第6話




 バスに乗っているときに見かけたコンビニまで行って、財布の中身の許す範囲で買い物を済ませてきた。

 「……」

 試しに鍵を開けたままにして出かけてみたけれど。

 帰宅すると、その子は家を出る前と同じままの場所で、同じままの格好で、そこに居た。逃げ出すつもりはなさそうだ。和室の隅にぺたんと座り込んだまま、部屋に戻ってきたぼくに、ゆっくりな動きで視線を向ける。

 女の子だ。小学生くらいの年頃で、やたらに長い黒髪が畳に広がっている。

 敵意は感じない。ぼくを見て怖がる様子が無いのが救いかも知れない。独身男性の自宅に親族でもない女児が居る時点で救いようがない気もする。ぼくだったら迷わず通報しているところだぞ、生前のぼく。

 「食べ物買ってきたから、こっちで食べよう」

 買い物袋を見せると、女の子は素直に頷いて和室から出てきた。

 改めて立ち上がったところを見ると、ますますそのサイズの小ささが際立って頭の中で警報音とパトランプが暴れ散らかす。落ち着いていられる状況でもないので、鳴らしっぱなしのまま買ってきたものをテーブルに並べる。

 サンドイッチ、おにぎり、菓子パン。

 買い物中にふと「家に電子レンジあったっけ」と不安が過ってしまったのでそのまま食べられるものしか買ってこなかった。ちなみに帰って確認したら電子レンジはあった。一人暮らしの男の家に無い訳はないか。とかいう常識がどこで培ってきたものなのかすら分からないから、疑うことしか出来なかったんだけども。

 女の子は迷うことなく菓子パンを手に取って、椅子に腰を下ろした。

 「……」

 そして、そのまま止まった。ピタっと。微動だにもしない。

 「食べていいよ?」

 「……」

 菓子パンを両手でしっかり持ったまま。

 女の子は、ぼくと食べ物を交互に見る。

 「好きなだけどうぞ。ぼくは食べてきたから」

 退院の日にも朝飯は出るんだなぁとか思いながら優雅にベッドの上で病院食をね。とは、言わなかった。

 生前のぼくに入院経験があったかどうか。病室も、勝手知ったるってほど快適ではなかったけれど。

 「ぼく」

 ぼそりと。

 女の子が呟いた。

 こっちに投げかけた言葉ではないのか、その小声は掠れて聞き取りにくかったが。

 ぼくが何かを聞き返す前に、女の子は無造作に包装を開いてパンにかじりつきはじめた。食事の邪魔をするのものな、ということで一旦、この話は終わりにして。

 こっちが席を立っても食事を中断しないことを見届けてから、一度自分の部屋に戻った。いやどこも自分の部屋なんだろうけど、とりあえず寝室に。

 充電器に差しておいた携帯電話を手に取って、電源ボタンを長押ししてみる。

 「……」

 電源の入れ方、これで合ってるのかな。

 何十秒か押しっぱなしにして、何度か試して、うんともすんとも言わないのでその場に置く。充電されてますよ、みたいなランプは点いてるけど。

 やっぱり店に持っていった方がいいな、と諦めて携帯電話を置いて、リビングに戻る。

 ちょうど、女の子がテーブルの上に広がった抜け殻の包装を買い物袋に詰めて縛っているところだった。

 完食したのか。健康的で素晴らしい。夕飯どうしよう。

 いろんな感想が雪崩のように押し寄せては去っていく。どれもこれも、わざわざ口に出すほどはっきりした形にはならない。

 「ごちそ、さまでっ、た」

 女の子がぼくに向けて合掌する。

 喋るの苦手なのかな、と先程からの無口ぶりと合わせて勘ぐってしまったが。

 「……んぅ」

 「あー、ああ、ごめんごめん。お茶も出せば良かった」

 唇の結び方で、どうも喉越しを気にしているだけなんじゃないかと察し直す。

 冷蔵庫から勝手に出したペットボトルの緑茶を棚から勝手に拝借したコップに注いで、女の子の前に置く。ついでに自分の分も用意して、もう一度席に着いた。

 女の子は一も二もなくコップを取って、ごっくんごっくん喉を鳴らして一気に緑茶を飲み干した。見れば食べ方も同じようにワイルドだったようで、口の端やらほっぺやらに菓子パンのカスだのサンドイッチのマヨネーズだのが散りばめられて野生児風メイクが完成している。ぼくが今日会ったどの女性よりも厚化粧だ。

