第3話 希望

 意識を取り戻すのに必要な感覚は、「渇き」であったことを、明確に覚えている。


 辺りは薄暗く、しんしんと降り注ぐ雨が、その大地を冷やしていた。どうやら、火竜が放った炎は、一帯のものを焼き尽くして、すでにその姿を消したようだった。


 目と頭を使うことはできても、体の方はピクリとも動かすことができなかった。実は体なんてうに失っていて、痛覚だけが残ってしまったのではないか。そんな疑念を抱くほどの痛みが、私を襲っていた。それでも、なんとか首を動かそうと、必死にもがいた。そうして、自分の体を視界に収めることができたのは、それから半刻も経ってからのことだった。

 私の体は、ちゃんと残っていた。それは悲惨ではあるが、最悪では無かった。体毛の多くは焼けて、先端の殆どを失ってしまっていたが、翼本体のほうは欠損も無く、皮膚がただれてしまうほどの火傷も無かった。私の体は浅い水たまりに半分埋まっていて、全身が焼けて無くならなかったのは、そのお陰かも知れないと思った。

 とはいえ、火だるまになった挙げ句、かなりの高度から地面に激突したのだ。その体の内側はどうなってしまっているのだろう。きっと、無事ではないのだろう。未だ伝わってくるのは、鈍い痛みだけ。もはや、生命の維持ができるのかすらも、わからなかったのだ。数刻が経っても、その状況は変わらなかった。その頃には、ただ漠然と、が近づいていることを、悟ってしまっていた。私は、死ぬのだろう、と。


 どうしてこうなってしまったのだろう。


 結局、航路は間違っていなかった。私の方位感は正しく機能していたのだ。何故あのとき、高度を下げてしまったのだろう。何故あのとき、私は自分を信じられなかったのだろう。アーティスと交わした言葉が頭をよぎる。慎重で肝が小さいと言い出したのは、私ではなかったか。


 笑うしか無かった。どんなに悔しくても、それしかできない。まさかこの私が、未だ戻らず仕舞いの個体になろうとは。彼を裏切り、酷く傷つける事になる者が、私であるだなんて。


 アーティスと過ごした日々が、切り取られた映像の断片が、つぎつぎと頭に浮かんでは消えた。そういえば、これは人の言葉で走馬灯と言うのではなかったか。視界が滲む原因が、降り注ぐ雨ではなくて、涙によるものだということは、すぐに自覚した。私は泣いているのだ。

 なぜ今、私の体に残された機能が、こんなに役に立たないものなのだ。あまりにも、救いようが無いじゃないか。


 私は残された生涯を、そうして気が済むまで泣くことに決めた。



 どれくらい経ったのだろうか。あたりは相変わらず薄暗く、昼夜の判断がつかなかった。雨はみぞれへと姿を変えており、このまま行くと、このあたりは雪になると思われた。次に目覚めた頃には、私の体は雪に埋まっているかも知れない。


 痛みは鈍くなってきていたが、代わりに、耐え難い程の渇きに襲われていた。とにかく辛い。やがて死ぬとわかっているはずなのに、それでも体は水分を欲し、それは私の思考の半分以上を支配していた。手短に喉を潤せるものなどあろうはずも無く、その欲求は衝動へと姿を変えていた。


 なんとか動かせるのは首から上だけ。舌を出して泥水をすすろうにも、うまく行かなかった。首が長いドラグゥーンは食道も長く、上を向かなければ液体を飲み込むことができなかった。力を振り絞り、天空へ口を開けてみても、取り込める雨やみぞれは少なく、霧を飲み込むことと、ほとんど同じだった。すぐに力尽き、頭が地面に叩きつけられる度、泥水が跳ね、視界を悪くしていった。何度かして、私は全てを諦めた。何もかもがどうでも良くなった。


 死とはかくも苦痛が伴うものなのか。愛する者との約束をたがえた私は、極楽浄土へ行けないと決まっているはずだ。それでもなお、こうも苦しまなくてはならないのか。


 程無くして、眠気がやって来た。体が軽くなる感覚もあった。

 いよいよか。

 徐々に不明瞭になる意識の中、そんな事を思った気がする。


 最期にあの大空をもう一度見たい。そうして首を上げるが、滲んだ視界では何も見えなかった。その世界が見えたのは、私が力なく首を下ろした後で、それはきっと、ただの夢だったのだろう。だっては私は、その背中にアーティスを乗せて、まるで黄色い閃光のように、白一色の世界を飛翔していたのだから。





「だれ」


 そんな時だった。声が聞こえた気がした。


「そこに誰かいるの」


 それは、若い、女の声だった。どうやら私の聴覚はまだ生きているらしい。ばしゃばしゃと泥水を飛ばしながら、その足音が近づいてくる。


「大変」


 その女は私の周りをウロウロしたあと、私の全身に触れた。


「ひどい怪我。巻き込まれたのね。あなた、意識はあるの」


 ふいに頭が軽くなった。それは私の頭が、その女の膝に抱き上げられたからだと知った。返事をする体力の無い私は、浅い呼吸をそれとするしか無かった。


「これ、飲んで」


 両顎がこじ開けられ、押し込まれた筒の中から、清い水が流れ込んでくる。しかし、飲み込めずに口から溢れてしまう。


「諦めないで」


 女は私の首を抱きかかえ、立ち上がった。


「ほら、頑張って」


 再び注がれた水は、自然と体内へと運ばれて行った。体が癒えていくという感覚を、微かに感じた。


 女の介抱は甲斐甲斐かいがいしかった。手持ちの水が底を突くと、しばらく姿を消し、再び水を持って現れた。人間の女には重たいであろう私の首を抱き上げ、水を飲ませた。そしてそれを、何度も繰り返した。気がつけば、渇きはすっかり癒えていた。


 そして私は、渇きという感覚と共に、意識をも失った。



 次に意識を取り戻すのに必要だった感覚は、「眩しい」であった。冬晴れの太陽光線が、私の瞳目掛けて真っ直ぐに降り注いでいた。


 辺りを見渡すが、誰もいない。美しい緑に覆われていた一帯は、殆ど焼き払われてしまっていた。立ったまま炭と化した木々が、漆黒の森を作り上げていた。青空との対比が、皮肉にすら思えるような光景だった。


 そこまで来て、体の自由が幾分効くようになっていることに気がついた。私は無意識のうちに身を起こし、その天空を眺めていたのだから。


 依然として痛みはあった。このまま立ち上がることはかなわないだろう。しかし頑張れば、うつ伏せの体勢は取れるかも知れなかった。そこまでくれば、生存への兆しが見えてくる。


 しかし、幾度か挑戦をして見たが、うまく行かなかった。まともに動かすことができない翼が、それを邪魔をしていた。その度に全身を走る激痛にも耐えなければならなかった。


「ちょっと、あなた! 何をしているのですか!」


 そんな事に意識を集中していたら、その者の接近に全く気がついていなかった。駆けつけるなり、私の体を半ば無理やりに地面に押し付けたのだ。


「動いちゃ駄目。酷い怪我をしているのですよ、あなたは。今は無茶をしてはいけません。いいですか」


 私の顔がぐいと持ち上げられ、そして女の顔が視界いっぱいに映し出された。その大きな瞳に、私が映っていた。


「私はアッテリア。あなたを助けたいのです」


 それは美しい、エルフの少女であった。

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