13. 第三試合 五回表(前)


 日は沈み、空は濃紺から黒へと移り変わる途中にある五回表。

 この回先頭の九番香取は初球から積極的に振ってきたが、高々と打ち上げてしまった。打球はライト方向へ飛んで行き、ライトの大本も余裕を持って落下点に入った。

 しかし……上空を見上げる大本の様子がおかしい。一度完全に止まった足が、また動き始めた。上を見ながら前進してきたが足を止める気配は見られない。どんどん速度を上げていくが、大本の手前で白球が跳ねた。香取は打球が落ちたのを確認して二塁を窺う動きを見せたが、ワンバウンドで捕った大本が素早くセカンドへ送球すると一塁へ戻った。記録はヒット。

 堅守が売りの泉野高は当然のことながら外野の守りもかなり鍛え上げられていた。それにも関わらず目測を誤ったのは、不慣れな暗い中でのプレーが影響したのだろう。

 不運な形で先頭打者を出してしまった。それでも岡野は特に気にすることなく、気持ちを切り替えていた。

 打順は一番に戻り、中居が打席へ入ってきた。第一、第二打席共に抑えており、印象は決して悪くなかった。

 内野はゲッツー狙いのダブルプレーシフトを敷いたが、中居はここでバントの構えを見せたことでファーストとサードがバントに備えてやや前寄りに守る隊形となった。岡野としてはゲッツーが理想だが、最悪ランナーを進められてもアウトを確実に一つ取れるならバントでも構わないと思っていた。

 初球。内角高めへストレート。中居はバントの構えを崩さず、来たボールをしっかり転がした。打球は三塁線寄りに転がったものの、ボールの勢いが強かったのでそのまま切れると岡野は判断した。サードの原も同じ見立てらしく、敢えて処理せず転がる白球の行方を見守る。

 やがて転がる勢いが弱まり、白球は三塁線のラインに迫っていった。観衆も含めた全員の視線が白球に注がれる中……白球はラインの上でピタリと止まった。

「フェア!!」

 無情にも告げられた三塁塁審のジャッジに原はがっくりと肩を落とした。中居は既に一塁を駆け抜けており、香取も二塁に進んでいた。アンラッキーが重なる形で連打を許してしまった。

 切れると思っていた岡野も少なからずショックを受けたが、それでも深刻に捉えないよう気丈に振舞った。

 ノーアウトから二者連続でヒットが出たことにより三塁側のアルプススタンドは大いに盛り上がっていた。ブラスバンドの演奏も心なしか熱を帯びているように聞こえるし、大応援団の歓声やメガホンの音も先程より大きくなったように感じる。押せ押せムードに流石の岡野も萎縮する気持ちが芽生えた。

「―――」

 原が岡野に向けて声を掛けてきたが、三塁側から発せられる大音量に掻き消されて聞き取れなかった。口の動きから察するに「ゴメンな」と言ったのだろうか。岡野は聞こえるか分からないが「気にするな」と返した。伝わったかどうか分からないが、原が片手で拝んだことから恐らく意図は伝わったのだろう。

 さて、どうするか。

 次の城島は第一打席がサードへのファールフライ、第二打席ではフルカウントの四球。出塁は許しているが印象は悪くない。

 問題なのは……次に控えている木村だ。第一打席では初見のスライダーを強引にライトへ運ばれ、第二打席では低めのストレートをセンターへ綺麗に弾き返された。ここまで当たっている上に相性も最悪だ。

 木村の前にランナーを溜めない事が肝要と考えていたので、既にランナーが二人出ているこの状況は芳しくない。トリプルプレーならば一発逆転でピンチから脱却出来るが、望みは薄い。ダブルプレーでアウト二つ取れれば上出来、最悪でもアウト一つは稼いでおきたい。アウトさえ取れれば一旦流れが切れるので、悪い流れも断ち切れることだろう。

 城島はトリプルプレーの可能性がある引っ張りは避けたいから、右方向へ流してくることだろう。その場合、右打者から逃げていく軌道であるスライダーは避け、シンカーで詰まらせるのがベストか。

 初球。相手の出方を窺うべく外角高めのストレートを選択したが……城島は果敢にも振ってきた!しかも流すのではなく強引に引っ張ってきた!打球は左中間方向へ転がっていく。

 通常であればショートの守備範囲内だったが、ゲッツーシフトを敷いていた為にショートは通常の守備位置から二塁寄りに守っており、三遊間は広く空いている状態だった。幸いなことに打球の勢いはそんなに強くないが、それでも抜けてしまえば確実に先制を許してしまう。逆を衝かれたショートが懸命に追いかける。

 走って、走って、追いつくかどうかの瀬戸際。このままでは間に合わないと悟ったショートがダイビングキャッチを試みる!

