14. 第三試合 五回表(後)

 普段はベンチの奥でじっと立って戦況を見つめている監督が、今はベンチの最前線に立って一人の部員に何か語りかけていたのだ。異常事態にマウンドに集まる全員の顔が強張る。

 野球未経験な監督は常々「俺の仕事は日々の見守りと引率だ」と言っており、実際練習に関して口出ししたり指示を出すことは一切無かった。試合が行われる際も、ベンチの奥から戦況を見つめるだけで伝令やサインを出したことは一度も無かった。

 監督が部員に対して要求したことは一つだけ。

『頼むから、警察沙汰になるようなことだけはしてくれるな。それだけ守ってくれれば、後は何をしてもいい』

 その約束を守ってくれるのであれば「テストの結果が多少悪くても大目に見る」とさえ口にした。教職に就いている者としてはあるまじき発言ではあったが、幸いなことに赤点を取る部員が出たことは無かった。試験前にテスト対策で部員全員が一堂に会して集中勉強会が自主的に行われていたことも一定の効果を挙げていたが、各々が勉強を疎かにしない意識を持っていたことも大きかった。

 ほぼほぼ放ったらかしにされてきたが、この監督のおかげで部員達はのびのびと練習することが出来た。効率の良いメニューを自分達で考え、怠けている者が居れば他の部員が注意し、自発的に朝練や居残り練習に取り組んだ。“任されている”ことは“頑張る”ことがセットになっていると皆考えていた。

 けれど、今この危機的な状況で、初めて監督が動いた。

 監督の横で話を聞いているのは、控えメンバーの柳井だ。柳井は岡野や新藤と同学年のキャッチャーで、肩もそれなりに強くて長打も期待出来る選手だったが、新藤という絶対的存在が同学年に居たことでサブに回ることとなった。それでも本人は腐ることなく別のポジションに挑戦し、今では外野やサードを守れるようになった。新藤に万一の際のバックアップ要員でなく、代打や交代に伴う守備要員という形でチームに欠かせない存在になっていた。また、非常に明るい性格で、モノマネをして周囲を笑わせたりベンチから積極的に声を出したりと、チーム内のムードーメーカーでもあった。

 その柳井が監督から伝えられた内容を復唱する。内容に齟齬がないことを確認した監督は、柳井の肩を叩いてマウンドへ向かうよう促した。監督から送り出された柳井はベンチ前から全速力で駆け出し、グラウンドに入る前に主審へ帽子を取って一礼してから再び走り出した。

「……監督は、何て言っていた?」

 強張った表情で新藤が訊ねると、柳井は一つタメを作ってから話し始めた。

「『いつも使っている遅い球はどうした?』って」

 開口一番に核心を突く一言に新藤は言葉に詰まった。さらに柳井は続ける。

「それと『自分達の方が実力で劣ると分かっているのに、相手の土俵で勝負しても勝ち目は無い。背伸びして負ければ必ず後悔することになる。だから、普段着の自分で、悔いが残らないよう精一杯やり尽くせ』だって」

 柳井から伝えられた監督の言葉に、岡野は頭を殴られたような衝撃を受けた。

 いつもボーっと見ているだけの監督だとばかり思っていたが、案外ちゃんと見ているんだなと岡野は感心した。

 新藤とは事前に打ち合わせして『今日はスローカーブを使わない』と決めていた。理由は簡単だ。岡野のスローカーブはストレートとの球速差で打者のタイミングを狂わせるのがメインで、スローカーブ単体で勝負出来るだけのクオリティがないからだ。弱小校や中堅校レベルなら通用したが、強豪校相手に通用しないのは既に分かっていた。秋の県予選決勝戦では県内で三本の指に入る強豪・星城が相手だったが、中継ぎで登板した岡野は先頭打者にスローカーブをスタンドまで運ばれていた。

 変化の幅も落差も大したことがない岡野のスローカーブは、芯で捉えられれば遠くまで飛ばされてしまう。全国でも指折りの強力打線を擁する大阪東雲が相手では些か分が悪いと判断した新藤が、新球種であるスライダーを軸にした配球で勝負することを提案し、岡野もそれを了承した。

 監督の言葉を伝えられてもなお、新藤の表情は晴れなかった。拒んでいるのではなく、葛藤しているのだろう。確かに、スローカーブを使えば緩急で投球の幅は広がるが、一歩間違えればさらなる大量失点に繋がる恐れがあるからだ。

「新藤」

 険しい表情のまま黙っている新藤に、柳井は優しく声を掛けた。

「お前はウチの顔だ。そのお前がそんな怖ーい顔してたら、チーム全体も暗ーくなってしまう。ほら、もっと笑え!」

 そう言うなり柳井は自分の指で口角を持ち上げ、ニコッと笑った。その顔に釣られて何人か笑みを溢[こぼ]した。すると今まで覆っていた重苦しい空気から一転して和やかな空気に入れ替わった。満塁弾を浴びてさらにノーアウト二三塁と絶体絶命の大ピンチである状況も一瞬だけながら忘れさせてくれた。

