Episode:01-02 少女
居間では着替えた未鳥が姿見の前で体をひねっている最中だった。
背中のボタンに手が届かずに、もたもたと不思議なおどりを踊っている。
「……ボタン、閉めようか?」
「わっ、もう! ノックしてよ、着替え中なんだから……」
「そんなこと言われても……」
僕の家なのに。優記は憮然とつぶやく。
着替えるなんて断りもなかったくせに。
「あれ、その服」
リボンの形をしたボタンが背中に並んだワンピース。
そんな服はうちにはなかったし、昨日着ていた服とも違う。
「荷物、さっき届いたんだ。あ、シャツありがとう」
優記のシャツが綺麗に畳まれている。
傍らに滑車のない大きな旅行鞄が開かれていた。
色とりどりの服が詰まっている。
「届いたって……この荷物」
「しばらくここで暮らそうと思うの。よろしくね、ゆう君」
「あ、うん」
こともなげに言うからついうなずいてしまう。まだ状況がよく分からない。
――僕はどこかで何か大きな認識違いをしているのだろうか?
未鳥は死んではいなくて、でもそれなら成長していないとおかしいはずで、だけどまるで生きているみたいに振る舞っていて、ええと。まだ頭がよく回らない。
だけど、何が起きてもおかしくない、と漠然と理解した。
だって両親が突然死んでしまうなんて想像もしなかったのに、現実に起きたのだ。もうどこに隕石が落ちてもおかしくない、明日富士山が噴火したって優記は何故なんて問わないだろう。
何でも起きる。この現実では。
どんな理不尽なことも起こる。きっと。
白い背中をさらしたまま長い髪をかき上げて、未鳥は優記を見つめている。
「早く」
「あ、ごめん」
恐る恐る、素肌に触れないよう慎重にボタンを閉めた。
髪の毛を絡めてしまわないよう気をつける。
改めて、なんて小さな体だろうと思う。
「できたよ」
「うん。ご苦労さま、っと」
未鳥は優記の母が使っていた姿見の前で一回転する。
ワンピースの裾が、彼女の長い髪がふわっと浮いた。
未鳥は自分の着こなしを見て納得したようにうなずく。
「ごはん、食べよ? お腹空いてるでしょ?」
「あ、うん……でも」
優記は沈黙する。
料理なんて調理実習以外でしたことはなかった。
冷蔵庫を開ければ何か入っているかもしれない。
だけど今、母親が作り置きしたものを食べられる精神状態ではない。
冷蔵庫を開けることすら怖かった。
母親の気配が出て行ってしまう。この世から消えてなくなってしまう。
「お腹減ってないの?」
「う――ん」
ぐぅう。お腹が鳴った。未鳥が唇を吊り上げて笑う。
「決まり。わたしが作ってあげる」
「え」
嫌な予感がする。任せてはいけないような。
だって、こんな小さな女の子に家事が務まるとは思えない。
「任せて、ゆう君。わたしだって女の子だよ。これから一緒に住むのに、何もお手伝いしないわけないでしょ」
ふわふわの長い髪をヘアゴムでひとつにまとめて、自前のエプロンをつける。
自信たっぷりな態度だ。もしかして腕に覚えがあるのだろうか。
幼い頃は未鳥がそんな器用なことをした記憶はない。
けど、自分の知らないところでは、家事をよく手伝う女の子だったのかもしれない。そう自分を無理やり納得させて、優記は頷いた。
「じゃあ、お願いするね」
この判断を、一時間後に後悔することになる。
「んははは、ごめん」
一時間かけて未鳥は台所をめちゃくちゃにした。
ザルを焦がして穴を空け、食器を三枚割って、菜箸を炭にして、鍋を二つ焦げ付かせた。
それだけの派手な調理で彼女が作り出したのは、カピカピのパスタと真っ黒に炭の溶け込んだ牛乳の煮物だった。
「カルボナーラって初心者には無理かも? てへ」
わざとらしく舌を出す。
仕方なく優記が説明書どおりにパスタを茹でて、缶のまま湯煎で温めたトマトの缶詰めをかけて食べる。
漠然とミートソースの味を期待して食べたら素のままのトマトの味だけで、物足りない仕上がりだった。未鳥も一口食べて微妙な顔をしている。
「ごちそうさま」
