その1(2)
その翌日。
いつもと変わらない朝がやって来た。教会の朝は毎日早い。カミルとレイナスは、日が昇る前に起床し、夜着から祭服に着替え、教会の掃除を始めた。カミルが床を掃き、レイナスが窓を拭く。作業を続けていると、レイナスが窓の外を見て「あれ、なんだろう?」とつぶやいた。
「どうした?」
カミルは、レイナスの様子に首を傾げつつ、窓際に近寄って、レイナスの見つめている方向に目を凝らした。
「あそこに……何かいない?」
レイナスが指さす先は空だった。まだ日が昇りきっておらず、薄っすらと明るんだ空に、微かにではあるが、黒い人影のようなものが不自然に浮いているのが見えた。
「なんだ? あれ」
よく見ると、その人影はいくつかあって、じっとこちらを窺っているようだった。カミルは、背筋がぞっとした。
「あれは、魔物じゃないか?」
カミルがつぶやくと、レイナスが息をのむのが分かった。
「魔物」とは、人をさらい、血を吸ったり食べたりする化け物のことだ。化け物と言っても、見た目は普通の人間と変わらない。村々に突然現れては、人に危害を加える。近隣の村ではたまに現れているようだが、この村には現れたことがなかった。ノーマン神父が言っていたことだが、ナレ村は、この教会を中心として、聖なる力に守られているらしい。だから、闇の力を持つ魔物は、近づくことを嫌うということだった。特に、この教会は、絶対に魔物が入ることができない聖域になっている、とノーマン神父が言っていた。
「魔物は教会には入れないと思うけど……。とにかく、神父様に知らせに行こう」
「うん」
カミルとレイナスは、ノーマン神父の元に向かおうとした。しかし、廊下に出たところで、「立ち去れ!」というノーマン神父の声が聞こえた。その声は外からだった。カミルはレイナスと顔を見合わせて、声がした方に向かって駆け出した。礼拝堂を抜けて、外に飛び出す。
「あ!」
そこで見た光景に、カミルは絶句した。
上空のかなり高い場所に魔物が数体浮いていて、ノーマン神父と対峙していた。ノーマン神父の右手には剣が握られている。ノーマン神父が剣を持つ姿を見たのは初めてだった。
カミルたちが出てきたことに気付いたノーマン神父が振り返って言った。
「おまえたちは中に戻りなさい。この教会は聖なる力に守られている。この敷地内にあいつらは入って来られないだろう。本当は近づくのも嫌なはずだ。だから、じきにあきらめて帰る。おまえたちは心配しないで中にいなさい」
カミルは空に浮かぶ魔物たちを見つめたまま尋ねた。
「一体これはどういうことなんですか?」
すると、ノーマン神父が振り返って言った。
「すまない。すべて私のせいなのだ」
「神父様の?」
「ああ。あの魔物たちの狙いは私だ」
「どういうことですか?」
「ここのところ、魔物が近隣の村を荒らすことが多くなった。だから私は村々を回ってそういう魔物たちを退治していたのだ。……どうやら奴らに目を付けられてしまったようだ……」
ノーマン神父は出掛けることが多く、時に何日も教会を空けることがあった。それには、そういう事情があったのだと、カミルは初めて知った。そして、いつも温厚なノーマン神父が、魔物退治をしていたという事実に、驚きを隠せなかった。
「とにかく、おまえたちは中にいなさい。中にいれば……」
突然、ノーマン神父が言葉を止めた。その顔がみるみる青ざめていく。
「どうしたんですか?」
カミルが尋ねると、ノーマン神父は震える声で言った。
「……とてつもない力を持った者が来る……!」
その時。
空に黒い影が現れ、それがどんどん近づいてくるのが見えた。
「来る……!」
黒い影は教会の上空まで来ると一気に下降して、三人の前に静かに降り立った。
それは、黒衣を纏った青年だった。背が高く黒髪で、二十歳代半ばぐらいに見える。カミルはその姿を見て、まるで悪魔のようだと思った。しかし、悪魔だったらこの教会に入れないはずだ。この男は何者なのか、カミルは混乱した。
「サラディン……」
男を見たノーマン神父が男の名を口にしたのでカミルはさらに驚いた。どうやら、ノーマン神父はこの男と顔見知りのようだ。
「おまえは、ノーマンか?」
サラディンと呼ばれた黒ずくめの男が驚いた表情を浮かべた。そして、
「老けたな。おまえがこんなところにいるとは。」
と言った。
「サラディン、こんな老いぼれ一人のために、お前が来るとはな」
ノーマン神父が言うと、サラディンが鼻で笑った。
「別におまえに会いに来たわけではない」
サラディンはそう言うと、カミルの方に視線を移した。カミルは、サラディンと一瞬目があって、体を強張らせた。この男のことを何となく恐いと感じた。静かな表情の奥にある得体の知れない威圧感、そして、端正すぎる顔立ち。すべてが人間離れしていた。
