第3話 希望
意識を取り戻すのに必要な感覚は、「渇き」であったことを、明確に覚えている。
辺りは薄暗く、しんしんと降り注ぐ雨が、その大地を冷やしていた。どうやら、火竜が放った炎は、一帯のものを焼き尽くして、すでにその姿を消したようだった。
目と頭を使うことはできても、体の方はピクリとも動かすことができなかった。実は体なんて
私の体は、ちゃんと残っていた。それは悲惨ではあるが、最悪では無かった。体毛の多くは焼けて、先端の殆どを失ってしまっていたが、翼本体のほうは欠損も無く、皮膚がただれてしまうほどの火傷も無かった。私の体は浅い水たまりに半分埋まっていて、全身が焼けて無くならなかったのは、そのお陰かも知れないと思った。
とはいえ、火だるまになった挙げ句、かなりの高度から地面に激突したのだ。その体の内側はどうなってしまっているのだろう。きっと、無事ではないのだろう。未だ伝わってくるのは、鈍い痛みだけ。もはや、生命の維持ができるのかすらも、わからなかったのだ。数刻が経っても、その状況は変わらなかった。その頃には、ただ漠然と、その時が近づいていることを、悟ってしまっていた。私は、死ぬのだろう、と。
どうしてこうなってしまったのだろう。
結局、航路は間違っていなかった。私の方位感は正しく機能していたのだ。何故あのとき、高度を下げてしまったのだろう。何故あのとき、私は自分を信じられなかったのだろう。アーティスと交わした言葉が頭をよぎる。慎重で肝が小さいと言い出したのは、私ではなかったか。
笑うしか無かった。どんなに悔しくても、それしかできない。まさかこの私が、未だ戻らず仕舞いの個体になろうとは。彼を裏切り、酷く傷つける事になる者が、私であるだなんて。
アーティスと過ごした日々が、切り取られた映像の断片が、つぎつぎと頭に浮かんでは消えた。そういえば、これは人の言葉で走馬灯と言うのではなかったか。視界が滲む原因が、降り注ぐ雨ではなくて、涙によるものだということは、すぐに自覚した。私は泣いているのだ。
なぜ今、私の体に残された機能が、こんなに役に立たないものなのだ。あまりにも、救いようが無いじゃないか。
私は残された生涯を、そうして気が済むまで泣くことに決めた。
どれくらい経ったのだろうか。あたりは相変わらず薄暗く、昼夜の判断がつかなかった。雨は
痛みは鈍くなってきていたが、代わりに、耐え難い程の渇きに襲われていた。とにかく辛い。やがて死ぬとわかっているはずなのに、それでも体は水分を欲し、それは私の思考の半分以上を支配していた。手短に喉を潤せるものなどあろうはずも無く、その欲求は衝動へと姿を変えていた。
なんとか動かせるのは首から上だけ。舌を出して泥水を
死とはかくも苦痛が伴うものなのか。愛する者との約束を
程無くして、眠気がやって来た。体が軽くなる感覚もあった。
いよいよか。
徐々に不明瞭になる意識の中、そんな事を思った気がする。
最期にあの大空をもう一度見たい。そうして首を上げるが、滲んだ視界では何も見えなかった。その世界が見えたのは、私が力なく首を下ろした後で、それはきっと、ただの夢だったのだろう。だっては私は、その背中にアーティスを乗せて、まるで黄色い閃光のように、白一色の世界を飛翔していたのだから。
「だれ」
そんな時だった。声が聞こえた気がした。
「そこに誰かいるの」
それは、若い、女の声だった。どうやら私の聴覚はまだ生きているらしい。ばしゃばしゃと泥水を飛ばしながら、その足音が近づいてくる。
「大変」
その女は私の周りをウロウロしたあと、私の全身に触れた。
「ひどい怪我。巻き込まれたのね。あなた、意識はあるの」
ふいに頭が軽くなった。それは私の頭が、その女の膝に抱き上げられたからだと知った。返事をする体力の無い私は、浅い呼吸をそれとするしか無かった。
「これ、飲んで」
両顎がこじ開けられ、押し込まれた筒の中から、清い水が流れ込んでくる。しかし、飲み込めずに口から溢れてしまう。
「諦めないで」
女は私の首を抱きかかえ、立ち上がった。
「ほら、頑張って」
再び注がれた水は、自然と体内へと運ばれて行った。体が癒えていくという感覚を、微かに感じた。
女の介抱は
そして私は、渇きという感覚と共に、意識をも失った。
次に意識を取り戻すのに必要だった感覚は、「眩しい」であった。冬晴れの太陽光線が、私の瞳目掛けて真っ直ぐに降り注いでいた。
辺りを見渡すが、誰もいない。美しい緑に覆われていた一帯は、殆ど焼き払われてしまっていた。立ったまま炭と化した木々が、漆黒の森を作り上げていた。青空との対比が、皮肉にすら思えるような光景だった。
そこまで来て、体の自由が幾分効くようになっていることに気がついた。私は無意識のうちに身を起こし、その天空を眺めていたのだから。
依然として痛みはあった。このまま立ち上がることはかなわないだろう。しかし頑張れば、うつ伏せの体勢は取れるかも知れなかった。そこまでくれば、生存への兆しが見えてくる。
しかし、幾度か挑戦をして見たが、うまく行かなかった。まともに動かすことができない翼が、それを邪魔をしていた。その度に全身を走る激痛にも耐えなければならなかった。
「ちょっと、あなた! 何をしているのですか!」
そんな事に意識を集中していたら、その者の接近に全く気がついていなかった。駆けつけるなり、私の体を半ば無理やりに地面に押し付けたのだ。
「動いちゃ駄目。酷い怪我をしているのですよ、あなたは。今は無茶をしてはいけません。いいですか」
私の顔がぐいと持ち上げられ、そして女の顔が視界いっぱいに映し出された。その大きな瞳に、私が映っていた。
「私はアッテリア。あなたを助けたいのです」
それは美しい、エルフの少女であった。
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