優記は少ししか手を付けずに食事を終えた。
久しぶりの食事が思った以上の重労働で優記はため息をついてしまう。
「母さんは、どんなふうに料理してたんだっけ……」
どうやっていつもおいしい料理を作っていたんだろう。
今更、もっと家事を手伝えばよかったと後悔する。
――僕はこの四日、ずっと後悔してばかりだ。
どうしてもっと、会話をしておかなかったのだろう。
もっと、言うことを聞いておけばよかった。
もっとちゃんと、感謝をしなくちゃいけなかったのに。
――あの日、二人が出かけるのを止めればよかった。
面倒くさがって一人で残らなければ、結果は変わったかもしれないのに。
一人で家にいられることを、僕はあの日喜んだんだ。自由にできる。
うるさく注意されることもない、と。僕はなんて馬鹿だったんだろう――
「ゆう君」
未鳥の声が気遣わしげに優記を呼んだ。
「また、泣いてる」
今ようやく気付いたように、優記は瞬きをする。
その拍子にこぼれたしずくを手で受け止めた。
「ごはん、おいしかったよ?」
未鳥の皿は空っぽで、口の端にトマトソースがついていた。
「泣き虫毛虫、けむしは嫌い」
歌うような未鳥の声。優記を叱る彼女の言葉。
次の文句が思い浮かぶ。ゆう君のこと嫌いになっちゃうよ。
「今だけ特別だよ。泣きたいなら、いくらだって泣いてもいいよ」
予想外の言葉だった。いつの間にかまた未鳥がそばにいる。
失敗作のパスタをどけて、テーブルに腰掛けている。
優記と頭の高さを合わせて、髪があたってしまう距離に彼女の顔がある。
「わたしが拭ってあげる、ゆう君の涙……」
懐かしい、へんてこな慰め方。
だけど優記は、彼女にそうされるのが好きだった。
未鳥は優記の顔に手を触れて、夢中で水を飲む仔猫みたいに、懸命に舌を伸ばして涙を拭う。
「んっ、ん……」
ちゅ、と唇のすぼむ音。ぴちゃ、と唾液が涙と混じる。
「ん……」
不器用に息継ぎをしながら、彼女は優記の目じりを、頬を、顎下にまで伝う涙を拭った。これってもしかして、顔中にキスをされているんじゃないだろうか? そんな思いつきも気にならないくらい、優記は彼女を頼りきって、素直に泣くことができた。
何故だろう。泣いていいんだ、と思えた。
彼女が拭ってくれるから、僕は泣いてもいいんだ。
そうされているうちに、また、眠たくなってしまった。
何か忘れているような気がする、そんな焦りを、眠気が鈍く包んでいく。
*
「……もう、分かってるってば。口を挟まないで、アキラさん。
わたしはちゃんと……元気でやってるじゃない。
お父様には伝えておいて。もう二度と家に帰らない、って。
―だから! わたし、怒ってるんだから。
許すか許さないか、決めるのはわたしのほうよ。分かった?
これ以上無駄口叩くなら、アキラさんなんて洗剤で泡ぶくにしちゃうんだからね。
……もうっ。おせっかいなんだから」
なにか独り言が聞こえて目が覚めた。
いや、電話かな、と優記は思い直す。
かちゃかちゃと食器を洗う音が懐かしく思える。
――でも、母さんはもっとスマートにこなしていたな。
今にも食器が割れてしまうんじゃないかと心配なくらい高い音が立つ。
「……未鳥?」
畳の上で眠っていたらしい。
眼鏡をかけなおして起き上がる。もう窓の外が暗い。雨は上がったようだ。
「あ、ゆう君。起きた?」
「うん。ごめん、僕、また」
背伸びをした未鳥が台所の片付けをしていた。
エプロンがびしょびしょに濡れてしまっている。
やっぱり家事は不得手みたいだ。
「いいよ。ゆう君、疲れてるもん。たっぷり寝て、ゆっくりでいいから元気になってね」
「うん……ありがと」
元気になる、なんて。昨日までは考えられなかった。
けど、未鳥がそばにいると、現実感が沸いてくる。
「夕飯は……出前とかにしようか」
「ん、それがいいかも……。でも、わたし、がんばって覚えるから」
でも。言いかけた言葉を飲み込んだ。
彼女はいつまでここに居るつもりなんだろう。どうしてここへ来たんだろう。
未鳥。きみは、本当に生きている人間なの?
