう。

 今まで考えたこともないことが不思議だった。

 彼らも家に帰れば、みんな、家族がいるんだ。そう思い当たった途端、胃がひっくり返って痙攣して、到底授業を受けられる状態じゃなくなった。


 みんなの同情的なまなざしが怖かった。

 気遣わしげな、壊れ物に対するような扱いが、息苦しかった。


 早退なんかしてしまって、それこそ今後もずっと気遣われてしまうだろうに――

 失敗したなぁ、と優記は内心でぼやく。でも、もう遅い。


 ふらつきながら家に帰りつく。


 見上げた建物は薄暗くしんとしていて、もしかして今朝まで自分と一緒にいてくれた女の子はやっぱり幻覚だったんじゃないかと疑問に思った。その考えをとても恐ろしく感じる。なかなか玄関をくぐれない。事実を確かめるのが怖い。

 立ち尽くす優記の目の前で扉が開いた。


「あれ。ゆう君?」


 ふしぎそうな顔で、少女は優記を見上げる。


「おかえり!」


 屈託のない笑顔と明るい声が、優記の恐怖心を一瞬で溶かした。


 目頭がジンと熱くなって鼻の奥にまで浸みる。

 涙の予感があって、優記は顔面に力を入れた。


「ずっと玄関の前に立ってるから、へんな人かと思ったじゃない――って、どうしたの? 泣いてるの!?」


 びっくりしたように未鳥が駆け寄って、優記の腰に手を回す。家の中へ迎え入れ廊下に座らせた。


「どうしたの。学校でいじめられたの?」


 泣いてしまったせいでろくに答えられなくて、優記はただ首を横に振った。


「……さみしかったのね?」


 言い当てられて頷くと、自分で涙をぬぐった手の甲をそっと引いて、未鳥がそこに唇を重ねた。姫に忠誠を誓う騎士みたいだけど、これでは立場が逆だ。


「ちゅっ。……ぺろぺろ。……大丈夫だよ、ゆう君」


 大胆に舌を這わせて涙を舐めとると、未鳥は優記の頬に手を伸ばした。

 人差し指で涙の跡をたどって、それを己の唇へ運ぶ。

 指の関節を食みながら未鳥は彼を見上げた。


「泣いたら、わたしが拭ってあげる。だから、ね? いいよ。いっぱい泣いて……」


 そうして許してもらえると、優記は一層泣いてしまう。

 未鳥は根気強く彼を慰めた。

 安心して心が落ち着く一方で、優記はなぜか背筋に悪寒を感じた。

 未鳥を頼もしく思う一方で、まだ得体の知れない存在だと拒絶している自分がどこかにいるのを、その時自覚した。



 夜になって、未鳥がよく眠っているのを確認してから出かけた。

 静かな小雨の降る中、傘を差して歩いていく。

 深夜一時、明かりはコンビニとたまに出会う車だけ。

 こんな時間なのに犬の散歩をしている人もいて驚く。

 たぶん、優記のほうこそ彼らを驚かせただろう。


 目的地は公園だ。

 いいや、正しく言えば、公園跡地だ。


 この五年の間に開発が進んだ区画で、かつてのその公園にいずれマンションが建つはずだ。

 五年前、優記と未鳥がよく一緒に遊んだ場所。

 でも、未鳥と別れてしまってからは一度も足を運んでいない。

 今どんな状態なのか、もう工事が始まっているのかもわからない。


 だから、確かめに行こうと思った。


 懐かしい道を歩く。ずいぶんと眺めが変わってしまったけれど、道は覚えている。

 しばらくすると、真っ暗な空が広がった。

 住宅街の中にぽっかりと現れた空洞が、公園の跡地だった。

 すべての遊具が取り去られ、草木が抜かれ、ただ無骨な地面が視界いっぱいに敷かれている。視線をすべらせると、ぽつん、と建つそれに気が付いた。


「あ……」


 ジャングルジムだ。


 それのおかげで空間を把握した。

 更地の公園にありありと以前の光景が思い浮かぶ。

 入口付近に水飲み場があって、かわいらしい時計塔が建っていて、傍らには砂場が広がっている。木々の向こうにすべり台とブランコが並んで、芝生の敷かれた丘は段ボールをお尻に敷いて滑るととても楽しかった。


