背景、水の底から。

三好ハルユキ

第1話




 生きる理由なんて人それぞれだけど、誰にでも共通して言えることもある。

 例えば生きていくというのは、記憶を積み重ねていくことだ。

 人間は未来を知らない代わりに過去を背負うことが出来るのだから。

 思い出や知識だけじゃない。例えばふと目にしたもの、耳にした音に対して芽生える感情でさえ、記憶に基づいた反応に違いない。

 きっと自己を認識するため、あるいは、自分が自分であるための最低条件が記憶というものなのである。

 記憶なんてすぐに曖昧になる、という事実もあるけれど、だからといって無意味になるわけじゃない。

 忘れる、という言葉はあっても、知らなくなる、なんて言葉は無いように。

 覚えて、忘れて、思い出して、そうしてようやく、それは自分の記憶になるのだ。

 「……んー」

 いもうとが図書館から借りてきてくれたのは、要するにそんな感じの本だった。

 一通り目を通して、分厚い表紙を閉じてサイドテーブルに置く。包帯の上から頭を掻いて、自然、苦笑いした。

 「いや、忘れちゃったらどうしようもないよなぁ」

 思わず独り言が漏れる。

 途端にカーテンの向こう、隣のベッドから咳払いが聞こえて、個室ではないことを思い出させる。吐き出した言葉は戻らないが、次から気を付けようという意識は生まれる。学習もまた、今そこに生まれた記憶の一つだ。

 僕が入院したのは市立病院の整形外科。あてがわれた病室は四人部屋で、隣のベッドに足の悪そうなお爺さん、はす向かいには頭の悪そうなお兄さんが寝ている。真向かいのベッドは二日前から空いていた。

 活字の補給が終わると、退屈の波が襲ってくる。イヤホン着用の義務を守ればテレビの視聴も可能だが、テレビカードという奴が要る。一枚千円で二十四時間視聴出来るという、高いのか安いのかよく分からないが大した商売だ。

 用が足りなければ使え、と、かあさんに内緒でとうさんがくれた千円がテレビ台の引き出しに入っているけれど、画面をカラフルに光らせることになけなしのお金を使う気にはなれなかった。

 結局、もう一度いもうとが持ってきた本に手を付ける。ハードカバーの小説だが、著者作品のやたら長くてカタカナの多いタイトルの羅列を見る限り元はライトノベル作家なのだろう。内容は記憶喪失の主人公が元の自分の正体を探るというありがちな話だが、とにかく文章が回りくどくて読みにくい。図書館に置かれるような本ならもう少し大衆向けであってくれよと言いたくなる。図書館に置かれるための本ではないだろうからお門違いも甚だしいのだけど。

 小説家は誰のために本を書くのだろう。読まれる自分か、読む相手か。

 読む方は紛れもなく自分のために読むのだから、後者だとしたら随分と一方的な関係だ。

 二時間前に読んだ冒頭の行から読み返し始めると、病室に医者の先生がやってきた。カーテン越しの足音と声が退屈な鼓膜を意図せず揺らす。

 足の悪そうなお爺さんに様子を訊いて、親しげに言葉を交わしている。ぼくの挨拶は無視するし音を立てれば不機嫌そうに咳をする気難しいご老人なのだが、先生に対しては心を開いているようだ。

 それからほどなくして、先生はぼくのベッドのカーテンを開いた。

 「お加減、いかがですか」

 担当医の先生は四十代ぐらいの男性で、テカテカしている。いろいろと。そしてニコニコしている。顔だけは。

 「検査の結果次第では、明後日の退院となりますから。今日明日は、ごゆっくり」

 こちらの返答を待たず、先生がカーテンの向こうに消える。

 「……」

 こうもあからさまに避けられると流石にいい気はしないけれど、心情を察することは出来る。

 向こうからすればぼくは、気難しい老人なんかよりもよほど面倒な患者なのだ。関わらなくて済むならそれに越したことはない。必要な処置が終わっているなら尚更に。

 言われた通りごゆっくりすべく、ベッドに体を沈める。

 そこから更に視線を上げると、枕の上に名前が書かれたシートが貼られているのが見える。一つは担当医、さっきの先生の名前。

 そしてもう一つは、馴染みの無い名前。

 それは、けれど、たしかに、ぼくの名前、なんだそうだ。

 「……はぁ」

 天井を眺めながら頭の包帯をもう一度撫でて、苦笑した。

 お加減、良かったらこんなところで寝てないんだけどな。

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