自分の見ている幻影ではなく、現実に存在しているのだろうか。
どうして死んだなんて言って居なくなってしまったの。
――なぜ今になって僕のところへ来たんだ。
疑問を口にした途端、魔法がとけるように彼女が居なくなってしまって、一人ぼっちの現実に立ち返る予感がした。だから優記は口をつぐむ。
「……そうだ、外で食べようよ。未鳥、駅前のファミレス、覚えてる?」
「えっ? う、うん……でも、いいの?」
「何が?」
「お金……あんまり持ってなくて」
なんだか似つかわしくない悩みに笑ってしまう。
「いいよ、気にしないで。僕のお財布、いくら入ってると思う? 預金通帳だって。結構、溜めるタイプなんだから」
「そ、そうなの? へぇ、五年のあいだになんだか……へんなところはたくましいのね」
「まあね」
これから、手続きをして、両親の遺産を得ることになる。
どうやって管理すればいいだろう。優記は途方に暮れてしまう。
財産は大人になるまでもつだろうか。不安は絶えないけど、今は、未鳥が嬉しそうに笑ってくれたのが今は嬉しい。
「ファミレスねっ。わたし、すごく久しぶり。パフェ食べてもいいの?」
「うん。なんでも好きなの頼みなよ」
出かける準備をして、家に鍵をかけて。未鳥はぴかぴかの革靴を、優記はくたびれたスニーカーを履いて町へ出かけていく。
*
すれ違う人にはちゃんと未鳥の存在が見えているらしい。
ファミレスの店員も未鳥の注文を繰り返した。
期間限定ショコラパフェ、選べるアイスクリームはイチゴ味。
優記のほうは、未鳥が「栄養を作らなきゃ」と勧めるままに注文した焼き魚の定食だった。レディースセットのひとつで、ほうれん草のおひたしとしじみの味噌汁がついている。
「あのね、魚とね、しじみとね、ほうれん草。これはね、血を作るからね。……ゆう君、ちょっと頭ぼうっとしているんじゃない? 貧血気味なんだと思う」
「すごい、よく分かったね。詳しいんだ。勉強したの?」
「ん、うちの家族、食べ物にうるさいから」
運ばれたパフェを抱え込むようにしている。
食器の背が高すぎて、そうしないとスプーンですくえないらしい。
「そうなんだ。ねえ、未鳥の家族ってどんな人なの? 僕、見たことない」
「厳しいよ。ジブンカッテ、だし。誰かに見せたい親じゃない」
小さな女の子の口からは似つかわしくない冷淡な言葉だった。
「……そんなこと言うなよ。家族だろ」
「ん……ごめん。無神経だった。でも、本当のこと」
未鳥って、こんなに何でも言う女の子だったっけ?
ああ、うん、歯に衣着せぬ女の子だった。優記は懐かしく思い出す。
――だから僕は散々からかわれて、何度も泣かされていたんだ。
でもそういう物をはっきり言うところに、憧れもした。
優記には出来ない振る舞いだったから。
「色々、思い出してきたかも。未鳥のこと」
「ひどい。今まで忘れてたの?」
「ううん。そうじゃないけど、毎日忙しくて」
「わたしは、一日だって、ゆう君のこと……」
「……忘れないでくれてた?」
上目遣いに優記を見る。
記憶の中の姿のままで、その頃を思い出しながら話をする。
ひどく違和感のある状況だった。
「教えないっ」
ふてくされたようにパフェをかきこむ。
コップの縁が鼻にあたって、クリームが付いていた。
「甘い♪」
単純な感想を囁く。そんな振る舞いは小さい女の子そのものだ。
つい笑ってしまう。未鳥をこんなにかわいらしく思うのは初めてだった。
「不思議だな。こうしてまた話ができるなんて」
不意に、未鳥の顔に寂しさがよぎったような気がした。
が、一瞬ののちには誤解だろうかと思う。
単純に、食べ終わってしまったパフェを名残惜しく思う表情だ。
「あの時……親が急に住まいを変えるからって、この町を離れなくちゃいけなくなったの」
「そうだったんだ」
――おかしいな。僕は、死んだと聞かされたのに。
胸に浮かぶ疑問を口にする勇気は出なかった。
