第5話 世界の端
やがて季節が冬から春へと移り変わり、緑が少しずつ芽吹きはじめた頃。森は失われたかつての姿を取り戻そうとしていた。それは、立ったまま炭と化した巨木の枝や、無数に転がっている焼ききれた倒木の隙間から、ひっそりと、しかし
そんな黒炭の森を、私は駆けていた。
「すごい! すごいよ!」
エルフの白銀の髪が、風で
「はやい! まるで風みたい!」
倒木や新しい命を避けるように足を置く私の背中は、決して乗り心地が良いものでは無かっただろうが、今の彼女にとっては、それはとても楽しい事のようだった。屈託のない笑顔が、周囲を浄化していく。そんな気さえする。
私が彼女に出会ってから、すでに半年程が経とうとしていた。こうして人を乗せて軽く走ることができる程度には、私の体は回復していたのである。焼ききれた体毛も、夏毛に生え変わる時期を迎え、随分と見栄えが良くなった。森がそうだったように、私の体も、以前の姿を取り戻そうとしている。
そんな、春。
彼女と私の奇妙な関係は、未だに続いていた。
森の終わりには、崖があった。眼下、その行き着く先は清流であり、その対岸には、美しい森の緑が、まるで絨毯のように、延々と広がっていた。この高低差と川が、あの火災を防いだのであろう。その視線を遠方へ移せば、白化粧を未だ落としきれていない山々が、壁のように連なっているのであった。
「きれい」
彼女の喜ぶ姿が嬉しくて、いつの間にか、こんな所まで来てしまっていた。私が墜落してから、なし崩し的に住処にしていたあの場所から、もう随分と離れてしまっている。エルフの世界が森に完結するなら、ここはその端っ子、国境のような場所と言って良かった。
「こんな場所が、あったのね。私、知らなかった」
崖下から吹き上がる風は、生命の息吹が濃厚な香りだった。あの山々で冷やされた風が、森の絨毯の上を滑るように吹き、色々なものを包み込んで、ここまで運んでくるのだろう。実際、この崖の上周辺は少し緑が多く、それは私達の心を浄化してくれるかのようだった。きっと森の緑は、ここを起点として広がっていくのだろう。
「ふふ。おかしな話よね」
ふいに、アッテリアが笑う。
「私、ときどき思うの。あなたは、ほんとうは、私の言葉がわかるんじゃないか、って。さっきも、その背中に乗ったら、気持ちいいだろうなぁ、って呟いたら、何気なく腰をおろして、まるで私が乗るのを待っているみたいだった」
背中に跨る彼女の表情は、私からは見ることができない。私はまるで聞こえていないかのように、振り返ることはしなかった。
「この場所に連れてきたのも、私が言ったからでしょう? あなたは私に伝えたかったんじゃないかしら。世界は、狭くないんだー、って。ふふ、だとしたら、あなた、相当キザよ」
今日の彼女は、何時になく口数が多かった。口がきけない私にこうして話しかけているのは、私と彼女が出会ったばかりの頃のようだった。私はそんな、彼女の澄んだ声が、好きだった。
「あなたには不思議な力があるんだわ。言葉が分からなくても、私の考えていることはわかってしまうの。素敵よね。エルフの私だって、森の生物の想いなんてわからないのに、あなたにはそれが出来てしまう。ねぇ、もしかしたら、これは運命かも知れないわ。あなたが私の前に現れてくれたのは、きっと意味があるのよ」
私はその話を聞きながら、故郷のことを考えていた。あの山々の遥か向こうには、カンテラの大地が広がっているのだろう。寒く険しく、寂しくもある場所ではあったが、そこは間違いなく、私の生まれ育った場所だった。
アーティスの顔が浮かんだ。私が彼の地に帰るためには、再びこの空を飛んで行くしか無い。
今の私に、それが出来るだろうか。
彼は今も、私を待っているのだろうか。
「なぁんて。そんなおとぎ話みたいな話、あるわけないっか。いつまでも少女気分じゃあ、いけないわね」
そして私は、彼女を置いていけるのだろうか。
彼女は、間違いなく、命の恩人だった。彼女がいなければ、私は今頃、鼠や鳥達の餌となっていただろう。なんの役にたつのかもわからない私を、懸命に救おうとしてくれたのだ。だからこそ、今の私がある。そして今の私は、彼女の支えでもあった。
それを自覚しておきながら、私は彼女を捨てて行けるのだろうか。
「やだぁ。大人なんて。私は、ずぅっとこうして、あなたと一緒に居たい。私の知らない世界を、二人でいつか、見に行けたらいいのに」
彼女の腕が、私の首に回された。抱き寄せるように、私のたてがみへ、その頬を吸い寄せた。彼女の体温が、息が、私の背中を暖かくする。
「でも、言葉が分からなくて、良かったんだわ。これだけ毎日一緒にいるんだもの、私にとっては、もう家族同然なのよ。もしあなたと言葉が交わせたなら、私、きっと色々なことを話してしまうわ。そしたら、歯止めが効かなくなって、頼んでしまうんだわ」
もし私が、ただのドラグゥーンではなかったなら。
きっと私は、そうしていただろう。
「私を連れ出して、って。狭くて苦しい、この世界から」
その言葉は、私の魂に、深く刻まれたのだった。
そしてそれ以来。
彼女は私の前に姿を見せなくなった。
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