「……それも監督の指示か?」

「いんや。俺の個人的感想さ」

 新藤の問い掛けに柳井は軽い調子で答えた。

「……そうか」

 それから新藤は息を一つ吐くと、先程とは打って変わって明るい表情を浮かべて力強く宣言した。

「逆境上等! この状況を楽しもうぜ!」

「おう!!」

 新藤の呼び掛けに全員が力強く応じる。心なしか全員の表情も先程と比べて明るくなったように感じる。それはまた岡野も同じだった。

 自分も球場の雰囲気に呑まれていたと初めて気が付いた。「何とか抑えないと」「無様な試合にだけはしたくない」という気持ちだけが先走って、いつの間にか無意識の内に気負っていたのだ。柳井のアドバイスのお陰で、憑き物が落ちたような気分だ。

 ガムシャラにならなくても良い。いつも通り、肩肘張らずのらりくらりと躱[かわ]せば良いのだ。元々実力差があるのは承知の上だ。打たれたら「やっぱり相手が上手だった」と割り切るしかない。

 新藤の一声で締めると、内野陣は各々の守備位置に散っていった。新藤は戻り際に岡野へ短く「頼むぞ」と声を掛けてから戻っていった。マウンドには一人岡野だけとなった。

 バッターズサークルには、不敵な笑みを浮かべながらこちらを見つめる長瀬。多分「俺がここでダメ押して試合を決めてやる!」と思っているに違いない。だって、顔に書いてあるから。

 ただ、ここまで二打席対戦して何[いず]れも空振り三振に抑えている。何も考えずブンブン振ってくれるから逆に助かっていた。確率は低いが当たれば外野の頭を越えていくので、そういう“事故”に遭遇しないよう祈るしかない。

 岡野の中では「こういう風に攻めて、決め球はこれ」という投球のビジョンが出来上がっていた。打たれるイメージは微塵も抱いていない。あとは新藤がどう組み立てるか。

 打つ気満々で打席に入ってきた長瀬。一声景気づけに咆えてからバットを構えた。

 一拍の間を置いて、新藤が要求してきたのは……岡野が考えていたボールと一致していた。岡野も即座に頷く。

 初球。バッテリーが選択したのは……岡野の代名詞であるスローカーブ!

 ふわっと浮き上がる軌道のボールに長瀬は面喰ったという顔を見せた。それでも黙って見送ってなるものかと果敢にバットを出してきたが、バッターから逃げるように落ちていくボールを捉えきれず豪快に空振り。勢いがつき過ぎたあまり、堪え切れずに尻餅をついてしまった。

 良し、狙い通り。イメージした通りの結果に内心気分を良くした。

 二球目。今度はストライクゾーンへ入ってくるスローカーブ。長瀬も次こそは捉えてやると血眼になってボールをギリギリまで呼び込む。そして意を決してフルスイングしたが、無情にも空を切った。実は僅かにストライクゾーンに届かないコースに投げ込んだので、悪球打ちでもしない限り当たることは無いのだ。

 テンポ良く二ストライクまで追い込めた。次のボールは予め決まっていたらしく、新藤が間を置かずサインを送ってきた。岡野もその三球目に選ぶならそのボールだと思っていたので、一も二も無く応じる。

 一方で打席に立つ長瀬は明らかに苛ついた表情を浮かべていた。二球続けてスローカーブで翻弄されたことに対する怒りか、それとも真正面から勝負しないことに対する不満か。どちらにせよ、冷静さを欠いているのはこちらにとって好都合だ。

 三球目。遊び球を挟むことなく三球勝負を選択したバッテリーの答えは、内角高めへのストレート! 得意コースと逸った長瀬は反射的にバットを振ったが、先程まで二球続けて投じられたスローカーブに目が慣れていたために球速差の緩急についていけず、空振り。喉から手が出る程欲しかったアウトがようやく取れたことに、岡野は安堵の溜め息を洩らした。

 しかし、依然としてピンチは続いている。顔を歪めて悔しがる長瀬と入れ替わりに七番の草薙が右打席に入ってくる。

 草薙は第一打席で粘られた末に根負けしたバッテリーが歩かせてフォアボール、第二打席では外へ逃げて行くスライダーを泳がせてファーストへのファールフライに打ち取っている。何も考えずガンガン振ってくる長瀬とは対照的に、慎重にストライクを見極めてくるタイプという感じだ。打順は七番と下位ではあるが、近畿大会ではホームランを放っており油断大敵だ。

