ティアドロップ・ヴァンパイア

詠野万知子

第1話『懐かしい幽霊』

Episode:01-01 幽霊

 広瀬ひろせ優記ゆうきは幽霊を見ていた。


 両親の葬儀の最中、六畳の見慣れた居間がまるで異空間に感じられる。

 慣れない礼儀作法で体を動かし、なんとか事を進めていた。張り詰めた精神がいつ弾けるかわからない極限の状態を自覚する。体を動かしているのは本当に自分自身なのだろうか、まるで誰かに操られているみたいだ――。


 精神も肉体も疲弊している。

 幽霊くらい見てもおかしくない。


 幽霊は、しかし、そのとき唯一の優記の心の支えだった。


 式の最中ずうっと傍らに寄り添って座り、ときには腕に触れてくれる。

 それがまるで励ますような仕草に思えた。


 幽霊は、幼馴染の少女の姿をしていた。


 豊かに波打つ長い黒髪、ちょっと日本人離れした白い肌と掘りの深い顔立ち、幼いわりに意思の強そうな眼差しと、かわいらしい厚い唇。

 今日まで思い出すことも珍しかった、幼馴染の女の子、時任ときとう未鳥みとりの幽霊だ。


「ゆう君」


 と、懐かしい声で彼女は呼ぶ。


「そんなところで、寝ちゃだめだよ」


 瞼を薄く開けると、居間の天井が見えた。


 葬儀は無事に終わって、全て終わって、骨になった両親とともに帰宅して――

 疲れて少し横になったところまでは覚えている。

 視界をめぐらせると、床の間にふたつ、骨壷が並んでいる。

 包みのかたちがなんだか牛乳パックに似ているな、とぼんやり考えて、また目を閉じた。


「もうっ。ゆう君、ちゃんと、お布団で寝なくちゃ風邪引くよ」


 記憶の中の彼女は、自分より随分大人びていたのに。

 今改めて聴く彼女の声はきゃんきゃんと甲高く響く。

 子供の声だ。


 今日はずっと大人の相手ばかりしていたから、

 例え彼女が幽霊だとしても、なんだかほっとした。


「お布団出すからね、ゆう君。勝手にやるからね、いい?」


 あまりの疲労に目が開かない。

 未鳥が体に触れると、体温を感じた。

 ちょっと熱い、いわゆる『こども体温』だ。

 熱くて、冷え切った体に心地よかった。

 やがて襖の開く音がして、体に何かが被せられる。

 父親の匂いがする。いつも父が使っている掛け布団だ。

 亡くなったなんて嘘じゃないだろうか。

 これは全て悪い夢なのかもしれない。

 疲れた頭でそう考える。

 