 部屋を見渡して、テレビ台に置いてあったティッシュ箱を持ってきてテーブルに置く。独身男性のくせにわざわざティッシュボックスカバーとか付けやがっているせいで一瞬見つからなかった。なんと小癪な。

 何を言われる前にこちらの意図を悟って、女の子はティッシュで自分の口元を、頬を、顔全体を拭う。居酒屋のおっさんくらい万遍ない。

 「みっきー、本当に忘れてるんだ」

 そして使い終わったティッシュをくるくる丸めてゴミ箱にシュートして、ああそこにゴミ箱あったんだ、とか思ってたら女の子はそう言った。

 「ごめんなさい。みっきーとカノジョが喋ってるの、聞こえてたから」

 「……その国民的キャラクターっぽい響きはもしかしてぼくのこと呼んでる?」

 「国民的なの? 外国のキャラなのに?」

 「難しいことは訊かないでくれ。お察しの通り記憶喪失なんだ」

 「あらまぁ」

 女の子は井戸端会議みたいなテンションで、目をぱちくりさせた。

 目覚めてからこれまで出会った記憶喪失に対するリアクションの中で一番淡泊であることに、少しだけ安心感を覚える。

 なんだかんだで自分から記憶ありませんって自己紹介するの、これが初めてだし。

 ぼくが海に落っこちて記憶を飛ばして入院していたことを説明すると、女の子は神妙な顔で「ふんふん」とか「はーっ」とか大袈裟な相槌を取りながら聞いてくれた。

 「じゃあ雪がいろいろ教えてあげねばならんなー」

 腕組をして、女の子が大きく頷く。これが子供の適応力か。

 いやそもそも、賢い子なのかも。さっきまで大人しかったのは多分、以前と違うぼくの様子を観察していたんだろうし。

 「よろしくお願いします」

 女の子はふふんと得意げに鼻を鳴らした。

 「ゆき。雪さんっていうんですね」

 「ゆっきーって呼んでもいいけどー」

 「え、ぼくがそう呼んでたの」

 「……呼んでくれなかったけどー」

 それはよかった。よかった? よかった。

 「みっきーもカノジョもいもーともミズキだから、ゆきはみっきーって呼ぶよ」

 「なるほど。齟齬を回避するための手段であると」

 「うわー、記憶喪失してもみっきーはみっきーだー」

 字面だけだと感動的なセリフだけど、雪さんの顔は思いっきりしかめっ面だった。

 わざと回りくどい言い方をしたのがバレている。生前のぼくめ、経験値の浅いぼくと芸風被りとはなんたることだ、嘆かわしい。後でよく言っておかなくては。

 責任転嫁はさておき。

 「そんなんだからカノジョに嫌われるんだよ、みっきー」

 「嫌われる?」

 「だってさっきウソつかれてたもんね」

 ふふん、と再び雪さんが鼻を鳴らす。

 夏目美月がついていた嘘。どれだろう。そこまで中身のある話だったか? 籠っていた情感が嘘なんだったとしたら大した女優だ。

 「みっきーが帰ってこなかった日。カノジョさん、お迎えに来てたし」

 雪さんが、人差し指を立てて不敵に笑む。

 刑事ドラマか何かで覚えたのか、女優顔負けな溜めの間があって。

 「カノジョさんと一緒におでかけしていったもん。だから、みっきーが来なかったっていうのは、嘘だよ」

 どや、と言わんばかりに顎の上がった雪さんが、そう言った。



 ぼくが崖から海に落ちた日。

 夏目美月はぼくと会って、どこかに出かけていて。

 彼女はその事実を隠していた。

 

 

 「……ふーむ」

 雪さんと話をした、少し後。

 メモに追加した情報の文字列を眺めて、何かの歯車がハマってしまいそうな予感と共に手帳を閉じた。

 何がどうと決まったわけじゃない。

 ないだろ。

 

 ないよな?

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背景、水の底から。 三好ハルユキ @iamyoshi913

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