すべてはここから始まった。
52
ただいまと生気の無い声と共に、コンビニの袋をドサッとテーブルに落とした俊輔が真っ直ぐ私に突進してくる。欠伸を噛み殺しながら私の頬を両手に挟んで強引に引き寄せ、ブチュッと容赦無いキスをしたかと思うと、やはり生気の無い声で言う。
「悪い。一時間……三十分でいいから寝かせて」
「なによ? 今日はこっち来ないんじゃなかったっけ?」
私の声はきっと奴の耳に冷たく響いているはずなのに、何の反応もせず欠伸をしながら寝室へ消えていったあの様は尋常ではない。ちょっと様子を見に行くか。でも、その前に作業を保存すべくモニタに向き直し、マウスを握ったところで気がついた。
「今ので変なとこクリックしちゃってるよ。保存してなかったのに……」
あとほんの少しで終わるはずだった作業が消えている。馬鹿俊輔。今やってた作業は元に戻せないんだよ。私の時間を返せ。寝室で眠りについている俊輔を蹴り飛ばしても、消えてしまったものが元に戻るわけではない。ため息を吐きつつ再び作業に没頭した。
文句を独り言ちながら作業を終了し、喉の渇きを癒そうと冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだし栓を開け、放置していたコンビニ袋の中をちらっと覗く。
中身はやはり夕飯。幕の内弁当と、私の定番、冷やしたぬき。いつもなら満面の笑みで飛びつくところだが、もやもやした気持ちに食欲を阻害されている今は、好物にすら魅力を感じない。
掛け時計を見上げれば、時間はもう十時過ぎ。俊輔が来たのは晶ちゃんが帰ってすぐだから、二時間近く寝ている計算だ。
寝室のドアを開くと、テーブルランプの薄明かりの中、行き倒れのようにベッドに俯せている俊輔の姿がある。床に脱ぎ捨ててあったスーツのジャケットを拾い、椅子の背に掛けた。着替えもせずに寝てしまうなんて、いったい何があったのだろう。
ベッドの脇に座ると、眠る俊輔の横顔がすぐ目の前に。額にかかる柔らかい髪をそっと人差し指で撫でても、起きる気配はまったく無い。
小五のとき、こいつはクラスで前から二番目。学年でも前から二番目。後ろから三番目の私は、いつもこいつの顔を見下ろしていた。まだ声変わりもせず、顔だけは可愛いお人形みたいだった俊輔は、いつの間にか私よりずっと背が高く逞しくなって、すっかり大人の男に変貌を遂げた。口の悪さは相変わらずだが。
大人になって再会してからのこいつとの関わりは楽しかった。面倒なこともいっぱい押し付けられ、言いたい放題され、本気で喧嘩をすることもあったけれど、付き合いを断とうなんて考えたことは一度も無い。
こいつといまさら恋なんてできるわけがないと、鼻で笑っていたあの頃の自分は何処へ行ったのか。俊輔のあの言葉と同じで、私の心の何処かにも、ずっとこいつへの想いが居座っていたのだろうか。
異性である以前に、利害関係の無い友達という枠の中で、自分を飾る必要もなく、素顔を見せ軽口を叩き合える貴重な仲間だと思っていたのは、錯覚だったのか。
こんな気持ちになりたくはなかったのに、気がつけば溺れてもがいている。私はどうすればいいのだろう。自分の想いをぶつけて、真実を確かめたら、その先にどんな答えが待っているのか。もし、俊輔に私以外の女ひとがいたら。
失うのが怖い。
瞼を閉じると、言葉の代わりに涙が零れ落ちた。悔しい。どうして涙なんか出るのだろう。
温かい何かが私の頬に触れる。包まれる感触が心地良い。そうこれは、俊輔の手。そっと目を開けると、すぐ目の前で微笑む俊輔と目が合った。
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