「酷いでしょ。友達にお別れもできなくて、すごく抵抗したんだけど、ダメだった」
先に食べ終わって、未鳥は優記の食事するさまを観察している。
人に見られていると緊張して、優記はぎこちなく食事を進める。
所作を笑われはしないか、身構えながら味噌汁の椀に口をつけた。
「んははっ」
「な、何?」
「眼鏡、曇った! 真っ白、へんなの。まんがの眼鏡みたい」
「これは、しょうがないだろ。もう……」
眼鏡が曇ってくれるのはありがたい。優記はそう思う。
腫れた目を隠してくれるから。湯気にわざとレンズをさらして白さを保つ。
未鳥は喜んではしゃいだ。懐かしい笑い声に優記もまた嬉しくなる。
未鳥がこんなに喜んでくれるなら、眼鏡をかけていて良かったと思う。
「ね、ゆう君。公園行こうよ」
「え? 公園?」
一瞬何を意味しているのか分からなかった。
そういえば、この近くに公園があったっけ。
なぜだか抵抗を感じて、とっさに快諾できなかった。
優記のその沈黙を解釈して未鳥が言い募る。
「大丈夫。食べ終わるの、待ってるから」
未鳥はドリンクバーを何度か行き来して待っていた。
久しぶりにご飯をしっかり食べて、体を重く感じる。
もう眠たい、寝てしまいたい。
でも未鳥のほうは、子供なら寝る時間になったというのに元気が有り余っていて、散歩がしたいとせがんだ。
あまり気は乗らなかったけど、彼女のお願いを断るとどんな目に遭うか優記はよく知っている。久しぶりの彼女のささやかな願いくらい叶えてやるのは、優記としても本望なのだけど――。
公園へ行く道すがら、様々な話をした。
五年間の空白のこと。
優記は中学生になって、高校生になって、相変わらず泣き虫だとからかわれた。
あだ名はどこへ行っても『ユキちゃん』だし、新学期で先生は名簿だけ見てまず彼を女子生徒だと思い込んでいる。
それで一度からかわれて、いじられキャラに定着してしまうのだ。
男の子の友達は作りにくくて、女の子からはおもちゃかペットみたいな扱いを受け、それがまた男子の不興を買った。悪循環だ。
だけど、いじめられているわけでもないし、おとなしくしていればそれなりに愉快な学校生活を送れる。勿論満ち足りていたわけじゃない。でも、我慢はできた。
「そっか、ゆう君も、ガマンの子だ」
「何、それ」
「わたしも、ガマンの子だから」
「嘘だろ、未鳥がガマンなんかしてるの見たことない」
「何をーっ」
未鳥がこぶしを振り上げる。
昔を思い出してびくっと体をすくめてしまう。
打ち下ろされたこぶしは驚くほどやんわりと優記にぶつかった。
手加減しているのかと思ったけど、女の子の握力は所詮この程度なのだ。
「下克上っ」
冗談めかしてスカートめくりをする。
「きゃっ!? ばかっ!」
思った以上に綺麗に風が入って、やわらかな生地の裾がふんわりと浮かんだ。
夜の闇にぷっかりと白い色が浮かび上がる。
予想外に大人っぽい下着をつけていたことに驚いて、しばらく優記は木偶の坊になった。
「ばかっ! ばか、ゆう君のえっち! わたしの手の届かないところで、そんなふうに育ったのね! そんな子に育てた覚えはありません!」
硬い靴底が優記のすねを連打する。
「いてっ、いてっ! 本当に痛いっ」
「因果応報っ。置いて行っちゃうよっ」
「あっ、待って、未鳥っ――」
ふいに寒気を感じる。
なんだか嫌な気持ちがして、未鳥の後を追えなかった。
「……ゆう君?」
数メートル先で、未鳥が心配そうに振り返る。
「あっ……きゅうにいっぱい食べたから、気分悪くなっちゃった?」
「ごめん。そうかも。……公園は、また今度にしよう?」
「うん。わかった」
未練を抱いた様子ながらも、未鳥は素直に従ってくれた。
優記の顔色が本当に悪かったからだ。
冷や汗がじっとりと背中を濡らす。焦りが鼓動を急かしている。どうして。
――僕はどうして、公園に拒否感を抱くんだろう。
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