54

 繰り返し聞こえる耳慣れた音楽。いつ何処で聞いたのかは思い出せないが、ざわざわと不快さを感じる。そう、あれが聞こえるときはいつも、何か悪いことが始まる前触れ。


 幸せに浸って眠っていたはずなのに、なぜこんな悪夢を見なければならないのか。夢現つで思いを巡らせていると、掠れた声が聞こえた。


「おい。携帯鳴ってないか?」

「……ん」

「あれ、おまえのだろ? 何度も鳴ってるぞ。出た方がいいんじゃねえか?」


 そうだ。あれは、携帯の着メロ。しかも、相手は……。


「うん……。いいよ、放っとけば」


 俊輔の背に腕を回し、その胸に顔を埋めると、心地良い肌の温もりがさらなる眠気を誘う。


「また鳴ってんぞ。しょーがねぇなぁ、持ってきてやるから出ろ」


 俊輔は背に巻きつけた腕を外してごそごそと起き上がり、私を跨いで寝室から出て行った。まったく余計なことをしてくれる。


 あの子の電話で良いことなんてあった試しが無いのだから無視したいのに、と、ため息を吐き仕方なく布団ごと身体を起こしベッドの背にもたれた。


「ほら、携帯」

「うん」


 俊輔に顔を向け、携帯を受け取ろうと手を出したところでひっと息を吸って固まった。目の前には、信じられない光景が。


「おい? どうした?」

「ぱっ、パンツぐらい履きなさいよ!」


 慌てて背を向けたが、俊輔は平然と私のお腹に腕を絡めて背後から抱きつき、耳元でクスクスと笑っている。わざとだ。こいつは、絶対に面白がっている。


「後でな。ほら、さっさと電話しろ」


 後ろから差しだされた携帯を引ったくってリダイヤルボタンを押すと、すぐ電話の向こうから栞里の怒りを含んだ大声が聞こえ、携帯を耳から離した。


「さっさと出てよね! 何回電話したと思ってんのよ?」

「朝っぱらからなんの用?」


 栞里とて同様、実家と関わればどんな目にあわされるか過去の経験が警戒心を呼ぶ。それ故に、こちらも当然不機嫌戦闘モードだ。


「朝っぱらって……今何時だと思ってんの? もう昼だよ? またこんな時間まで寝てたの?」

「休みの日に何時まで寝てようとあんたに関係無いでしょ? だからなに? 用が無いなら切る」

「ちょっと待ってよ! 用事が無きゃあんたに電話なんてするわけないでしょ?」

「断る」

「断るって、あんたねぇ……少しは人の話聞いてよ?」

「だったらなに? 用があるならさっさと言えば?」

「わかったわよ。じゃあ、ちゃんと聞いて。あのね、私、新居に引越しするの」

「引越し? なんで?」

「だからー、結婚するからでしょ? 忘れたの? それで、彼、仕事だし、私ひとりじゃやれないからさ、お姉ちゃんに引越し荷物片付けるの手伝って欲しいわけ」

「そんなの、お母さんに頼めばいいじゃない?」

「あのさ、お母さんに荷物の片付けなんてできると思うわけ? それに、あの人に頼んだらどうなるか、一番よく知ってるのあんたじゃないの?」


 それを言われれば思い出す。この仕事場を作るとき、母は手伝いにきてくれたが、 重い物を持たせれば文句か泣き言、細かい片付けを頼めば、勝手なことばかり。挙句、ちょっと目を離した隙に、カーテンをすべて派手なピンク地の花柄にされてしまい、大喧嘩だ。


「……わかったよ」

「いいの? 良かった、助かる。この埋め合わせはするからさ」

「それで? いつ行けばいいの?」

「それがさ……急で悪いんだけど、今日これから来て欲しいんだよね」

「え? 今日これから? あっ」

「いてっ!」

「……ちょっとなに今の声? 誰かいるの?」

「あ! 違うっ! やっ……」


 お腹に回っていた俊輔の手に悪戯され、反射的に肘鉄をお見舞いしたら仕返しとばかりに耳朶に噛みつかれた。まずい、聞かれた、と、思ったときにはもう遅い。


「今の声なに? オトコ? お姉ちゃん、真昼間からなにやってんの? イヤラシイ」 

「いや、だから……違うって」

「ごまかさなくてもいいじゃない? へぇー、お姉ちゃんがねぇ」

「栞里ぃ!」

「ちょうどいいわ。彼氏連れてきて紹介してよ。ついでに荷物の片付けも手伝ってもらえると助かるしさ。いいでしょ? そのくらい」

「だから違うし、そんなこと急に言われたって……」

「なあに? 嫌なの?」

「いきなり無茶言わないでよ」

「……そんなに嫌なら別にいいわよ。お母さんに言いつけるから。このこと、お母さん聞いたらどうするかな? ふふふっ」

「ちょっと! それだけはやめて……」

「じゃ、決まりね。場所メールするわ。荷物は引越し屋が昼頃には運んでくるから、遅くとも二時までには来てね」


 通話の切れた携帯をベッドに放り投げ、身を捩って俊輔を突き飛ばした。


「しゅんすけっ! よくも……」


 腹立ち紛れに殴りかかろうとした腕を掴まれ、抱きしめられ身動きが取れない。力で抑えられてのキス攻撃を喰らえば、勝ち目があるわけも無く、悔しいが、出るのは甘い吐息ばかりだ。


「それで? なんだって?」

「彼氏と一緒に引越しの手伝いに来いだって」

「栞里、引っ越すんだ?」

「言ってなかったっけ? 結婚するのよあの子」

「ふーん。そーゆこと。ま、いいんじゃない? 行ってやれば」

「俊輔、あんた、行く気なの?」

「だって、どうせいずれは会わなきゃいけない相手だろ? 栞里だけじゃなくて、おじさんとおばさんにも話し通さなきゃなんないんだし」

「それ……本気?」

「じゃなかったら、なんだよ?」


 私の親に話を通すとは、何を意味するのか。こいつの考えていることがわからないのもさることながら、これから栞里と会うことすら突然過ぎて、私の思考が追いつかない。

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