聖なる闇の賛歌

色葉ひたち

その1~カミル~

その1(1)

 窓から入る風が心地よい。

 カミルは、窓際の椅子に座り、木製の窓枠に両腕を重ね、その上に顎を乗せた体勢で、ぼんやりと教会の庭を眺めていた。

 庭に植えられた木々がそよそよと葉を揺らし、青空にその色が映えている。

 カミルは、午後のこの時間が一番好きだった。そして、一つあくびをし、うとうとし始めた時、部屋のドアがそっと開くのに気付いた。

《レイか》

 カミルは椅子に座ったまま振り返った。ドアの前に、色白で線の細い金髪の少年が立っていた。

 やっぱり……。

 少年の名はレイナス。カミルの一つ年下で、カミルと同じく、赤ん坊の時にこの教会に捨てられた子だ。

「起きてたんだ」

 どうやら、レイナスはカミルが寝ていると思ったらしい。

「起きてたよ。なんか用?」

 カミルは、あくび交じりに答えた。

 レイナスは、カミルに歩み寄った。

「課題、やった?」

「まだ」

「じゃあ、一緒にやろう?」

 レイナスが持っていた聖書を差し出した。使い込まれた古ぼけた聖書で、この教会にある唯一の書物だ。本は貴重だから、ひょっとするとこの村全体で見ても、唯一の書物かもしれない。ここは、ナレ村という小さな村にある小さな教会だ。ノーマン神父という老齢の神父が取り仕切っている。

 カミルは十七年前、この教会に捨てられた。カミルが捨てられたその一年後に、レイナスが捨てられた。カミルとレイナスは、ここでノーマン神父に育てられ、兄弟のように育った。正直、カミルだけでもノーマン神父にとってかなりの重荷だったはずだが、神父は二人の事を見捨てずに育ててくれた。二人は、ノーマン神父から聖書の講義を受けている。普通に考えて、神父は老齢であるし、これまでの恩もあるのだから、カミルとレイナスがこの教会の後を継ぐのが筋だろう。しかし、カミルは自分が聖職者に向いているとは全く思えなかった。自分は人に説法をできるようなできた人間ではない。そう思うからこそ、聖書の勉強には全く身が入らなったのだ。

 課題は、聖書の一節の暗唱だった。こんなことをして何の意味があるのか、と正直思ってしまう。そんな気持ちが思い切り顔に出ていたのだろう。レイナスが困ったような笑みを浮かべた。

「いやなの?」

 カミルは「うん」と答えた。

 すると、レイナスはカミルの足元に座り込んだ。

「じゃあ、僕もいいや」

 レイナスはいたずらっぽい笑みを浮かべた。おそらく、レイナスは本気で自分を課題に誘いに来たわけではない。なんだかんだ口実を付けて、カミルの傍にいたいのだ。レイナスは昔から甘えん坊だった。カミルのことを本当の兄のように慕っている。身寄りのないレイナスにとって、カミルとノーマン神父は家族同然なのだ。その気持ちは、カミルも同じだった。

 この教会に来てから十七年。もう独り立ちをしなければならない年齢だし、もし自分が教会を出たいと言えば、ノーマン神父はおそらく自分を止めないだろう。しかし、それをしないのは、今いるこの場所の居心地が良く、そして、ノーマン神父とレイナスの二人から離れたくないからだった。

「カミルは、将来やりたいことある?」

 まるで、カミルの心を読んでいたようにレイナスが尋ねた。

「はっきりあるわけじゃないけど……。レイは?」

「僕も特にないよ」

「レイは、神父に向いてるんじゃない?」

「僕は全然向いてないよ。カミルの方が向いてるよ」

「え? 俺?」

 予想外の言葉にカミルは驚いた。レイナスはてっきり神父を目指していると思っていたし、自分は神父には絶対に向いていないと思っていたからだ。

「なんで俺?」

 カミルは不思議に思ったが、ふと思い当たった。

「レイ、俺に押し付けて自分は逃げるつもりか?」

「フフ。そうかもね」

「それは絶対許さないからな」

「カミルだって。抜け駆け禁止だからね」

 釘を刺されてしまった。やはり、ここを出るのはもう少し先になりそうだとカミルは思った。

 その時、微かに、

「カミル、レイナス」と、二人を呼ぶ声が聞こえた。

 カミルとレイナスは顔を見合わせた。

「神父様だ」

 二人は立ち上がって部屋を出た。

 部屋を出た廊下の先にノーマン神父が立っていた。

「あ、いたいた」

 ノーマン神父が二人に歩み寄ってきた。

 ノーマン神父は、歳は六十歳半ばぐらい。髪は白く、少したれ目の温和な顔をしている。その見た目通り、性格も穏やかで優しい。

「何かご用ですか?」

「ちょっとリラさんのところへ行ってきてくれないか?」

 リラさんと言うのは、この村に住む高齢の女性の事だ。

「どうかしたんですか?」

「これを渡して欲しい」

 ノーマン神父は、小さな布包みをカミルとレイナスの前に差し出した。

「昨日来た時、咳が止まらない様子だったから、これを煎じて飲むように伝えてきてくれ」

 この村に医者はいない。ノーマン神父は薬草に詳しいから、たまに村人に処方をしている。村人から頼まれることもあれば、今日のようにノーマン神父が村人の不調に気付いて処方することもあった。

 カミルはうなずくと「はい。分かりました」と答えて、ノーマン神父から包みを受け取った。

 カミルとレイナスは、教会を出た。

 教会は、村の東の高台に建てられている。教会の周りには何もないが、少し歩くと村人たちの家が建っていた。

 カミルとレイナスが通りを歩いていると、村の人たちがあいさつをしてきた。村人たちは全員顔見知りだ。ノーマン神父が一人で二人を育てるのは到底無理だったから、村人たちがノーマン神父の手助けをしてくれた。だから、カミルとレイナスは、村人たちみんなに育てられたと言っても過言ではない。村人たちは二人を自分たちの本当の子供のようにいつも気にかけてくれている。

 二人はリラの家に着くと、ドアをノックした。

 中からリラの息子のダナンが出てきた。体格が良い三十歳ぐらいの男性で、この村のリーダー的存在だ。

 部屋の奥から、老婆の咳き込む声が聞こえる。

「こんにちは。神父様から頼まれて、これを持ってきました。」

 カミルはノーマン神父から預かった包みをダナンに差し出した。そして、

「リラさんが昨日、咳が止まらない様子だったので、これを煎じて飲ませるようにって」と、ノーマン神父からの伝言を伝えた。

「そうか……。ありがたいな。神父様には後できちんと礼を言うが、ダナンが礼を言ってたって伝えてくれ」

 ダナンは、薬草の包みを受け取った。

「リラさん、具合悪いんですか?」

「まあ、そうだな。昨日から咳が止まらないんだ。でも、この薬を飲ませれば、きっと良くなるさ」

 ダナンは二人に心配をかけまいとしているのだろう、そう言って笑ってみせた。

「早く良くなるといいですね」

「そうだな。ありがとう」

「お大事にして下さい。」

 二人はダナンに一礼し、教会へ戻った。

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