第2話
ぼくには記憶がない。
この一週間の入院生活以前のおよそ二十一年間の記憶が、綺麗さっぱり抜け落ちている。
それでも確かに過去はあって、不確かなままでも未来はやってくる。
例えば、ぼくには知識と感情がある。歯磨きのしかたも字の読み方も分かるし、隣のお爺さんの寝言の大きさに不快感を覚えたり、はす向かいのお兄さんの下世話なネタについつい笑ってしまったりもする。
不安はあっても焦りは無い。持つべきなんだろうな、とは思う。
人間として生活するために必要なものを無くしてしまったわけじゃないから、ついつい深刻さを忘れそうになるのだ。
もちろんそれはまだ病院のベッドの上に居るからで、これから社会生活を、いや、社会復帰を始めることになれば、無くしたものの大きさを嫌でも実感するのだろう。
少なくとも、いもうとが借りてきた小説の主人公はそんな感じだった。
「……で、なんで記憶喪失系の話ばっかりなんだ」
例の小説を読み終えたことを知らせると、次の日、いもうとは更に数冊の本を借りてきた。今度は文庫本も混じっていたけど、あらすじを読むとどれもこれも主人公かヒロインが記憶を失うところから話が始まっている。
「感情移入しやすいかなって」
「手の込んだ嫌がらせかと思ったよ」
割と本気で疑ったのだが、いもうとはけらけらと笑うだけだった。
ぼくには高校生の妹が居る。ついでに言うとぼくは大学生らしい。そっちがついででいいのか。いいよな。だって女子高生だぞ。
今日もお見舞いに来てくれたいもうとを連れて、談話室で茶を啜る。ちらっ。
隣のお爺さんはいもうとの声には痰も絡まないようなのだが、はす向かいのお兄さんの目が色気付くのであまり病室には居させたくなかった。兄としての本能なのか、元々気を遣うタイプなのかは判らない。ちらちらっ。
そもそも、このいもうとが妹であるという実感さえ無いわけだし……ちらっ。
「で、どう?」
形の無い質問が飛んでくる。
「……ん、えっと、何がかね」
「あ、そう」
そして何を納得したのか、うんうんと頷く。
「話し方はだいぶ良くなったけど、やっぱまだまだだねぇ」
にこやかにバッシングしてきた。
「あ、良くなったっつっても、今のお兄ちゃんが悪いわけじゃないよ」
「……あ、そう」
茶を啜る。
そこまで言われてようやく、記憶の如何を問われていることに気付いた。
良い悪いで言うのなら、悪いに決まっている。
これまでの時間を積み上げて出来た自分の方が正しいに決まっているのだから、今のぼくこそが異常なのだ。
頭では、なんとなくそう分かっている。頭では。
「っていうかさっきから何処見てんの」
「……いやまぁ、気になって」
「何が?」
すっとぼけてんのか、と喉元まで出かけた言葉を飲み込んで、代わりにさっきまで胸に押し留めていたものを吐いて出す。
「その、これが今までごくごく普通の形というか習慣的なものだったんなら改めて指摘するのも心苦しいんだけど、なんで隣に座るの?」
真横の席に座るいもうとが、ぼくの問いかけに小首を傾げる。
不思議なことを言ったつもりはない。
ぼくらが座っているのは談話室に設けられた長方形の四人掛けテーブルで、訊ねているのは何故か一辺に二人並んで座るという窮屈なポジショニングをしている理由だ。
おかげでいもうとが足を組み直す度に、いや、それはいい。いいったらいい。最近の制服のスカートってどうしてこう短いんだ。いい。
「なんでって」
「うん」
狭いニッポン、少しでも人と人の距離を詰めて土地を有意義に使おうぜ、みたいな精神に乗っ取った行為ならぼくも煩悩を振り払って真面目に振る舞うけども。
「ふーん……そっかそっか、そうなんだ」
答えになってない返事をして、いもうとが席を立つ。
