15. 第三試合 六回裏(前)
五回裏の攻撃は四番の新藤から始まる好打順だったが、ここまで一人も出塁を許していない長瀬の前に沈黙。ノーアウト二三塁の大ピンチを切り抜けて流れを引き寄せたと思っていたが、現実はそんなに甘くなかった。それでも六回表はこの日初めて三者凡退に抑え、掴んだ流れを相手に渡すことはなかった。
スローカーブを使い始めたことで緩急が活きるようになり、それによって投球に幅が広がって抑えられるという好循環が生まれた。大阪東雲もスローカーブへの対応に苦慮しているらしく、まだ芯で捉えることが出来ていない。この調子で抑え続けることが出来れば、逆転の目もきっと見えてくるはずだ。
(……まぁ、その前にランナーを出さないことには話にならないけど)
岡野はヘルメットを被りながら心の中で自嘲気味にぼやく。
先にも触れた通り、泉野高は相手の先発投手である長瀬の前に一人のランナーも出せておらず、攻撃の糸口さえ掴めてない。頼みの新藤も長瀬本気の投球を前に成す術なく二つの三振に抑え込まれている。他の野手陣も同じように三振の山を築いている有様だ。この惨憺[さんさん]たる結果を不甲斐ないとは思わない。元々地力のないチームなのだから致し方ないと割り切っていた。
この回も七番の松田が三球三振、続く八番の野沢もどん詰まりのピッチャーゴロと呆気なく二アウトとなってしまった。アウトになったのを見届けた岡野はゆっくりとバッターボックスへ向かう。
高校野球では、エースピッチャーが主軸を打つというケースは意外と多い。プロ野球で活躍する一流のバッターでも、高校時代に四番を任されていた投手や元投手という人は少なくない。
それに対して岡野はどうかと言われると……打順が示している通り、バッティングに期待はされていない。非公式戦も含めた通算でもヒットは数える程度しか打っていない。その代わり、本職の投球では十二分にチームの勝利に貢献しているので誰からも文句は言われない。
岡野自身、漫画やドラマに出てくるような“エースで四番”という姿に憧れを抱いている。しかし、空想の世界の“エースで四番”と呼ばれる人は、唸るような豪速球か魔球と表現される決め球の変化球を必ず持っているのがお決まりのパターンだ。一方で岡野はそのどちらも有していない。前提条件の段階で資格から外れていた。現実は非情である。
一方で、今マウンドに立っている長瀬は最速一五六キロのストレートと切れ味鋭いフォークが武器の本格派。さらに打順は六番ながらホームランが期待できるロマン砲。“エースで四番”を体現するなら長瀬のような人を指すのだろう。
そんなことを考えていると、不意に岡野の中で反骨心がふつふつと湧き上がってきた。
(……どうせ三振するなら、全部全力で振ってやる)
到底敵[かな]わないとは思うが、それでも何の抵抗もせず見逃し三振でアウト一つを相手に渡すのはやっぱり面白くない。ならば、当たらないのを承知で振ってやろうじゃないか。バットに当たる可能性は限りなくゼロに近いが、当たれば“もしかすると?”が起きるかも知れない。一寸の虫にも五分の魂と言うじゃないか。当たって砕けろの精神でぶつかってやる!
そう心に固く誓い勇んで臨んだものの……初球、二球目と全くタイミングが合わず空振り。マウンドに立つ長瀬からは闘争心というものが微塵も感じられない。『さっさとアウトになればいいのに』とでも思っているのか、はたまた『無駄な足掻きを』と呆れているのか。そんなの知ったことか。こっちはこっちで一生懸命やってるんだ!
二ストライクと簡単に追い込まれてしまったが、それでも挫けることなく岡野はバットを握る両手に力を込める。
三球目。岡野が「今だ!」と思いバットを出した瞬間、ボールが視界から消えた。長瀬の決め球、フォークボールだった。ストレートのタイミングで待っていた岡野のバットは落差にも球速差にも対応することが出来ず、無常にも空を切った。
(やっぱりダメだったか……)
諦めかけたその時―――予想外の事態が起きた。
岡野のバットをすり抜けていったボールは、城島が構えたミットにも収まらずに股の下を通り抜けていってしまった。岡野はその状況を頭で理解するよりも先に駆け出した。
「「走れー!!」」
反射的に走り出した岡野に向けて、一塁ベンチからチームメイトの檄[げき]が幾つも飛んできた。内心「マジか」と思いながら全速力で駆ける。普段気にすることのない一塁ベースまでの距離が、今は物凄く遠いもののように感じた。
日々の練習メニューの中にはベースランや短距離走も組み込まれていたが、どちらかと言えば瞬発的な速さより持久力のある走りのタイプである岡野はチーム内でも下位に沈んでいた。それでも「まぁピッチャーだから」と大目に見てもらってきたが、まさかこんな事になるとは。今までも決して手を抜いていた訳ではないが、もう少し足が速くなる努力をしておくべきだったと悔やんだ。
後ろの状況がとても気になるが、振り返っている余裕なんか無い。そんな暇があるなら足を前へ出すことに注力すべきだ。万一これでアウトになろうものなら、後からみんなに吊るし上げられるのは明白だ。
ようやく転がり込んできたチャンス、絶対に手放してなるものか―――!! 後先考えずガムシャラになって疾駆[しっく]する。歯を食い縛り、息が荒くなって胸が苦しくなっても懸命に堪え、すぐ先にある一塁へ全力で走る。
頼むからアウトになってくれるな―――!! その一心ですぐそこまで迫った一塁ベースだけ眼中に入れてひたすらに足を前へ前へ繰り出す。
あと二歩……―――あと一歩……―――踏んだ!!
それまでの猛烈な勢いそのままに一塁ベースを駆け抜ける。これまでの人生で一番真剣に走ってきた反動からか、胸が張り裂けそうなくらいに苦しい。ペースをゆっくり落として止まってから呼吸を整えると、ようやく苦しさから解放された。
さぁ、判定は……!? 走ることで頭が一杯だったので判定にまで気が回らなかった。これでアウトだったらショックで立ち直れそうにない。岡野は恐る恐る後ろを振り返る。
そう言えば一塁塁審の人はセーフともアウトともコールしていなかった。これは一体どういう事なのか? 整然と立っている塁審からさらに後方へ目を向ける。
その先に広がっていたのは……バックネットの前で諦めたように立ち尽くすキャッチャー城島の姿。その右手には白球がしっかりと握られていた。マウンド上の長瀬は大記録を逃した悔しさからか顔を歪め、ファーストの草薙も腰に手を当てて俯[うつむ]いていた。
と、いうことは……
「セー……フ?」
全力疾走した直後の疲労感で頭がぼんやりする中、岡野は半信半疑の心境で漏らした。
ふと一塁側ベンチに目を向けると、チームメイトのみんなが手を叩いたり歓喜の雄叫びを挙げたりして自分の出塁を心の底から喜んでいる姿があちこちで見られた。その様を眺めて、初めて自分が間に合ったんだと実感が湧いた。
記録は振り逃げ。胸を張って成果を誇れるような形ではないが、結果的に完全試合を阻止することが出来た。この際、不恰好は置いておこう。
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