 だって、突然両親が死んでしまうなんて。


 その上、五年前に死別した幼馴染が、昔と変わらぬ姿で現れたのだ。


 これが夢でなければ、自分も一緒に両親と死んだに違いない――。

 だから彼女と再会しているのだろうか。

 彼女――未鳥と。死んでしまった幼馴染みと。

 そうかもしれない。そうだったらいいのに。

 不意に胸が詰まって、何度となく流したはずの涙がまた溢れた。

 もう枯れたかと思ったのに。まだ全然尽きないらしい。


「泣き虫なの、変わらないね。よかった」


 淡い色をした唇が割れて暗い口内が見える。

 そこから木の実みたいな赤い舌が伸びて優記の肌をチロリと舐めた。

 頬に伝う涙の跡を舌が辿る。


「……しょっぱい」


 少女の舌は熱くて、頬にくっきりと余韻を残していく。

 涙の跡をくすぐられ、むずがゆいような、でも少し心地よいような、もっと舐めていてほしいような――そんな気分だった。

 両親の事故の知らせを聞いてから悲しみや怒りや無力感以外の感情を抱くのはこれがはじめてだ。


「約束したでしょ、ゆう君? わたしの居ないところで泣いちゃダメって」


 懐かしい声で少女は囁く。


「うん。……うん」


 ほら、また、泣いた。


 彼女は嬉しそうに笑う。


 これが幻でもいいから、もっと彼女と一緒にいたいと思った。



 まだ小学生の頃。優記は近所の女の子と仲良しだった。


 近所と言っても、彼女の家に遊びに行ったことはない。

 遊ぶのは公園か、自分の家か、大抵そのどちらかだ。


 ふわふわにウェーブする髪が優しげで、でも眉と瞳が意志の強さを示している。

 いつも上品な服を着て、だけどそれを汚すことも構わず泥んこになって遊んでいた。


「ゆう君、また泣いた。泣き虫けむし、毛虫は嫌い!」


 優記は幼い頃から泣き虫で、泣くたび彼女に叱られた。

 ひどい話だ、泣く原因は大抵彼女にあったというのに。


 時任未鳥はいじめっ子だった。

 おもちゃを取り上げる、無理な遊びを提案する、我侭を言って優記を困らせる。

 何度となく窮地に立たせて、どうにもできずに泣き出すさまを見ていつも怒り出すのだ。


 泣き虫けむし、毛虫は嫌い。


 叱ったあとに必ず彼女は付け加えた。


「ゆう君のこと嫌いになっちゃうよ。だから早く泣き止んで」


 しゃがみこんで泣きじゃくる優記を、その頃は男の子より背の高かった彼女がそっと抱き寄せる。


「……じゃないと、ぺろぺろしちゃうんだから」


 土と涙で汚れた顔にぺろっと舌を伸ばした。

 流れ落ちる涙を舌先で拭う。それが、少し不思議な、未鳥なりの慰め方だった。


「……しょっぱい」


 ささやく声が耳にくすぐったくて、いつしか優記は泣き止んでいる。

 彼女の舌が頬に触れるとなんだか心地よい気分になって落ち着いてしまうのだ。

 どんなに彼女に腹を立てていても、悲しい思いをしていても、いつも同じ。


 未鳥はそういう不思議な女の子だった。


 そう、未鳥は、過去形で語らなくちゃならない女の子のはずだ。

 彼女との別れは五年前。不慮の事故で死んだという。

 さよならも言えずに時任未鳥と別れることになったのだ。


 信じられなかった。

 これ以上ないくらいに泣いて、泣いて、両親がどんなになだめ慰めても止まらない。ただひとつ、この涙を止めるのは、彼女の舌と囁きだけだと思った。


 でも所詮はただの子供で、泣き疲れて発熱して一日寝込んだ後、元気になって小学校へ復帰した。悲しい気持ちはあるものの、優記は日常へと帰っていったのだ。

 普通の子供として、次第に傷と記憶を薄れさせながら。


 急に彼女のことを思い出したのは、多分、あの時と同じ感情に襲われているからだろう。目が腫れていて瞼が重い。気づけば布団の中で丸くなっていた。

 嗅ぎなれた布団の匂いすら悲しみに結びつく。


「母さん……父さん」


 胸が握りつぶされるみたいに苦しい。

 鼻の奥に棒でも突っ込んでしまったのだろうか、ずっと痛みが取れなかった。

 体中の水分が涙になって出て行ってしまうのではと思う。

 また、視界は滲んでいる。

 不意に、滲む視界に何かが映った。

 暗くて分からない。体の上に重みが増す。

 そっと、遠慮がちな犬がするみたいな身の寄せ方だ。

 気づかないうちに野良を連れてきてしまったのだろうか?