サラディンは、次にレイナスの方に視線を移した。すると、その表情が一変した。それは驚きに満ちた表情だった。
すると、ノーマン神父がカミルを振り返って「カミル、レイナスを連れて逃げなさい!」と叫んだ。
その一瞬だった。
サラディンが何か呪文のようなものを唱えると、サラディンとノーマン神父の間の地面が突然隆起し、土の塊が矢のような形となって、ものすごい速さでノーマン神父の体を貫いた。カミルは、一瞬の出来事に声も出せなかった。
ノーマン神父はその場に倒れた。
「神父様!」
カミルとレイナスは倒れたノーマン神父に駆け寄った。二人がどんなに声を掛け揺さぶっても、ノーマン神父は全く動かない。神父はすでに息を引き取っていた。
「おまえ、どうしてこんなこと!」
カミルはサラディンを睨んだ。しかし、サラディンはそんなカミルを無視し、レイナスの方に歩み寄った。
「こんなところにいたとは……」
サラディンが、レイナスに向かって言葉を続けた。
「あなたは、自分が何者か知らないのですか?」
「……何を言ってるの? どうして、こんなことを?」
レイナスはサラディンを見上げた。サラディンはレイナスに語り掛けた。
「あなたは、十六年前にここに来たのではないですか?」
「そう、だけど……」
「私は、あなたの両親を知っています」
「え?」
サラディンの言葉に、カミルとレイナスは同時に声を挙げた。
レイナスは困惑した表情でサラディンを見上げている。カミルは、
「何言ってるんだ?」
と、サラディンにつかみ掛かろうとしたが、「やめて!」とレイナスに腕をつかまれ制止された。
サラディンが話を続けた。
「あなたの父は、ディーク様という方で、私の師であり、強大な魔力を持つ魔術師でした。ですが十六年前、ディーク様は、自分の妻に殺されてしまいました。それが、あなたの母親で、エリスという女です」
衝撃的な話にカミルは言葉を失った。サラディンの話が本当かどうかは分からないが、自分の父親を自分の母親が殺したなんて話を聞いて、ショックを受けないわけがない。カミルがレイナスに目をやると、レイナスは青ざめた顔でサラディンの話を聞いていた。
サラディンは、なおも続けた。
「エリスは、無理やり自分をさらって妻にしたディーク様を恨んでいました。エリスは、ディーク様を殺した後、生まれたばかりのあなたを連れて逃げ出したのです」
「うそだ……」と、レイナスはつぶやいた。
「いいえ、これは真実です。私はずっと、エリスとあなたを探していました。そして、やっと見つけることができた。あなたは、確かにディーク様の血を受け継いでいます。その魔力、もしかするとディーク様を超えているかもしれません。あなたは、自分では分からないかもしれませんが、相当な魔力をお持ちです」
「僕に魔力が?」
「はい。あなたはこんなところにいるべき方ではない。いや、いてはいけない方だ」
カミルは、「そんなわけないだろ……」とつぶやいたが、レイナスは何も言わずに地面を見つめていた。捨て子だったレイナスは自分の素性を知らない。だから、はっきり否定することができないのだろう。
「信じられないのなら、これを」
サラディンはそう言うと、小さな声で呪文を唱えた。すると、サラディンの右手に一冊の本が現れた。そして、サラディンはその本をレイナスに差し出した。
「お受け取り下さい」
レイナスはその本を受け取って、ページをめくった。カミルも横からそれをのぞき込んだ。そこには、呪文のようなものや、図形が書かれている。
「例えば……」
サラディンがまた呪文を唱え始めた。すると、先ほどノーマン神父を攻撃した時と同様に地面が隆起し、土の矢が現れた。そして、それが、ものすごい速さでカミルの顔の横をかすめて飛んで行った。あまりの速さに、カミルは何が起きたのかすぐに理解することができなかった。
「何を!」
レイナスがサラディンを睨んで立ち上がった。
「次は、当てます。」
サラディンが表情を変えずに言った。
カミルの心臓の鼓動が一気に早まる。それは、生まれて初めて味わう死の恐怖だった。
「やめて!」
レイナスが声をあげた。しかし、サラディンは淡々と言葉を続けた。
「では、五ページ目をお読み下さい。」
「なんで……」
「早く」
サラディンが呪文を唱えようとする。レイナスは慌てて本のページをめくった。そして、そのページを読むと、何かに気付いたような表情を浮かべた。そして、突然、サラディンと同じように呪文を唱え始めた。
すると、隆起していた地面の動きが止まり、土が崩れて元の地面に戻った。
それを見たカミルは驚いて言葉を失った。それを自ら行ったであろう、レイナスも驚きの表情を浮かべている。
サラディンは満足げな表情を浮かべた。
「やはり……。レイナス様、今のは、その本があれば誰にでもできるというものではありません。あなたに魔力がある証拠です」
「僕に、魔力が……」
