第3話 清水上(しずかみ)村の狂える人々②
ピンポーン……ピンポーーーン……。
僕と楓が沈黙する中、チャイムの音が不吉に鳴り響く。
やがて、誰かが廊下を歩く気配。
古川家の誰かが、応対したようであった。
内容は分からないが、玄関で何事か会話するのが聞こえる。
「こんな遅くに、まさか……」
楓が気味悪そうに呟く。
時間はすでに深夜二時。
『まとも』ならば人様のうちを訪ねる時間ではない。
まともならば……。
身を硬くしていると、やがて楓の部屋のドアがノックされた。
「ねえ、楓ちゃん」
柔らかい女性の声。良く聞き慣れた楓のお母さんの声であった。
「どうしたのママ」
楓はドアの方に歩み寄ると、そっとドアに手を添えて言った。いざ開けられそうになったら、すぐにドアを押さえられるポーズである。
そして楓は何気ない口調で、ドア越しに尋ねた。
「今チャイムが鳴ったみたいだけど、誰か来たの? こんな遅くに--」
そう彼女が聞きかけた時であった。
「そこにいないわよね?」
ぞっとするほど冷たい、楓母の声であった。
あの優しかった楓のお母さんとは思えない、無機質な声。
「な……なんの話?」
慎重に聞き返した楓に対して、その母は直接答えなかった。
「ねえ、楓ちゃん……クソアニメだったのよ……」
「だ、だからなんの話よ」
「とんでもないクソアニメだったらしいの……私の……大切な……が……」
「ちょっと、ねえ、どうしたのっ? ママ、なんかおかしいよ」
「…………のよ」
「え、聞こえない?」
楓がそう言って、耳をそばだてる。
すると次は、僕にまではっきり聞こえる声がした。
「私も、投資してたのよ」
氷よりも冷たい声だった。
楓の顔が青ざめる。
「う……嘘でしょ……私、あんなに投資しちゃダメって言ったのに……」
「立石さんの旅館の改装費としてね……主婦仲間のみんなで投資したの……必ず増やして返してくれるって契約書書いて……でも立石さんの旅館……破産するんだって……クソアニメだったから……」
「い……いくら投資してたの……」
「……百万円」
ぎ……ぎぎぎ……。
楓が錆びたロボットのような動きで、こちらに振り返った。
普段は宝石のように輝く瞳が、今は泥のように濁りきっている。
隠しきれない殺意が、その真っ黒な瞳から放出されていた。
狂気が伝染していく現場を見てしまった。どうやら僕が把握している以上に、住民達のカネが動いているようだ。道理であれほどの人数が僕を探しているわけだ。
「もう一度聞くわね、楓ちゃん……『いないわよね?』」
これはやばい……今にも売られそうだ……。
そう思った僕が、そっと窓際に移動した時であった。
「い……いないわよ……」
彼女は顔を引きつらせながら、そう答えていた。
相変わらずその後ろ姿からは怒気がにじみ出ているものの、しかし楓は確かにこう答えていた。
「ママがもし哲也の話をしてるのなら……別に来てないわよ……」
楓、なんていい奴なんだ……!
もうこれは、今後楓『さん』とさん付けにするしかあるまい。
僕が感激とともに、胸を撫で下ろした時であった。
彼女の母親が、妙なことを言い出したのだ。
「庇ってないわよね?」
「え?」
「庇ってないわよね、哲也君のこと」
「も、もちろんそんなこと……」
そう答えかけた楓に対して、母親は言った。
「そうよね。庇わないわよね。いくら楓ちゃんが、哲也君のことだいす」
お母さんがそう言いかけた瞬間だった。
ぶわりと、楓さんの額に汗が浮き上がった。
「うわああああああっっっ」
楓が真っ赤な顔をして、まるで母の言葉を遮るように絶叫していた。
「いいいいいいい居ないってば! 居ない! 居ない! 庇ってない! 絶対庇ったりするわけないっ! 私がっ、哲也のことをっ、庇うわけないっ!」
奇妙な光景であった。
あれほど慎重に返答していた楓さんが、冷や汗をダラダラ流しながら叫び始めた。しかも真っ赤な顔で半泣きになりながら、僕の様子をチラチラうかがってくる。なぜだ? 楓さんがいま気にするべきは、こちらではなくドアの向こう側ではないのか。
「なななな、何言ってるの。急にっ、へ、変な、冗談言わないでよっ。そうっ、冗談っ、今のはママの冗談だからっ」
なぜこちらに向いて叫ぶのか。
そんな動揺丸出しの言葉で、実の親を騙せるはずがなかった。
「完全に『居る』反応じゃないのっっ!!」
どがんっ。
とてつもない勢いで、ドアが叩かれる。
「うわっ」
ドアを押さえようと身構えていた楓は、動揺していたせいかワンテンポ遅れてしまった。出来てしまった隙間は、わずか十センチ程度。
だが、
「かあぁぁぁぁええええでぇぇぇぇぇ!!!」
絶叫とともに、一本の腕が這い入って来た。
その腕は猫ちゃんの柄のついた、ピンク色のパジャマを着ていた。楓のファンシーパジャマの趣味は、どうやら母親譲りらしい。
だがそのカワイイ柄の袖に包まれた腕が、今は猛烈な勢いで振り回される。掻き毟るように指をわしゃわしゃと蠢かせ、ぶんぶんとひたすら空を切る一本の腕。
その光景には明確な狂気が感じられた。
狂っている。楓の母親が狂っている。
「んーーっ 」
楓はこちらを見ると、ベッドの下を指差す。