そして、ぼくに座った。
「……」
ぼくの太股の上で少しさ迷って、最終的に足の間にすっぽりと尻を落ち着ける。
「…………」
お互い特別に小柄な方ではないので、窮屈極まりない。
「………………」
ちょっと良い匂いがする。
「……………………」
じゃなくて。
「なにをしてるんですかいもうとさん」
「思いっきり満喫してから言っても説得力なくってよお兄さん」
いもうとが揺れる。笑っているのか、後頭部しか見えないので判断が付かない。嘘だ。後頭部を見るのもはばかられて天井の壁の目を数えていた。
「退院、明日なんでしょ?」
「え、話、続行?」
「平日だし私もお母さん達も来れないから、夏目ちゃんに来てもらうね。お兄ちゃん、家の場所も分かんないだろうし」
「……あー」
情けない。一人で家に帰れないことより、そのことに今の今まで気付かなかった自分が。
分かってはいたけど何処まで暢気なんだぼくは。
「……ナツメちゃんって? 親戚?」
「んーん、彼女」
「……」
一瞬、思考が止まった。
「……かのじょ」
「彼女」
「カノジョ?」
「彼女」
「…………………………あ、いもうとの?」
「なんでやねんな」
肩に緩い裏拳が飛んでくる。
ほら、いもうとが持ってきた本の中にそういう、いや、それは置いといて。
彼女。居るのか。ぼくに。ぼくにっていうか、僕に。
どうするんだそれ。
……え、どうするんだ。
「もう三年くらい? 高校んときから付き合ってるよ」
「えぇ……」
「今のお兄ちゃんのことは話してあるから大丈夫。夏目ちゃん、優しい子だから。泣いてたけど」
「待って、今なんて」
「じゃ、私はそろそろ帰るね」
よいしょ、とぼくから巣立って、いもうとが両手をあげて背筋を伸ばす。
振り返ったその顔が妙に嬉しそうで、楽しそうで、それ以上何かを問う気にもなれなかった。
「ま、タイヘンだろうけど、がんばりなよ……んん……がんばりなよ?」
ふと、いもうとが言い淀む。
何やらぶつぶつと小声で呟いて、それから、両手をパーにしてぼくの前に挙げた。
「頑張っていこうねっ!」
「……あぁうん」
「何故そこで微妙な顔をする」
「いや楽しそうだなって」
身内がこんな状態じゃ不安か面倒か、どっちにしても笑顔で万歳したい状況じゃないと思うのだが。
ぼくの言葉で、いもうとは笑ったまま眉をハの字にした。器用だ。
「ごめん、ちょっと楽しい」
「えぇ……」
人の不幸を正面から堂々と笑うなんて性格が、良いんだか悪いんだか。
「ごめんごめん。お兄ちゃんとのこういうの、久々だからさ」
「こういうの?」
「うむ。異文化コミュニケーションである」
「いや文化圏は同じだから」
軽口に応えつつ、そうなのか、と頭の中を意外の二文字が通り過ぎていく。距離感からして仲良し兄妹なのかと思っていたが。
「でもまぁ心配はしてるよ、うん、そこは間違いないし」
「なんで早口になった」
「愛情を宅急便で送ろうと思って」
「配達距離を考えようぜ」
「んじゃ、お手を拝借。ほれ、出せ」
「えぇ……」
言われるがまま、いもうとと鏡写しになるように両手を挙げる。
「がんばっていこうねっ!」
そして、ぱんっ、と勢いよく手を合わせた。
「……なにこれ」
「ハイタッチ。じゃ、ばいばい」
離れた両手をひらひらと振って、いもうとが談話室を出ていく。廊下までは見送った。何故か手のひらを前に構えたまま歩いていった。
エレベーターホールに消えていったいもうとを見送ってから、ふと、手のひらを見る。
見慣れない両手には、微かに痺れが残っていた。
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