 あんまり寂しいから……。そうかもしれない。優記は寝ぼけた頭で考える。

 そうしているうちに、それは舌を伸ばして、優記の頬をペロリと舐めた。


「しょっぱい」


 懐かしい声に光景がフラッシュバックする。


 葬儀の間ずっとそばにいた、未鳥にそっくりな女の子。

 何もかも思い出した。

 彼女がいつのまにか自分のそばにいたこと。

 ろくに構いもしないで布団にもぐってしまったこと。

 彼女はどこから来た誰なのだろう。親は心配しないのだろうか。

 ううん、そんなことよりも、まず、何か考えなくちゃいけないことが――

 ない、か。そんなこと。

 何も困らない。

 この家に誰を連れてこようと誰も構わないのだ。


 もう、ここには一人しか住んでいないのだから。


「おばさんとおじさん……死んじゃったの」

 そうだよ。

 僕の父さんと母さんは死んじゃった。


 答えようとして、喉がカラカラで声が出なかった。

 止め処なくあふれる涙を少女の舌はチロチロと舐め取る。

 一滴たりとも残すまいとするように。生暖かな舌が触れている。

 他人の唾液が触れるのに気持ち悪いとは思わなかった。

 構わず、彼女のなすがままにする。

 まるで昔に戻ったみたいだ。未鳥が僕を慰めるときとおんなじだ……。


 ――どうして彼女は僕の両親のことを知っているような口ぶりなんだ?

 昨日会ったばかりなのに。


 涙を拭って起き上がる。

 喪服はぐちゃぐちゃに皺ができていた。

 クリーニングに出さなくては……でも、どうやって。

 いつも母親に任せっぱなしにしていたから、どこにクリーニング屋があるのかも知らない。途方に暮れて、とりあえず着替えようとシャツのボタンに手をかけ、ふと躊躇した。


 とりあえず……この子をどうしよう。


 彼女は遠慮なく優記の太ももにまたがって、こちらを伺い見上げていた。

 眼鏡がなくてもこの至近距離で顔がよく見える。

 見れば見るほど未鳥に似ている。彼女そのものだと思えるほどに。

 意志の強そうな大きな瞳とくっきりした眉、長い睫、ぷっくりした唇も。

 柔らかくウェーブする黒い長い髪も。

 記憶から取り出したみたいに彼女そっくりだ。


「未鳥、なの?」


 恐る恐る尋ねながら『そんなはずない』と思っていた。

 しかし、


「そうだよ。……シャツ、勝手に借りてごめんね」


 彼女は迷いなく頷いた。

 言われて気づく。

 彼女は優記の制服のシャツをワンピースみたいにして着ていた。

 ゆるんだ襟の向こうにさらりとした肌が覗いている。

 見ちゃいけないような気がして目をそらすと、彼女の視線が横顔を追いかけた。


 未鳥なわけないのに。

 そうだよ、と答えたこの女の子は誰なんだろう。


 もし未鳥が生きているなら、僕と同じ年齢のはずだ。

 冷静に思い直して優記は計算をはじめる。

 彼女はとても十六歳には見えない。せいぜい十一歳か、十二歳か。

 記憶の中の未鳥からぜんぜん成長していない。


「ゆう君、あのね……」


 言い淀んで、それきり黙りこむ。

 未鳥にしては珍しく、怯えるような、心配そうな顔をしている。

 彼女のこんな顔一度だって見たことない――いいや、一度しか――ううん。

 やっぱり、一度だって見たことない。

 未鳥はいつも強くて明るくて、自分の憧れだったのだから。

 もしかしたら幽霊なのかもしれない。

 一人ぼっちになった僕のもとへ、幽霊になった未鳥が会いに来てくれたのだ。

 相変わらず泣き虫な僕を慰めに来てくれたのだ。

 優記はそんな非現実的な考えを半ば信じた。それが一番説明が早かった。


「君は、幽霊なの?」


 未鳥は答えに詰まり俯いた。

 ――やっぱり幽霊なのかな。

 なんでもよかった。

 彼女が一体何者でも、この家に一人で居なくて済むなら有り難い。

 まだ耐えられない、と優記は思う。

 母さんと父さんの気配がまたはっきりと残ったままの家で、

 二人の静かな骨と一緒に過ごすなんて……とても耐えられない。



 居間へ下りると、窓から外の様子が見えた。

 雨が降っている。

 勢いは穏やかで、雨音も静かなものだ。

 カーテンレールに見慣れない服がかかっていて、昨日あの子が着ていた物だとすぐに分かった。

 飾りのついたシャツとジャンパースカート。

 未鳥が好んで選ぶ組み合わせだった。


 ダイニングと一続きの居間には床の間があって、今は骨壷が二つ並んでいる。

 金ぴかの包みに入ったさまは趣味の悪い置物みたいだ。

 未鳥に似た少女は、正座をしてそこへ向き直ると手を合わせて目を閉じた。


「おばさん、おじさん……寂しいです。優しくしてくれてありがとう。わたし、絶対に忘れないよ。おばさんのことも、おじさんのことも大好きだもん。ゆう君のことはわたしに任せてね……」


