その1(8)

 その日の夜、カミルはなかなか寝付けなかった。目を閉じると昼間のことが頭に浮かんでしまう。

 今日は月夜だから、道具小屋の中に光が差し込んで明るかった。レイナスは村人から借りた敷物の上で眠っている。カミルは、物音を立てないようにそっと立ち上がると、小屋の戸を開けた。勝手にうろついたらまたレイナスに叱られるかもしれないが、少し夜風に当たりたい気がした。

 カミルは小屋を出て、深呼吸した。それから空を見上げてみる。今日の空は、雲がほとんどなく、月が光ってきれいだった。

 カミルは、小屋の壁に背中を預けて、しばらく月を眺めていた。

「カミル」

 ふいに名を呼ばれ、カミルは辺りを見渡した。左右に人はいない。しかし、声は上の方から聞こえた気がする。そう思って、カミルが見上げようとした時、急に上から黒い塊が降ってきた。

「うわっ!」

 カミルは思わず声を挙げた。カミルの目の前に長身で黒ずくめの男が立っていた。

「サラディン!」

 カミルは、その姿を確認して警戒した。しかし、サラディンは涼しい顔で「心配するな。ただ話に来ただけだ」と言った。

「何の用?」

 今日の事があったばかりだから、カミルは警戒を解かずにサラディンに尋ねた。

「ゼントに会ったな?」

 サラディンの言葉に、カミルは動揺しつつうなずいた。

「会ったよ」

「ゼントは怪我をした様子だったが、今日何かあったのか?」

 カミルは答えに窮した。サラディンは、兄弟弟子の仇を取りに来たのだろうか。だとしたら、安易に答えるわけにはいかない。

 カミルが黙っていると、サラディンは「大体の見当はついている」と言った。

「見当って?」

「あれは、レイナス様がやったのだろう? ゼントが、レイナス様を怒らせるような事をして」

「なんで……」

 サラディンの言うことが合っていたから、カミルは驚いた。

「ゼントは、昔からどうしようもないやつだった。金のために研究成果を売ったり、女男見境なく手を出してはあちこちで騒ぎを起こしたり……」

「そう、だったんだ」

「だから、自業自得だ。大方おまえに手を出したのだろう?」

 図星だったので、カミルは焦った。そして、昼間の光景が再び頭に蘇ってしまった。

 サラディンは続けた。

「ゼントは、おまえを大分気に入った様子だった。おまえたちの様子を見に行った時、レイナス様よりおまえのことばかり気にかけていた」

 その言葉に、カミルは、ゼント云々より、サラディンがひそかに自分たちを見張っていたということの方が気になった。

「俺たちのこと、いつも見てたのか?」

「たまに見ている」

 さらりと言うサラディンに、カミルは呆れた。こっそりのぞかれているのは気持ちの良いものではない。

「隠れて監視するようなマネはやめろよ」

「堂々と監視されたらもっと嫌だろう?」

「いや、だから監視自体をやめろよ」

「それはできない」

 カミルはため息をついた。そういえば、サラディンは、レイナスに「見守る」と言っていた。それはこういう事だったのだ。サラディンは、レイナスに自分の師匠の後を継がせたくて、機会を窺っているのかもしれない。しかし、レイナスが秘術を使おうとするとは到底考えられなかった。

「いくら見張ってたって無駄だよ。レイが秘術を使うような事は絶対ないから」

「そうだろうか? カミルは、本当にレイナス様のことを分かっているのか?」

「どういう意味だよ」

 ずっと一緒に暮らしてきたのだから、自分が一番よくレイナスのことを知っている。それを、サラディンのような、つい最近レイナスのことを知ったヤツにどうこう言われたくない。

「大体、今日はどうだった? レイナス様の様子は?」

「レイは……めちゃくちゃ怒ってたよ。」

 カミルは、昼間のレイナスの事を思い出した。そして、

「あんな表情……。話し方も、初めて見た……」とつぶやいた。

「おまえは、それを見てどう思った?」

「どうって、逆の立場だったら、俺も怒るかなって……」

「それだけか?」

「うん」

「その姿が、レイナス様の本性だとしたら?」

「それはないよ。あれは、怒って我を忘れただけで……。レイは普段は全然怒らないし、優しいし」

「カミルも怒ったらそこまでやるか? 相手を容赦なく痛めつけることができるか?」

「それは……」

「ゼントを攻撃するレイナス様を見て、怖いとは思わなかったか?」

「思わないよ」

 カミルはそう答えたが、あの時、レイナスのあまりの怒り様に、声を掛けることができなかった自分を思い出していた。ゼントに襲われたことが衝撃的すぎて、レイナスの事を忘れていたが、レイナスのあの姿もかなり衝撃的だった。

「レイナス様が優しいのも、闇の裏返しかもしれない。カミルは完璧な優しさなど有り得ると思うか?」

「え?」

 サラディンの意味深な問いに、カミルは真意を計りかね、答えに窮した。

 サラディンが言葉を続けた。

「人を全く傷つけずに生きることなどできるはずがない。どんな聖人でも、自分の意思に関わらず、人を傷つけてしまうことがある。人を傷つけないためには、人の痛みを深く知り、その傷を完璧に避ける必要がある。つまり、人を全く傷つけることのない者がいるとしたら、それは、人の傷を最もよく分かっている者ということだ。裏を返せば、その気になれば、人を最も深く傷つけることができる者ということになる。光と闇は表裏一体だ。大きな光の陰には、必ず大きな闇がある」

「闇……」

 カミルは、以前レイナスが、自分には闇があると言っていたことを思い出した。しかし、実際に人を傷つけなければ、良いのではないだろうか。

「レイナス様と一緒に居続ければ、カミルはいつか、レイナス様に傷つけられるかもしれない」

 これも、以前レイナスが言っていたことだから、カミルは内心驚いた。そして、サラディンに尋ねた。

「なんで、そう思うんだ?」

「いつか、レイナス様が自分の感情をコントロールできなくなったら、闇の部分が表に出てくるだろう。そうなったら多分、一番影響を受けるのはおまえだ」

 サラディンの話は、分かったようで分からなかった。一体、どういうことを想定しているのだろう? そして、サラディンがわざわざ自分にそんな話をする理由も全く分からなかった。

「なんで、俺にこんな話をするんだ?」

「助言だ。無理だと思ったら、早めに逃げた方がいい。おまえでは、レイナス様を受け止めきれない」

「俺に無理だったら、誰がレイを助けてやれるんだよ?」

「そうなったら、誰にも止めることはできない」

 話の真意は分からないが、例え、どんなことが起きたとしても、レイナスを見捨てて、自分だけ逃げるようなまねができるわけがない。カミルはため息をついた。

「分かったよ。おまえの話はとりあえず覚えとく」

「そうだな。いつか分かる日がくるだろうから、覚えておけ」

 サラディンはそう言うと、カミルの前から忽然と姿を消した。

 カミルはもう一度ため息をついた。今夜は全く眠れそうにない。

 カミルは、サラディンがいた場所を見つめたまま、しばらくその場に立ち尽くした。

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