 『絶対に止めてやる』という強い執念が実を結び、ボールはグラブの中に収まった。瞬時に立ち上がって送球する体勢となったが……ランナーはそれぞれ次の塁に進んでおり、バッターランナーも既に一塁ベースを駆け抜けていた。

 味方のファインプレーもあって先制点こそ阻止したが……これで全ての塁が埋まってしまった。ここで迎えるは、今日一番当たっている木村。絶体絶命の大ピンチである。

 遠くへ飛ばすことも、手堅くヒットを狙うことも、やろうと思えばセーフティスクイズも出来るバッター。三振、内野フライ、どん詰まりのピッチャーゴロかキャッチャーゴロ以外なら高確率で失点してしまう、非常に厳しい状況だ。

 犠牲フライまたは内野ゴロなら一点、ヒットなら二塁ランナーも生還するだろうから二点、外野の間を抜ければ走者一掃で三点、そして最も怖いのは……フェンスの上を越えてスタンドインすれば一挙四点。ここまでヒットどころか一人のランナーも出せておらず完全試合ペースで抑えられている味方打線が四点も取れるとは思えない。たった一点でも、途轍もなく重たい。

 ……いやいや、ネガティブなことばかり考えるのは良くない。ボテボテのピッチャーゴロならホーム封殺でゲッツーだ。内野に転がれば一点は失うがダブルプレーになる可能性だってある。そして何より、三振や内野フライになる可能性だってゼロじゃない! 何事もチャレンジしなければ道は拓かれないのだ!

 ここまで不運な形で出塁を許してきたせいか、悪い方向へ傾いていた思考を意識して持ち直す。流石に三連打を浴びて心配に感じた新藤が声を掛けようと立ち上がりかけたが、岡野はそれを手で制して気丈に振る舞った。

 誰かが言っていたっけ。『神様はその人が乗り越えられるだけの大きさの試練を与える』と。誰が言ったか覚えてないけれど、言われてみれば確かにその通りだ。俺はこのピンチを凌いで、一回り成長してやろうじゃないか。

 体育会系特有の熱血体質とは真逆のドライな性格の岡野だったが、成長意欲も勝負に対する意欲も人並みに持っていた。好きだから続けてきた野球だが、実力差がある相手だから負けても仕方ないとは思わない。『窮鼠猫を噛む』の諺ではないが、才能で大きく劣る凡人でも舐めて臨めば痛い目に遭うことを思い知らせてやる!

 三塁側から送られる大阪東雲の応援はボルテージを上げて最高潮に達していた。ブラスバンドの演奏も熱を帯び、大観衆から湧き起こる声援も一段と増して大きくなっていた。ここまで当たっている木村に皆期待を寄せているのだ。その熱量を自分に向けられていると置き換えれば……完全アウェーで心細さを覚えていたが、何だかやれる気がしてきた。

 球場の雰囲気を体内に取り込むようなイメージで、大きく空気を吸う。体が膨らむ感覚と同時に、ポジティブな気が全身に満たされていくような気がした。

 ……よし、やれる!

 間違いなく、この打席は今日の試合の行方を左右するターニングポイントとなる。後悔することないよう、出し惜しみせず全力でぶつかってやる!

 初球。外角低めへのストレート。木村は微動だにせず見送る。ストライクゾーンの隅ギリギリを狙ったボールだったが、主審の腕が上がった。ストライク。

 指に掛かったボールは我ながら素晴らしい出来だったと内心で自画自賛した。感触も悪くない。

 二球目。もう一度全く同じコースへストレート。先程と比べて微妙なズレはあったが、ほぼ同じ場所に投げ込めた。これも木村は悠々と見送り。二ストライク。ポンポンとテンポ良くストライクを重ね、追い込んだ。

 しかし、油断は禁物だ。第一打席でも同じように二球で二ストライクと追い込んだが、ウィニングショットのスライダーを強引にライトまで運ばれてヒットとされた。生半可なボールでは抑えられない。今日一番の、最高なボールで勝負だ!

 新藤のサインは……スライダー!! 岡野も勝負球に選ぶならスライダーだと決めていたので、バッテリー間で思惑は一致していた。コースは内角低め。無理に引っ張ってもファールになるかファースト正面のゴロになり、アウトになる可能性が極めて高い。

 但し、少しでも甘くなれば間違いなく痛打される。失敗は許されないこの状況で、自分の全てを出し切る気持ちで一球に魂を込める!

 一つ息を吐いて、集中を高める。ランナーは気にならない。走られる可能性はゼロなのでバッターとの勝負に全精力を注げる。岡野の目には木村の姿と新藤が構えるミットしか映っていなかった。感覚が研ぎ澄まされている良い兆候だ。

 ゆっくりと、自分のリズムで投球に入る。踏み込む左足、振り切る右腕、手元から離れる寸前まで白球と触れる指先。ピースがそれぞれあるべき場所に嵌まる感覚が、手に取るように伝わってきた。

 ボールが指先から放たれた瞬間―――比喩ではなく文字通りに自己最高のボールを投げられたと直感した。野球人生で一番のボールと断言しても良い程に、渾身の一球が投げられた。

 岡野の脳裏には、木村がスライダーに手が出ずに天を仰ぐ光景が映し出された。奇蹟の一球に流石の木村も打てな―――

 ―――刹那、背筋に冷たい感触が走った。直後、未来を予想した映像が一瞬の内に消え去り、現実に引き戻された。

 それまで悠然と見送っていた木村の右足がゆっくりと動くのが見えた。まさか、打つ気なのか。ベースを過ぎた辺りから内へ切り込んでいく軌道を描くボールに、木村のバットがピンポイントで合わせるようにスイングされる。

 大丈夫、強引に当てたとしても詰まらされるかファールになる。湧き上がってくる不安を打ち消すように岡野は自分自身に言い聞かせる。タイミング、ポイント、この二点が合致しなければ打ち返されるはずがない。

 それでも、木村は躊躇なくバットを振ってくる。例えるならばプロゴルファーのような、軸がしっかり据わったスイング。スムーズに出てきたバットは……岡野渾身の一球を見事に捉えた!