 沈黙を雨音が満たしていく。

 優記はダイニングの流しのそばでぼんやり立ったまま、その光景を見ていた。

 年に似合わずはっきりした物言いは未鳥そのものだ。

 優記は彼女を未鳥の幽霊だと決めた。

 足はあるけれど、体温も感じるけれど――僕が頼りないから、あの世で両親に頼まれて来てくれたのかもしれない、なんて空想をする。


「ゆう君。寝癖、すごい。お風呂入ってきちゃえば。何日も入ってないでしょ」


 そう言われてみればいつから入浴をしていなかったのか。

 下着も替えていないかも。

 今日が何月何日か、カレンダーを見ても分からなかった。

 先の予定まで母さんの字で書き込まれている。

 ヨガ教室に行く日、友達とお茶をする日、父さんの出張の日、それから――。


 喉が詰まって、不意に嗚咽が跳ねた。

 噛み締めてもみっともなく上ずった声が漏れる。

 俯くと涙がレンズに落ちて、益々眼鏡が汚れていく。

 滲んでしまって、到底文字は読めなかった。

 でも何が書いてあるかはもう覚えてしまった。

 そこには《ゆうきの誕生日》とメモしてある。

 もうこの歳になったんだから、お祝いなんかしなくていいのに、浮き浮きとカレンダーに字を書き込んでいた母親の姿を思い出す。


「ゆう君……」


 未鳥が居間から駆け寄ってきて、優記に膝をつくよう促した。

 彼女はそっと優記の眼鏡を押し上げると目じりにチュっと口付ける。

 ぺろ……

 また、舌の柔らかく暖かな感触。ちゅ、とあふれたばかりの涙をすする。

 未鳥の鼓動をすぐ間近で聞いた。どくん、どくん。

 幽霊にも心臓があるのだろうか。吐息は熱く、頬を暖めている。

 優記の頭を抱きしめる手はとても小さい、子供のものだ。

 髪の毛がくしゃっとゆがむ。されるがまま、優記は未鳥に抱かれている。


「未鳥」


「うん……」


 もう疑いようがなかった。

 声も、匂いも、彼女と同じ。

 囁く調子も、触れる仕草も。五年前と何も変わらない。


「また会えて嬉しい。未鳥……」


 華奢な体を抱きしめ返す。

 少女の体温が直に伝わってきた。

 薄いシャツの一枚だけしか二人を隔てていない。

 彼女は一瞬緊張したように息を詰めて、だけど優記を受け入れた。


「ゆう君。ごめんね。今まで会いに来られなくて、ごめんね」


「ううん。いいんだ。会いに来てくれただけで……今、すごく嬉しいから」


「……苦しいよ、ゆう君。眼鏡、痛い」


「あ、ご、ごめんっ」


 自分がどんなに無遠慮なことをしていたか気づいて慌てて体を離す。

 優記の焦る様子を、未鳥は面白そうに笑った。


「やっぱり汗くさいよ。お風呂、入って」


「うん……ごめん」


 言われたとおりに優記は浴室へ向かう。たぶん、四日ぶりのお風呂だ。

 鏡に映る自分の顔の変わりように驚いて、みじめな気分になって、だけどお風呂に浸かると少し落ち着いた。

 清潔な服に換えて、気分もちょっとだけスッキリしたと思う。

 気を緩めた途端に涙腺が決壊してしまうような感覚がすぐそばにあって、腫れあがった瞼は視界をいつもの半分にしている。

 眼鏡はまだ汚れたまま、優記は髪を乾かして居間へ戻った。


 もしかしたらもう彼女は消えているかもしれない、と覚悟をして。


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