蓼食う虫も好き?好き。

34

 メールの送り主は、やはり、あの『お坊ちゃん』だった。それをすぐに突き止められた理由は簡単。メールアドレスがそのまま彼の名前だったからだ。お坊ちゃんの件は、あの場で片がついたと思っていたが甘かった。悪夢はまだ終わってはいなかったらしい。


 お坊ちゃんがいったい誰から私のメールアドレスを入手したのかは、考えるまでもなく、犯人はひとりしかいない。あのオバサン、余計なことをしてくれるじゃないか。


 このメールのおかげで、私が母の騙し討ちにあい、見合いをさせられたことも、ふたりにバレた。見合いの状況を聞いたふたりの反応は推して知るべし。お坊ちゃんという呼び名も定着し、彼はいまやふたりのアイドルだ。


 お坊ちゃんからのメールは、送信予約でもしているように、朝七時から夜九時までの間、きっちり一時間に一通届く。いや、本当にしているのかも知れないが。


 メールの内容は、口にするのも憚るほど薄気味悪いことこの上ない。最初の数通にだけは目を通したが、その後はもう見るに絶えず放置プレイを決めこんだ。


 しかし、これに弥生さんと晶ちゃんが喰いついて、私の携帯は、彼女たちの手に落ちた。



--僕たちは運命の出会いを果たしました。波瑠さんは僕に会うために生まれてきたのです。だから、僕たちの未来には薔薇色の結婚生活が待っています。早く君と一緒に暮らしたいと、母も楽しみにしています。



--毎日母の手料理を口にする度に、波瑠さんが作る我が家の味を想像しています。母もあなたに料理を教えるのを楽しみにしていますよ。いつから始めましょうか。できるだけ早く我が家の味を覚えに来てください。



「ちょっとー! ホワイトボードにメール貼りだすのやめてよー」

「いいじゃないの、面白いんだから」

「面白くないよ。まるでヘンタイ……」

「そこがいいんじゃない。こんなマザコン、いまどき、滅多にお目にかかれないよ」

「……そうかも知れないけどさ、こんなくだらないことに紙使わなくてもよくない?」

「大丈夫です! ちゃんとヤレ紙使ってますからぁ。そうだ。ねえ、波瑠さん、写真は無いんですかぁ?」


 言うだけ無駄か。


 工程表代りのホワイトボードの右半分には赤く縁取りがされ、同じく赤いマジックで『今日のお坊ちゃん』とタイトルがつけられた。


「いい加減携帯返してよー」

「もうひとつあるからいいじゃないですかぁ」

「もうひとつって……それは仕事用でしょ?」

「波瑠には仕事用のだけあれば十分じゃない? どうせこっちの携帯は、ほとんど使ってないんでしょう? もし電話がかかってきたらそのときは返すしさ」

「…………」


 弥生さんの言う通り、個人用の携帯は惰性で維持しているようなもので、ごくたまに家族や古い友人との連絡に使う以外、ほとんど放ったらかし。


 特に何か考えがあってそうしていたわけでもないのだが、いつ何時何が幸いするかわからないものだ。万が一母に仕事用に使っている携帯の番号とメールアドレスを教えていたらと思うと、背筋が寒くなる。


「波瑠さん、携帯鳴ってますけど?」

「誰から?」

「妹さんです」

「出る。貸して」


 栞里さん、良いタイミングで電話してくるではありませんか。ありがとう、おかげで携帯を取り返せました、と、通話ボタンを押しながら、心の中で礼を言った。


「栞里、どうしたの? 珍しいじゃない? あんたが電話してくるなんて」

「お姉ちゃん。どうしたのじゃないよ。ねえ、いったい何があったの? お母さんが泣いてるって言えって言ってるよ?」

「はぁ?」


 ちょっと栞里あんたなに言ってるのそうじゃないでしょうと叫ぶ母の声が、電話の向こうから聞こえる。


「まったくさ、何があったか知らないけど、私を間に挟むのやめてよね」

「お母さんがあんたに電話しろって言ったの?」

「そうだよ。あんたをどうにかしろって煩くてさ、私、すっごく迷惑なんだけど……」

「こっちだってお母さんのおかげですごい迷惑してんの! 文句があるならお母さんに言って。そうだ。あのお坊ちゃんに二度とメールさせるなってお母さんに言っといて」

「お坊ちゃん? 誰それ?」

「誰でもいいのよ。あんたに関係無いんだから」

「だったらさ、なんで関係無い私が言わなきゃなんないのよ? あんたとお母さんのことなんだから、あんたが直接言えばいいでしょ?」

「わざわざ言わなくたって、どうせ聞こえてんでしょ? とにかくね、これ以上煩わせるんだったら、こっちにだって考えがあるんだからね! って言っといて!」

「もうっ! 聞こえたでしょ、お母さん。 私はもう知らないからね。あとはふたりで勝手にやって!」


 母と栞里が電話の向こうで喧嘩を始めたので、これ幸いと電話を切った。携帯をジャージのポケットにしまい、何食わぬ顔で仕事に戻ろうとしたが、ふたりがそれを見過ごすはずはない。


「波瑠さん、携帯返してください」

「晶ちゃん、もういいでしょ? お遊びはおしまい」

「えー!」

「せっかく面白かったのに……」

「こんな変態メール毎日見たくないし、もう着拒否するから」

「……波瑠、それ、危険かもよ?」

「なんで?」

「だってさ、波瑠のお母さん絡んでるんでしょう? そしたら、ここだって知られてるんじゃない? もしも着拒否なんかしたら、直接訪ねてくるかも知れないよ?」

「うわー、そうしたら、ナマお坊っちゃん拝めるんですか?」

「晶ちゃん……」

「晶ちゃん、気持ちはわかるけど、本当に訪ねてきたら拝むだけじゃすまなくなるから……」

「……そうですね。波瑠さんですものね。血、見ますね」


 このふたりはいったい私をなんだと思っているのだろうか。

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