 初球。ここでもスローカーブを投げ込む。草薙は外れると踏んで見送ったが、外角低めの隅ギリギリに決まってストライク。

 変化球をコーナーに決める為に、制球力を上げる練習を秋から冬にかけて繰り返し行ってきた。ウイニングショットを持たない岡野にとって、コントロールは投球の生命線だ。配球は全て新藤に、守りは後ろに控える野手に全てを委ねている。自分は失投しないよう最大限気をつけて、新藤が構えた場所に目掛けて思い切り投げ込むだけだ。それが上手く機能したからこそ、夢の大舞台に立てているのだ。

 二球目。再び、外へ逃げて行くスローカーブ。草薙はストライクかボールか見極めが難しかったのか、カット。打球は後方へ飛んでいった。これで二ストライク。一見すると全く同じようなコースに同じボールを投げたように捉えられるが、実際は先程からボール一個分外に外していた。なので、見送ればボールになっていた球を草薙は手を出してしまったこととなる。

 三球目。ど真ん中付近に投げ込まれたボールに草薙もバットを出す。しかし、ボールはベース手前で外へスライドしていった。絶好球だと思ってスイングした草薙のバットは途中で止めることが出来ず、バットの先端に当たった打球はフラフラと力なく打ち上がり、一塁ベンチの前でファーストの関口が落ち着いてキャッチした。内野フライなのでタッチアップは出来ず、ランナーはそれぞれの塁に釘付けだった。

 満塁ホームランから連打で作ったノーアウト二三塁の大チャンスだったが、あっと言う間に二アウトとなってしまった。怒涛の六連打で膨らんだ押せ押せムードが急速に萎[しぼ]んでいくのを肌で感じ取った三塁側のアルプススタンドは、明らかに応援の熱量が弱まっていた。

『八番 ライト 国分君』

 流れが変わったことを肌で感じているのか、左打席に入ってくる国分の表情は幾分硬いように映った。一方で、立て続けにアウトを重ねた岡野はグランドスラムのショックから立ち直ったのか、血色が大分良くなった。本来であれば国分の方が優位に立っている筈なのに、立場は逆転していた。

(……さあ、ここからどう抑えようか)

 右打者二人を抑えたことで、岡野は完全に息を吹き返していた。強打者揃いの大阪東雲を何としても抑えなければならないと意気込んでいたが、今思えば前のめりになり過ぎていた。喪失していた自信も監督の言葉とスローカーブが効果的に利いたことで蘇っていた。それはマスクを被る新藤も同じなようで、笑みを浮かべながらこちらを見ていた。柳井の一言で救われたのだろう。そしてまた、新藤が笑っていることで岡野の方にも気持ちに余裕が持てた。

 岡野は息をフーッと吐くと、右腕をグルリと一回転させる。これで準備は整った。

 初球。国分の胸元へ目掛けてストレートを放り込んだ。厳しいコースを衝かれた国分は大きく仰[の]け反[ぞ]る。危ないボールに球場全体からどよめきが湧き上がるが、岡野は平然と聞き流す。

 これはあくまで次への布石。万一当たったとしても塁が埋まるだけで押し出しにはならない。ある意味で開き直った態度の岡野は一切動じていなかった。

 二球目。今度は内角低めにストレート。先程のボールが残像となって刻まれていたからか、国分は踏み込めず見送り。これがストライクの判定となり、一ボール一ストライク。

 三球目。外角からストライクへ入ってくるスローカーブ。外から内へ入る変化球は打者から見れば打ちやすいボールではあるが、二球続けてストレートを投げられた後に二十キロ近い球速差のある遅いボールに国分は完全にタイミングを狂わされてしまった。泳がされてボールの下を叩いてしまい、打球は勢いなく打ち上げてしまった。悔しがる国分と対照的に、マウンド上の岡野は穏やかな表情で打球の行方を見守る。

 高く上がった打球はそれ程遠くまで飛ばず、セカンドの野沢が余裕を持って落下点に入った。落球すれば即失点となる絶対に失敗出来ない場面だったが、何の波乱もなく無事にボールは野沢のグラブに納まった。

 長かった五回表が、ようやく終わりを告げた。三つ目のアウトを取った瞬間、岡野は思わず拳をグッと握って控え目に喜びを表した。

 四点を失ったのは痛いが、ノーアウト二三塁と絶体絶命の大ピンチを無失点で凌いだのは結果的に大きかった。そして何より、大阪東雲に傾いた流れをこちらへ手繰り寄せたのは、チームにプラスとなる好材料だった。

 引き揚げてくるナインの表情も一様に明るい。満塁弾を浴びたショックは消え去り、攻撃に向けて良い弾みがついたと実感した。

 望みを繋げば、勝機はいつか訪れる。そう信じて、岡野はこれからも投げ続ける意志を固めた。

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