「分かったでしょう? あなたは普通の人間ではありません。私と共に来て下さい」
「え?」
「ここはあなたの居場所ではありません。あなたの力は闇の属性のもの。本来、教会や聖職者が持つ聖属性の力とは相反する力。ここにあなたがいることは、周りにいる他の人間にも悪影響を及ぼします。ですから、私と共に来て下さい」
「共にって、どこへ?」
「ディーク様が住んでいた場所があります」
カミルは、慌てて立ち上がり、「レイ! だめだ! 行くな!」と言ってレイナスの腕を掴んだ。このままでは、レイナスが化け物の仲間にされてしまう。すると、サラディンがカミルに目を向けた。その冷たい視線に、カミルは思わず体を硬直させた。
「……カミル、だったか。邪魔をするな。おとなしくしていれば殺しはしない。レイナス様、あなたが来ないなら、ノーマンのようにカミルも殺します。来て下さるなら、手は出しません。どうしますか?」
レイナスは、サラディンを睨んだ。そして、
「僕は行かない」と、はっきり言った。その言葉にカミルは驚いた。レイナスは、カミルを助けるために「行く」というのではないかと思ったからだ。レイナスは続けた。
「だけど、カミルにも手出しはさせない。もし、カミルに何かしたら、僕は一生おまえを許さない」
強い言葉だった。確かに、行ってしまったらサラディンの思うつぼだ。そして、レイナスは唐突に何かをつぶやいた。
すると突然、何かを突き破るような大きな音が鳴り、まばゆい光が空から落ちて来て、サラディンの左肩に直撃した。
「あ!」
サラディンが叫んでその場に崩れ落ちた。カミルには何か起きたのか全く分からなかった。サラディンは、左肩を押えてうずくまっている。痛みを必死にこらえているようだ。
「カミル!」
レイナスがカミルの手を取って、その場から逃げようとした。しかし、サラディンは左肩を右手で押えたまま立ち上がった。
カミルとレイナスは身構えた。
「レイナス様、さすがですね。もう魔術を使いこなそうとしている。……分かりました。今日は帰ります。しかし、私はまたあなたの前に現れます。ずっと探していたのですから」
サラディンはそういうと、忽然と姿を消した。他の魔物たちも、いつの間にかいなくなっていた。
カミルは体中から力が抜けて、そのままその場に崩れ落ちそうになった。レイナスが両腕で抱きかかえるようにカミルの体を支えた。一体何が起きたのか、これからどうなるのか、カミルには全く分からなった。
「カミル、ごめん」
レイナスがつぶやいた。
カミルは慌てて顔を上げた。
「何でレイが謝るんだよ? レイは何もしてないだろ?」
「あいつはきっと、僕がいるからここに来たんだ。僕のせいで……」
レイナスの視線の先にはノーマン神父がいる。カミルもノーマン神父を見た。改めて、ノーマン神父を失ってしまったのだという実感が湧いてくる。ずっと育ててくれて、父親のように思っていたのに、こんな一瞬で亡くなってしまうなんて思いもよらなかった。二人はノーマン神父に歩み寄り、地面に座り込んでその手を握った。ノーマン神父の手はまだ温かい。これは、夢なのではないか、奇跡が起きて息を吹き返すのではないか、そうカミルは思った。今、目の前にある悲しい現実を受け止めることができない。でも、これは確かに現実で、もう二度とノーマン神父が穏やかに笑いかけてくれることも、語りかけてくれることもないのだ。そう思うと、カミルの目から涙が零れ落ちた。レイナスもカミルの隣で泣いていた。
二人がノーマン神父の遺体を前に泣いていると、先ほどの雷鳴を聞いて、村人たちが集まってきた。みな、ノーマン神父の姿を見て悲鳴を上げた。
「何があったんだ?」
二人は、サラディンの襲撃を受けてノーマン神父が殺された事を説明した。村人たちは突然の出来事に驚きを隠せない様子だった。
しかし、村の年長者たちが口々に言い始めた。
「きっと、復讐されたんだね……」
「いつか、こういうこともあるかとは思っていたよ」
その言葉に、カミルは驚いた。
「どういうことですか?」
「ノーマン神父様は若い頃から魔物と戦っててね。色んな場所で人を助けていたそうなんだ。かなり力の強い魔物を倒したこともあったみたいだよ」
「そうだったんですか」
カミルは、ノーマン神父が以前から魔物退治をしていたという事実に驚いた。だから、サラディンは、ノーマン神父のことを知っていたのだろう。
ダナンが、周りを見渡して声を掛けた。
「このままじゃ神父様がかわいそうだ。教会の中に入れてあげよう。」
その言葉に、カミルとレイナスもうなずいて、村人たちと共にノーマン神父の遺体を教会の中に運び入れた。そして、村人たちと話し合い、明日、葬儀をして遺体を埋葬することにした。
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