 澄んだ音を置き去りにして弾き返された白球は高々とセンター方向へ舞い上がった。反射的に打球の行方を目で追うが、既に白球は誰の手にも届かない高さまで飛翔していた。黒一色に染まった空を勢い良く切り裂いていった白球は……無人のバックスタンドに突き刺さった。

 満塁ホームラン―――。

 外野フェンスの上を越えていった瞬間、球場全体から揺れるような大歓声が沸き起こった。

 木村は周囲の喧騒に表情を変えることなく、ゆったりとした歩調でダイヤモンドを回っていき、先に生還した三人に出迎えられる形でホームをしっかりと踏んだ。待っていたランナーから祝福のタッチに軽く応じてからベンチへ引き揚げると、ベンチに居たメンバーが最高の結果を出してくれたチームの主砲を熱烈な祝福で迎え入れた。

 その様子を、岡野はマウンドの上から呆然と眺めるしかなかった。他のナインも最悪の結果に言葉を失っているようだった。

(嘘だろ……あのボールを……)

 最高傑作と自信を持って断言出来る球を、いとも簡単に打ち砕かれてしまった。その衝撃の大きさに岡野はがっくりとうなだれるしかなかった。

 声にならない言葉が零れる。この球が通用しないのなら、あの化け物をどうなって抑えればいいのだ。完璧な一球をスタンドまで運ばれ、それまで保っていた闘争心が根底から崩れ去っていく音が聞こえた。

 球場全体が一躍お祭りムードとなり盛り上がる中、新藤がマウンドに駆け寄ってきた。

「今の球はこれまで受けてきた球の中で一番良かった。ただ、相手が一枚上手だっただけだから。打たれたことは忘れて、切り替えていこう」

 新藤が懸命に慰めてくれたが、その言葉は自信を喪失した岡野の心に響いていなかった。岡野は無言で一つ頷くと、新藤はそれ以上声を掛けず元の守備位置に戻っていった。

 最高潮まで盛り上がった余韻が球場内に漂う中、四番の松岡が打席に向かってきた。

 それまでの反動からか、人生最高のボールを打ち砕かれたショックが大きかったからか、岡野はどこか上の空だった。

 初球。内角低めにストレートを要求されたが、球威のないボールが中央付近にずれた。甘い球を松岡も見逃さず痛打し、目の覚めるような当たりが一二塁間を駆け抜けていった。

 満塁ホームランで一挙四点先制した直後に四番の松岡もヒットで繋いだ。三塁側のアルプススタンドから湧き起こる応援が再びボルテージを上げてきた。

 さらに続く稲垣も低めへ沈むシンカーを巧みにすくい上げ、ふわりと上がった打球はサードの後方にポトリと落ちるヒットを放った。一塁ランナーの松岡が二塁を蹴って果敢に三塁を狙い、打球を処理したレフトが急いで三塁に送球したが悠々セーフの判定。その間隙を突いて稲垣も二塁を陥れた。

 不運な形で全ての塁が埋まり、ここ一番と踏んで全身全霊を尽くして送り出した人生最高のボールをスタンドに運ばれ、さらに連打を許して再びピンチを招いてしまった。悪夢のような展開で、流れは完全に相手のペースだ。これ以上失点した場合、さらなる大量失点に繋がる恐れがある。それだけは何としても避けたい所ではあるが、手持ちのカードを全て出し尽くしてしまった状況の中でこのピンチを打開する糸口は全く見当たらない。

 流石にマズイと感じた新藤が居ても立ってもいられず、主審にタイムを要求した。内野陣もマウンドに集まってきた。

「参ったな、流れが悪過ぎる……」

 険しい表情で語る新藤。ネガティブなことは滅多に口にしない新藤だったが、ここまでの展開に動揺が隠しきれない様子だった。

 怒涛の攻撃に決壊寸前で何とか踏ん張っているものの、もう一押しされれば間違いなく崩れてしまうだろう。ただでさえ完全試合ペースで封じ込まれている打線がこれ以上引き離されれば、逆転の目は完全に潰えることとなる。しかも全国でもトップクラスの破壊力を持つ大阪東雲打線を相手に孤軍奮闘してきた岡野が明らかに戦意を喪失してしまっている。どうすればこのピンチを乗り切れるか、全く分からなかった。

「おい、あれ!!」

 不意にセカンドの野沢が声を上げた。何かと思って野沢の視線の方向を見ると、全員が驚きで目を剥いた。


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