第5話
「え、っと、その……」
「ん。今日はいろいろと、ありがとう」
「……うん。それじゃ、また、学校で」
どうしてか、実際に帰ってきた時よりも玄関先で彼女を見送った時の方がずっとこのアパートの一室を自宅だと感じることが出来た。それは記憶の有無に関わらない、肌触りや雰囲気の良し悪しのような、なんとなくの感覚の話だと思う。
玄関のドアを閉めて、静かに息を吐く。
……目を閉じると、彼女が帰り際に見せた顔がうっすらと目蓋の裏に焼き付いているのが分かる。言いたいことは全部言いました、と言わんばかりにすっきりとした笑顔。口先の寡黙に反して、なんとも素直な表情だった。それだけ内に溜まっているものがあったと言えばそうなのかも知れないし、それだけぼくが彼女の顔に見入っていたというのもあるにはある。
ぼくはと言えば、その堆積を一気に受け取って、なんとも複雑な情報と感情を一気に飲み込んだおかげで今もまだ重たいものが腹の中でゆらゆら揺れているような感覚に苛まれている。簡単に言うと、言葉で胃もたれを起こしていた。長いこと他人と対面で会話していたことへの充足感と高揚感が悪い方向に働いているのが分かる。
これからまだ、一息の前の一仕事が待っているというのに。
リビングに戻って、キッチンを漁って見つけたコップに水道水を一杯注いで飲み干した。渋い味とカルキの匂いが鼻と喉に通って残る。冷蔵庫を開けたら飲料水の買い溜めを見つけて、いろいろと納得した。
「……」
冷蔵庫の中身もじっくり検分したいところだが、電気代を考慮して早々に扉を閉める。理由はともかく要点は見えたので、次だ。事態がぼくの読み通りなら早めに結論を出しておきたい。
今からの時間は予定通り、ちょっとした探偵ごっこに興じると決めていた。
言葉に詰まって、舌がもつれて、急に黙っては滝のように喋って。
話は何度も同じ場所を行ったり来たりして、視線は空間を泳ぎ回って。
それでもどうにか最後まで、彼女は言葉を並べ追えて、ぼくに差し出した。
「―――私、水希くんに、嫌われてたかも知れないの。
もうばれちゃったと思うけど、私って鈍臭くて、器用じゃなくて、いつも水希くんに引っ張ってもらってばっかりで、なんにも上手くやれてなかったけど、水希くんは、水希くんだけは許してくれて、それが嬉しかった。
だけど最近なんだか、違って。たぶん水希くん、私に何か、隠し事してて。なんなのかは、分からなかったけど。訊いても答えてもらえなくて。それがすごく、すごくすごく心配で、不安で、嫌で、嫌で嫌で嫌で。だから私、水希くんのこと、でも、私、好きだから。でも多分、私がしつこく訊いたから、普通の話もあんまり聞いてもらえなくなって。
……別れ話だったかも知れないの。会う約束があって、だけど水希くんは、来なくて。それで、後から水希くんが海に飛び込んだって聞いて、私、わけが分からなくて。妹さんに病室は聞いてたけど、怖くて、お見舞いにも行けなくて。でもそうしたら水希くんが、ぜんぶ、忘れちゃったって。ますますわけが分からなくて、でも、私、今なら、もしかしたらって、思ったの。今度は、一からならもっと上手に、って、思って。
だけど、だめみたいなの。
水希くんね、前にも言ってくれたんだよ。
なんでも言っていいよ、って、いつも言ってくれたの。
私、変われないみたい。結局また、引っ張ってもらって。今、一番つらいのは水希くんなのに、なんでって、思うけど、なんにも上手じゃない。
だから全部聞いてほしいの。
忘れててもいいから、知っておいてほしいの。
黙ったまま上手くやろうなんて、もう思わないから。
だから、お願いだから、私を、私の、わたし、
―――わたしを、水希くんの彼女のままで、いさせて?」
嗚咽と吃音を省いて可能な限り簡潔にまとめると、彼女の。
夏目美月の独白は以下の通りだった。
「……それこそ、ぼくの許可が要るような話じゃないよな」
あらかたの捜索を終えた部屋で、ぽつりと独り言を漏らす。
結局、彼女の言葉に曖昧に頷いてしまったのは。
その勢いに呑まれたからでも、同情してしまったからでも、下心が降って湧いたわけでもなく、当然ながら彼女のためというわけでもない。
人の何かを否定出来るほど確かなものが、自分の中に無かっただけだ。
「さて」
家の中をもう一周してから、再びリビングに落ち着く。
この2LDKの我が家の中で、調べていない場所はあと一つ。
いやまぁ、そこに違和感の正体があるという大方の予想は付いていたから、あえて避けていたわけなのだが。
違和感の形は様々なようで、そこには分かりやすい統一性があった。
例えば、髭剃りや整髪料が手に取りやすい高さに置いてあるのに対して、歯磨き粉やハンドソープがやけに低い位置に揃えられていること。
例えば、トイレの洗剤やトイレットペーパーが上の棚ではなくわざわざ便器の横に並べられていること。
それは明らかに「誰か」への気遣いで、男の一人暮らしには見合わないものだ。
もちろん、ただの思い違いならそれでいい。そうじゃないという確信さえあれば。
だから最後まで調べなきゃいけない。それからさっさと休もう。そう決めた。
家の最奥、四畳半の和室へ続く襖を開いて中へ踏み入る。。
目玉だけを動かして、薄暗い部屋をぐるりと見回す。障子も窓も閉め切られていて空気が重い。一人暮らしでは空間を持て余しているのか、家具の類は一切置いていない。だから自然と目に留まったのは、入って左の押入れ。
最短の四歩で近寄ってその襖を引いて開く。
「……」
押入れの中には予想通り、この部屋の「もう一人の住人」が居た。
傷だらけの女の子が、虚ろで曖昧な瞳にぼくを映していた。
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