 それから、あのジャングルジム。


 ドーム状になっていて鳥籠にそっくりだ。

 未鳥はよくジャングルジムの上に座っていた。

 そうするととても絵になる光景だった。

 長い髪をなびかせて、遠い目をして、膝を抱えて――。


 いまにも過去へ立ち戻った心地になる。


 空は雨降りの夜ではなくて、空気の乾いた夕暮れで、優記は未鳥と二人でジャングルジムの中にうずくまっている。

 怪我をして泣きべそをかく男の子を未鳥が慰めていた。

 彼は土で汚した膝小僧から血が流れていると気づいて、その赤におびえていっそう泣いた。未鳥はいつもならやさしく涙を舐めてくれる、そのはずだった。


 未鳥は汚れも構わず彼の膝に吸い付いて、「痛い」という訴えにも耳を貸さずに舌をつけた。何の声も聞こえないように夢中になって、舌を這わすのももどかしげに唇を重ねて、溢れる血を無心に啜っていた。


 優記は怖くなって未鳥を突き飛ばした。

 勢い余ってジャングルジムの鉄骨にぶつかって、未鳥の体が弾んだ。

 やりすぎたと思ったのに、未鳥はまったく痛くなさそうで、すぐに立ち上がって優記の足を引っ張った。


「ゆう君。ちょうだい、もっと、ちょうだい。ねえ、もっと!」


「いやだぁっ! 怖いよっ! いやだ!」


 彼は女の子みたいな悲鳴を上げて、未鳥を振り払って逃げた。

 がむしゃらに、何か言葉を投げた。未鳥を拒絶するたくさんの言葉を。

 未鳥がその時どんな顔をしていたのか全然思い出せない。


 それが、思えば、最後だったのだ。

 未鳥はそのあとすぐ、優記の前から姿を消した。

 交通事故で死亡した、という理由で――。



 ひどい気分のまま帰宅した。

 あんまり重たく感じられて、途中で傘を捨ててしまった。


 優記の部屋には未鳥が、あの日のままの姿で眠っている。

 その寝顔は無垢で健やかで、とても恐ろしいなにかには思えない。

 だというのに、優記の中のちいさな男の子が、震えて怯えている。


 何度となく繰り返した疑問がふたたび浮上する。


 彼女は何者で、どこから来たんだろう。

 なぜ成長しておらず、僕のもとを訪ねたのだろう?


 納得のいく答えが導き出せるわけもなく、優記は明け方まで眠れずにいた。


「……ゆう君。ねえ、ゆう君、だいじょうぶ? 具合、まだ悪い? 学校、おやすみするの?」


 ちいさな手に揺り起こされて、けれどまだ頭が重い。

 瞼を開けて、視界いっぱいに未鳥の顔が広がった。

 歯をのぞかせて笑う。鋭い犬歯が朝日を受けて輝いた。


「ゆう君、起きた? ねえ、具合はどう? 朝ご飯、食べれる? わたし、もうお腹ぺこぺこ」


「未鳥……」


 触れられた肩にぞっと鳥肌が立つ。

 体を起こしてさりげなく未鳥から距離をとった。

 未鳥は気づかず立ち上がって優記を振り返る。


「たまねぎ、切って? それで、ゆう君の涙、ぺろぺろしてあげる! それがわたしの朝ご飯ね」


 すでに着替えを済ませた未鳥がワンピースのすそを翻してドアへ向かう。

 優記は自分で意識するより先に、その言葉を口走っていた。


「――血じゃなくていいの?」


 時が止まったように感じた。

 それはやっぱり錯覚で、少女のワンピースの裾がふわりと足元に落ち着いて、それで時間の流れを確かめられた。

 未鳥は立ち尽くしている。

 ぴくりとも動かず、振り返ることもない。

 後悔を感じたけれど、手遅れだとも理解した。


「……覚えていたの?」


 正しくは『思い出した』だけど――問いかけに優記は頷いた。

 傍目にそれが見えたのか、「そう」と未鳥は呟いた。


「……ごめんね」


 それだけ残して未鳥は部屋を出た。

 階下へ降りていく小さな足音がドア越しに聞こえる。

 

