53

「なんで泣いてんの?」


 濡れた頬を拭う俊輔の手を払いのけ、上体を起こし背を向けて座り直した。こんな顔、こいつに見せるなんて、絶対に嫌だ。


「別に、泣いてないもん」


 急いで俊輔から離れたくてベッドの淵に手をかけ立ち上がったところを、後ろから腕を回されベッドへ引き摺り込まれた。


 覆いかぶさってくる俊輔から逃れようともがいても、力ではまったく敵わない。私の目を見つめたまま、確かめるように頬を撫で回すその手を拒むこともできなかった。


「やっぱり泣いてる。どうした? 何かあったのか?」

「なんでもない」


 その優しい声にうっかりすると震えそうになる唇をキュッと結び、唯一動かせる顔を背けたが、顎を掴まれ、強引に引き戻された。掴まれた顎の痛みでせっかく乾いた涙がまた出そうだ。


「なんでもなくて泣くかよ? なんだよ? 俺に隠し事すんの?」

「隠し事って……元々あんたになんでもかんでも喋ってるわけじゃないし」

「それは前の話だろ? 今は言えよ全部。隠し事は無しだ」

「よく言うよ。あんたは隠し事ばっかりのくせに」

「なんだよそれ? 俺はおまえに隠し事なんてねえぞ?」


 こいつは他人事みたいな振りをして、どこまでも隠し通す気なのか。すっとぼけたもの言いに、だんだん腹が立ってきた。


「ほら、やっぱり隠し事してるじゃない!」

「だから、俺は……」

「嘘つき!」

「あーもうっ!」


 俊輔はイライラした様子で私を押さえつけていた身体を離し、仰向けに横たわった。面倒臭そうに顔を背けた後頭部から、話したくないオーラが漂ってくる。


 やはり、こいつには私に言えない秘密がある。つまり、他にも女がいるのだ。


「……わかったよ。言えばいいんだろ? 言えば?」


 ほらね。だから言わんこっちゃない。ぎゅっと絞られるような胸の痛みを堪えようと息を止め目を閉じる。


「言っとくけど、もう時効だぞ? 昔の話だから何も言うなよ」


 そう前置きをして俊輔の口から出てくる言葉に、空いた口が塞がらなくなった。


「小五と小六のバレンタインデーんとき、机の中にこっそりチョコ入れてくれたのがおまえだって知ってる。ほとんど美咲に取られたけど、ちゃんと食った。それから、おまえの誕生日に下足箱にキーホルダー入れたのは俺だ。それから、高校のときもおまえが学校から帰ってくる時間見計らって、おまえん家の前の公園ウロついてた。それから……」

「まだあるの?」

「いや、あるっていうか……そうだ。中二のときにお袋からおまえが高熱出してぶっ倒れてるって聞いたから、俺からだって絶対言うなって念押しして美咲に苺持っていかせたこともあったな」

「ちょっと待って! 苺って……あの苺? あれ、あんたの仕業だったの? ええ? でも、なんで?!」

「なんでって……おまえ苺好きだろ?」


 あの苺は、四十度の高熱が一週間続き、あわや肺炎かと皆が大慌てしていたあのとき、偶然顔を合わせた母親同士の立ち話で私の病気を知った美咲ちゃんが、お見舞いに持ってきてくれたのだった。


 もちろん、水以外は何も受け付けずトイレにすら這っていっていたあのとき、苺なんて口にできるはずもなく、一度見せられただけで、それは何処かへ消えたのだが。


 そして、もうほとんど付き合いもなかったのになぜ今頃と不思議に思ったものだ。でもまさか、それを指示していたのが俊輔だったなんて。


 それどころか、自然消滅後の小五、小六、中学、高校って、こいつは、私の知らないところでいったい何をやっていたんだ。実はストーカーでしたと言われても文句は言えないぞ。


 いや違う、昔話でごまかされてどうする。重要なのは現在だ。


「それ、全部昔の話でしょ? 今はどうなのよ? 今は!」

「今? だから今はなんにもねえよ。おまえ、全部知ってるだろ?」

「嘘つき!」


 ほらみろ、やはり隠す気だ。


「嘘なんかついてねえって! 俺、そんなに信用ねえの?」

「だって、私見たもん……あっ」


 マズイ。口が滑った。自分からは言いたくなかったのに。


 ガバッと勢いよくこちらに向き直った俊輔の目が怖い。


「見たってなんだよ? 何を見たか言ってみろ!」


 こんなに至近距離で蛇みたいに細めた目で睨みつけられたら蛙になった気分。私は緊張し、ゴクリと息を飲んだ。


「お、女の人と歩いてるの……見た」

「あぁ? 女? いつ? 何処で? 誰と?」

「お、一昨日の夜、コンビニで。相手は……知らない。見たこと無い人」

「一昨日の夜?」

「やっ……」


 少しの間の後、ニヤリと笑った俊輔が、再び私の上にのしかかってきた。


 重い、潰れる。まさか、このまま……と、心拍が上がったが、それは一瞬。すぐに重みが消え、元の位置に戻った奴の手には携帯が握られ、勝ち誇った顔をして私を見下ろしている。やってしまった。こいつがこの顔をしているときは、経験上、太刀打ち不可能。


 言葉にしなければ伝わらない想いがあるのはわかる。でも、言葉にしなくてもわかることもあるのだ。私はこいつを理解しているのに、何を躊躇い思いつめていたのか。自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。 


「おまえ……妬いてんだ?」

「だっ誰があんたなんかに!」

「正直に言ってみ? 言ったらその女が誰か教えてやる」

「…………」

「言えよ。その女に嫉妬したって」


 はいそのとおりです嫉妬しましたなんて恥ずかしいことを誰が言うものか。本当は、ちゃんと言わなければいけないのかも知れないが、やはり今は考えないことにした。


「もういいよ、わかったから。お腹空かない? ご飯食べようか?」


 きまりの悪さをごまかすため、いつもの調子でそう言い身体を起こそうとしたが、俊輔に阻止された。私に覆いかぶさり耳に唇を押し当て囁く艶めいた声にゾクッとする。


「飯よりおまえがいい」

「ちょっ……やめ……」

「この前の貸し、返せよな」

「そっ、それはあんたが慣れないこと……いっ」


 耳に噛み付かれ、ゾワゾワと鳥肌を立てながら私は後悔した。


 幕内弁当と冷やしたぬき、冷蔵庫に入れておけばよかった、と。

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