10
「おい、寝るんだったらちゃんとベッドで寝ろ」
聞き覚えのあるその声にうっすらと目を開けると、目の前十センチの所に俊輔の顔があった。
「わっ!?」
びっくりして起き上がると、開かれたカーテンから注ぎ込む眩しい光が目に痛い。
予想外に仕事が捗ったので、明け方、仮眠を取ろうとソファで横になっていた私は、なぜかまた俊輔に起こされた。咄嗟にソファに転がっていた携帯を手に取り見ると、もう九時近い。携帯のアラームを六時にセットしたはずなのにどうしたのだろう壊れたのかと、焦ってロックを外し、確認していると頭の上で声がした。
「壊れてねえよ。俺が止めた」
「ちょ……なに勝手なことしてくれるのよ?」
「ずっと鳴ってんのに起きなかったのはおまえだろ? 寝られるときはちゃんと寝ろよ。無理に仕事したって効率悪いだけだぞ」
「うっ……」
こいつの言うとおりだ。もうすぐ三十路。若い頃は三日完徹でも平気だったが、この歳になるとさすがに一晩でも体がきつい。私は、止めなければ5分おきに鳴り続けるのになんで余計なことをするのか、との文句を飲み込んだ。
「おまえ、昨日と同じ格好……。やっぱり風呂入ってねえだろ?」
「へ?」
「へ? じゃねーよ!」
突然、俊輔の手がするっと伸びてきて、反射的に仰け反る私のジャージの襟首を掴んだ。触れそうなほど近くに顔を寄られ、クンクンと髪と襟元の匂いを嗅がれる。
「くっせー! 何日風呂入ってねえんだ?」
「は? え……っと……二日かな?」
「かな? じゃねえっ! おまえ、それでも女か? 今すぐ風呂入ってこい!」
そのまま襟首を引っ張り無理やり立たせた私の背中をドンと叩き、お湯張ってあるぞ早く行け、と声を張り上げた。
「お湯張ってある? なんだ。最初からそのつもりで、お風呂用意してくれてたんじゃない」
口は悪いけれど気が利くな、と、ご機嫌で服を一枚一枚脱いではポンポンっと脱衣カゴに放り込み、風呂場に一歩足を踏み入れるとそこは、天井から床、風呂桶に至るまで、スッキリとピッカピカに磨き上げられていた。
「すっごい……」
掃除はプロ級じゃないかと感動しながら全身を洗い湯船に浸かる。ちょうど良い湯加減。首までしっかり沈めると、湯船いっぱいに張られたお湯がザーッとこぼれ落ちた。
「ふぅ……気持ちいい」
いつもはささっとシャワーを浴びるだけ。ゆっくりと湯船に浸かるなんて何年ぶりだろう。しかも朝風呂。贅沢の極みだ。
「おい、生きてるか? 着替えここ置いとくぞ」
「あー、サンキュー」
洗面所のドアが閉まる音がして、パタパタと足音が遠ざかる。
「嫁がいるってこんな感じなのかな?」
いつも仕事が佳境に差し掛かると、食事すら覚束なくなる。そんなときは、三人でコンビニ弁当をかき込みながら、嫁が欲しいよねと冗談を言い合っているが、ある意味それは本音だ。
俊輔は、口は悪いし、料理は自分よりちょっとできるだけだけれど、それ以外は言うことなし。こんなふうに面倒をみてもらえるのは嬉しい。だからといってこのまま済し崩しにあいつのペースに乗せられていいのだろうか。それは、大いなる謎だ。
::
爽快な気分で風呂を出ると、洗濯機の上にバスタオルと着替えがきちんと畳まれて置いてある。
「ああ、やっぱり嫁ほしー」
独り言ち、全身を拭いて着替えの下着を手に取ったところで、夢から覚めた。
「ちょっと待て。あいつは俊輔だぞ?」
ハッと嫌な予感がして洗濯カゴの中を見ると、今脱いだ服以外の汚れ物はやはり、何も入っていない。
「あいつ……」
大急ぎで服を着てバスタオルを頭に乗せたまま寝室へ駆け込み、ベランダに面した窓のカーテンを開けると、目の前には、シワを綺麗に伸ばされ干されたシーツやジャージと一緒に、お気に入りの高級レースのブラジャーとパンツが風に揺れていた。
「うわぁああぁぁあ!!!」
叫び声に驚いたのか、ダダダっと大きな足音を立て俊輔が寝室へ駆け込んできた。
「どうした? 大丈夫か?」
「あ、あ、あ、あれ……」
「なに? 洗濯物がどうかした?」
俊輔は怪訝そうな顔をして私の指差す方向を見た瞬間、ああと合点がいった顔をして得意気に説明を始めた。
「ああ、ブラジャーとパンツ! 大丈夫。ちゃんと内側に干してあるから、外から見えねえって」
「ち、違う。そういうこと言ってるんじゃなくて……」
「なに? ……ああ! あれは、レースだったからちゃんと洗濯マーク確認して手洗いしたから大丈夫。俺、こう見えて洗濯は得意なんだよ。ねーちゃんにたっぷり仕込まれたからさ。あいつは煩いんだ。色物と白物は分けて洗えとか、洗う前に洗濯マークを必ず確認しろとか、繊細な物は手洗いしろとかさ。ねーちゃんのレースのパンツ、そのまま他の洗濯物と一緒に洗濯機に放り込んで穴開けたときには弁償させられたからな。あれは高かったぞ。それ以来、洗濯には慎重になったんだわ」
「手洗い……」
卒倒しそうだ。ブラジャーとパンツを手洗いされてしまうなんて。それにしても、美咲ちゃんはこいつにいったい何をさせていたのか。
「波瑠? どうした? 顔、真っ赤だぞ?」
「うー、もうやだ」
私は両手で顔を覆って、ヘナヘナとその場にへたり込んだ。
::
夢と現実は、違う。私は、あっさりと嫁への幻想を捨てた。
俊輔の顔を見るだけで、気持ち良さそうに風に揺れていたブラジャーとパンツが頭に浮かびモヤモヤするので、あれきり話もしていない。あいつはあっちの部屋こっちの部屋とウロウロ何かしているようだったが、残り時間は僅かしかないので、私はブラジャーとパンツ問題を頭から追いやり、仕事に打ち込んだ。
今回のリーフはイメージが掴み易かったためか、それほど悩むこともなく夕方には二案ともデザインが完成した。
プリント出しまで終わり、ホッとしたところで、気が抜けたのか眠気に襲われた。俊輔に一言寝ると告げ、私はそのままベッドにダイブ。朦朧とした頭で夢と現実の狭間を彷徨っていると、何かが身体の上に乗って首に巻きついてきた。生暖かい微風とともに、唇にねっとりと湿った何かが触れる。
「うーん。やだ……。みーさん、やめて……」
目を閉じたままもがいて、手で払い除けると、重みと生暖かさが消えた。
私はそのまま意識を手放した。
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