 優記は徒労感を抱いて目を閉じた。

 これで正しい姿に戻ったと思った。

 幻を退けて、現実へ帰るのだ。

 

 そこは変わらず両親の健在する世界かもしれない。

 未鳥は彼らの死と引き換えに現世へ立ち返った悪霊だったのかもしれない、なんて馬鹿げた想像までする。

 寝不足の頭を毛布に隠して、優記は固く目を閉じる。

 固く、固く、涙が溢れないように。

 もう誰も、拭ってはくれないのだから。



 疲れ切っていたのか、そのまま眠っていた。

 つぎに目を覚ました時、家の気配がはっきりと変わったことに気付いた。

 音がしない。

 静寂が耳に痛いことを優記ははじめて知った。

 暮らし慣れた家のはずなのに全然知らない場所に来たみたいに心細い。

 使い古したベッドも、勉強机も本棚も、まるで全然知らん顔だ。


 未鳥は去った。


 そうに違いない。確かめるまでもなかった。

 のろのろと起き上って一階へ下りる。

 もともと誰もいなかったみたいに、大きな旅行鞄も、可愛らしい着替えも、どこにも見当たらない。取り返しのつかないことをしてしまったという思いと、ちょっとだけの安堵があった。


 だって、おかしな話だったから。


 幼馴染が過去と同じ姿でやってきて、自分に親切にしてくれる、なんて――

 さみしい人が抱く都合のいい幻想に違いない。

 心が弱いからそんな幻想に逃げ込むんだ。僕は現実を受け止めて、立派に生きていかなきゃならないのに。

 もう甘える相手なんていないのに――死んでしまったのに。

 だから、きっと、これでいい。

 これでいいんだ。

 

 着替えて朝食を食べた――と言っても、もう夕方だ。

 インスタントの味噌汁とあまりものの白米だけで食事を済ませて、明日の登校の準備をする。ああ、そうか、今日は無断欠席になってるのかな……明日からはきちんとしなくちゃ。


 僕の周りにはもう誰も居ないのだから。

 優記はようやく理解する。


 寂しくて息ができなくなるなんて、初めての体験だった。

 からっぽの部屋に嗚咽はよく響くから、強く奥歯を噛み締めて声を殺す。


「……」


 不意にチャイムが鳴って、意識するよりも早く、優記の体が反応していた。

 心臓が打って、にわかに血が熱くなったみたいに体中を巡る。

 そう思わないように注意したのに、どこかで期待していた。

 未鳥が帰って来たんだ。

 いや、そんなはずはない。期待をしたら馬鹿をみるだけだ。

 僕のほうから拒絶したのに、また戻ってきてほしがるなんて、自分勝手だ――。


『ごめんください。お届け物です』


 体中から一気に血の気が引いたみたいに気が遠くなった。

 ――ほらね、やっぱりだ。馬鹿だな、僕は。

 期待してないのに。でも、期待を裏切られた気分で体が重くなる。

 惰性で体を動かして荷物を受け取った。誰宛てだろう。今更父さんや母さんに届いたところで、何の意味もないのに。


「……」


 ただの気まぐれだったと思う。優記は封筒を開けた。

 送り主は駅前の写真店だった。写真の束が入っている。

 母親が現像に出したものだ。


「あ……」


 震える手で写真の束をめくっていった。

 遠い昔の出来事みたいに、ひとつひとつを思い出せる。何気ない写真ばかりだ。

 新しい服を買ったとか、眼鏡を新調したとか、道端の人懐こい猫だとか、あるいは知らない母さんの友人たちとの飲み会の様子だとか。


 それから――男の子の寝顔が一枚。


 この時の僕は、なんて幸せな顔をしているんだろう。

 優記は自分自身のことなのに、写真のなかの彼をうらやましく思う。


 この後一人ぼっちになるだなんて、微塵も覚悟していない顔で眠っている。

 憎らしくて、羨ましくて、優記は立ち尽くしたまま、改めて実感した。


 僕は、一人ぼっちだ。


 でも、一人ぼっちでいるのは、嫌だ

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