第3話
ぼくは地元から少し離れた大学に通う学生で、年齢は二十一。家族は両親と妹と、まだ会ったことがないけど兄が居るらしい。
交友関係は不明。少なくともぼくが目覚めてからの一週間、家族以外が見舞いに来ることはなかった。
以上。
「……一旦整理するまでもなかったかな」
売店で買ったノートに昨日の夜書いた状況整理は四行で終わっていた。いもうとにもっといろいろ聞いておくべきだったか。
荷物は家族が最初に持ってきてくれた着替えとそのノート、それからいもうとに借りている本だけなので、紙袋一つにまとめられた。ここに運び込まれた時、ぼくはほとんど手ぶらだったそうだ。
「っと、忘れてた」
テレビ台の下から、ノートとペンのおつりで残った分の小銭と……携帯電話を取り出す。
一度浸水したせいかうんともすんとも言わないが、今のところ生前のぼくを取り戻す一番の頼りはこいつだった。帰って充電してみて、駄目なら店にでも持って行ってみよう。
「……あ、そうそう」
もう一つ分かっていることを思い出して、再度テーブルにノートを開く。今は隣のお爺さんが検査で居ないので一人言も絶好調だ。はす向かいのお兄さんは口を開けて寝ている。時刻は昼間の十時だが、仕方ない。ここでの一番の暇潰しは寝ることなのだから。
つかない携帯電話を左手に握りながら、ノートに五行目の情報を書き足す。
生前のぼくは、崖から海に落ちたらしい。
「よし」
少しだけ劇的になった内容に頷きつつ、ノートを閉じて鞄に突っ込む。
生前のぼく、というのは、記憶を失う前のぼくのことだ。
生きることは記憶を積み重ねていくことである、という思想に敬意を表してそう呼ぶことにした。記憶喪失とはつまり、一度死んだようなものだろう。
荷物をまとめ終えて、他にすることもないのでベッド横の丸椅子に腰かける。寝巻きから私服に着替えてしまったので、なんとなくベッドに座るのは気が引けた。
「お加減、いかがですか」
窓の外を眺めていると、いつの間にか担当の先生がベッドを挟んだ向こう側に居た。
お加減が良いから退院させるんじゃないのかな、と思ったけどまぁ、場合にも寄るよな、多分。
「これからを、お大事に」
先生は最後までぼくの答えを待たず、背を向けて病室を去っていく。
今生の別れになるといいですね、とその背中に口パクで伝えていると、入れ違いに"彼女"が入ってきた。
三人称としての意味でも、関係性という意味でも、彼女。
身長は女の子としては多分平均くらいで、少し撫で肩気味。胸元まで伸びた黒髪が黒のカーディガンに融けて境界を失っている。そういえば妹の髪には少し茶色が混じっていたな、と今更に思った。
すれ違う先生に会釈をして、それから、まっすぐぼくのところに歩いてくる。立ち止まるのは、狙ったようにさっきの先生と同じポジションだった。声は簡単に届くけど、身を乗り出しでもしない限りは指先すら届かないような距離。何かの暗喩かね、と勘繰るのはきっと、小説の読み過ぎだ。
「えと、受付、終わりました」
彼女は斜め下を見ながら微笑んで、退院の手続きの終了を報告してくれた。
「ありがとう。ごめんね、面倒かけて」
「いや、ぜんぜん、だよ」
そして真下を見ながら謙遜する。
こんな感じで一向に視線が合わないが、生前のぼくの彼女さんは美人だ。あと胸がいもうとより拳一つ分くらい大きい。
「じゃあ……」
「うん……」
もぞもぞとした口調と足取りに、ついついこっちもつられてしまう。
去り際、病室を出る直前、ふと見るとお兄さんが起きてこっちを見ていた。
見舞いに来るのが女性ばかりであることに憤慨しているのか、それとも数少ない女性の気配を堪能しているのか、うすら赤い鼻の穴を力いっぱい開けていた。
「みずきくん?」
「……」
「水希、くん?」
「え? あ、うん、ごめんごめん」
不思議そうな顔で立ち止まっていた彼女を、早足で追いかけて廊下に出る。
生前のぼくの名前は朝野水希というらしい。生前の、っていうか、これは今も同じか。そういえばノートに名前を書くのを忘れていた。テストだったら0点だ。
廊下を歩いて、エレベーターに乗って、エントランスを横断する。その間、会話は無かった。ただこっちが様子を伺うと向こうもこっちを見ていて、視線が合うとさっと逸らされる、といったやり取りは何度かあった。
正面玄関を出る。手前がロータリーで、左手にタクシー乗り場、右手にバス停、奥には駐車場が見える。
で。
「ぼくの家って、遠いのかな」
しばらく景色を眺めていたが、彼女もその間ぼーっと立っているだけだったのでこちらから話しかけてみた。
彼女は少し肩をびくつかせて、それでも、努めて穏やかに薄い唇を開く。
「ここからなら、バスで十五分くらい、かな」
「なるほど」
「あ、でも、ここから十分歩いて、電車で、あ、駅があって、乗ると、一駅だから……そっちの方が安い、です」
「……なるほど」
しっかりした子だなぁ、喋り以外は。
「あ、でも、バス、時間、その」
「待つようなら、駅まで歩こうか」
言葉の意味を先読み、もとい勝手に汲み取ってみる。
「……そう、しよっか」
彼女は微笑んで同意してくれた。笑顔のタイミングが分からない。あと視線が斜め下を向いていた。
地面が好きなのかな、とすっとぼけてバス停の時刻表を覗きに行く。五分もせずに来るようなので、ベンチに座って待つことにした。
バス停には先客として杖を突いたお婆さんと麦わら帽子のお姉さんが居たけど、どちらもベンチを利用しようとする気配は無い。この町の人は健脚なのかな。彼女も座ろうとしないし。ぼくは遠慮なく腰を下ろして、隣に立つ彼女を横目に見上げる。
「家は近いの?」
「え? あの、バスで、十五分、って」
「いやぼくのじゃなくて君の」
そう短時間に何度も記憶を喪失してたまるか。
「……あっ、あー……」
質問の意味を理解したらしく、ごめんなさい、と彼女が体を左右に揺らす。
……初めて目にするリアクションだけど、恥ずかしがっている、のか? 胸もワンテンポ遅れて左右に揺られていて、見ているぼくはやや気恥ずかしいが。
「んと、ここからだと、電車で二駅。水希くんの家からだと一駅、だよ」
「そっか」
遠路はるばる、とは微妙に言いづらい距離だ。
他に聞くことないかな、と考えているうちにバスが来て、四人でぞろぞろと乗り込む。
車内の構造はなんとなくイメージの中にあるものと一致していた。車両の前半分一人掛け二列、後ろ半分が二人掛け二列、最奥が五人掛けになっている。どこまでを忘れていて、どこまでを覚えているのか。失ったものを基準にしている以上、自分ではどこまでも曖昧だ。
席が埋まっていないせいでどう座るか少し悩んで、後ろから二番目の二人掛けに腰を下ろした。
彼女は、迷うことなく隣に座る。態度からして離れた席に行ってもおかしくないも思っていたので、少し意外だった。
「懐かしいね」
「え?」
「あ……うん。高校生の時は、二人ともバスで通ってたから」
「あぁ」
そうなのか。そういえば高校の時から交際していたような話を、いもうとに聞いた気がする。
「覚えてないん、だよね、ぜんぶ」
視線を足下に落としながら、彼女が小声で呟く。
……聞こえなかったことにして、窓の外に流れる景色を見た。
ごめん、と言うならそれはきっと、生前のぼくでなければ意味が無いから。
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