以心伝心。
僕がベッドの下に飛び込むと同時、楓はドアから手を離した。
すぐに楓の母親が飛び込んでくる。
「ど、どうしたのママ……急にドア叩くから、びっくりしちゃったじゃない……」
楓の苦しい言い訳。
母親は答えない。
黙ったまま部屋を見回す気配が伝わってくる。
普通ならば、やがて見つかってしまうだろう。
だが……。
「……」
母親が歩み寄ったのは、窓の方であった。
先程、僕が隠れる寸前に『わざと少し開けておいた』窓の方である。
このクーラーの効いた部屋で、窓が開いていたという事実。
それは……。
「逃げたわね」
楓母が呟く。
そう。慌てて逃げたせいで、窓を閉められなかったと考えるはずである。
このまま、外に様子を見に行ってくれれば……。
そう思った瞬間であった。
ガバリ、と音がした。
楓の母親が……大の大人が急に四つ這いになっていた。
そしてワサワサと虫を思わせる動きで、彼女は部屋を横断する。
ベッドの下に、顔面を突っ込んできた。
目が合ってしまった。
完全に理性を消失し、狂気にまみれた黒い眼だった。
ニタリ、と口の裂けそうな笑みを浮かべる。
「いいいいいいいたああああああああああああっ!!!!」
村中に聞こえるような絶叫だった。
僕は震える。
普通じゃない。おかしくなってる。
あの楓のお母さんが。あの優しかったおばさまが……。遊びに行くとクッキーを焼いてくれた……子供の頃は楓と一緒に頭を撫でてくれた、あのおばさまが……。
金は……クソアニメはこれ程までに人を狂わせるのか……。
狂うのは……作画だけで十分じゃないか……。
「ここにぃぃぃ! いいいるうぅぅぅわああああ!」
その狂った作画のような顔で、絶叫を続ける楓母。
家の周囲の気配が変わる。
ザザザザと何かが高速で近づいてくる音がする。
これはヤバイ。
僕が万事窮すと思った瞬間であった。
「哲也っ」
バサリ、と楓母の上に布団が降ってきたのだった。
「もがっ、もがああっ」
楓が後ろから布団をかぶせ、暴れる母親をぐるぐる巻きにしていた。
「哲也っ、さっさと逃げるなさいっ」
楓に急かされて僕は、慌ててベッドの下から脱出した。
その勢いのまま置いてあった靴を拾い、窓から飛び出る。
半分転びながら裏庭に降り立つと、既にすぐ近くまで松明の群れが迫っていた。
「いたぞぉぉぉっ!」
どうしてこんな暗闇で見えるのか。これが狂える老人達の力なのか。
叫びに追い立てられるようにして僕は走り出す。
「「「かえせっ!」」」
「「「かえせぇっっ!」」」
「「老後の蓄えを返さんかぁっ!」」
老人達の怒号が集まってくる。
「べ、別に僕が金を持ってるわけじゃないっ」
逃げながらそう叫ぶが、聞きゃしない。
「ばかっ、返事してる場合じゃないでしょうっ」
「え?」
いつの間にか、すぐ後ろをうさぎ柄のパジャマの少女が後ろを走っていた。。
似合わないファンシーパジャマ。薄茶色のセミショートをなびかせて走るその姿。言うまでもなく楓である。
「何で楓まで逃げて来てるの?」
「だってあの部屋に居てたら、私まで捕まって火あぶりにされそうじゃないっ」
「う……確かに……申し訳ない」
完全に巻き込んだ形であった。
だが詫びる僕に対して、楓は変な反応をした。
「そ、そんなことより哲也。アンタ、ママが言ったの聞こえてないわよね……」
気まずそうに目をそらしながら、彼女は尋ねる。
「……? あんな大声なんだから、村中聞こえたに決まってるだろ?」
「そ、そっちじゃなくて、その前のっ」
その時であった。
「待って……」
僕は慌てて楓の腕を掴んで止める。
妙なことに気づいたのだ。
背後に迫っていた老人達の気配が、消えたのだ。
「おかしい……」
とても逃げ切れるような速度ではなかったのに。
僕は走るのをやめて、慎重に歩き始める。
僕らが追い込まれていたのは、村の湖のほとりにある広場に続く道であった。そして逃げている時は気づかなかったが、広場なんて誰かが見張っているに決まっている。それなのに……。
「誰の気配もない……誰もここまで追いかけて来ようとしない……」
そう僕が呟いた時だった。
「ここに我が輩がいるからじゃな」
闇の中からその声が聞こえた。
そして『きゅるりきゅるり』と錆びついた車輪の音が近づいてくる。
「な……まさか……」
暗闇の奥から現れたその姿を見て、僕は信じられない思いで呟く。
そこに姿を現したのは、村内でも有数の最高齢者。
「倉田のじいちゃん……」
古い車椅子に乗った、隻眼の老人であった。
「ここには我が輩がおるから、誰も来る必要がないんじゃよ」
その老人は僕らに向かってそう言った。
松明も持たず、もちろん街灯などもなく、そして今晩は月すらない。
だが僅かな星明かりの下で、老人の隻眼は真っ直ぐ僕の方を見据えていた。
「どうして……どうしてここに……」
自分で車椅子を漕いできたのか……?
そして僕は、かの老人が抱えているものに気づき青ざめる。
杖だと思っていたそれ……。
それは一振りの軍刀であった。
倉田剣四郎(くらた・けんしろう)元軍曹。
サイパン島からの生還した本物の従軍経験者である。
「まさか……半世紀以上も軍刀を隠し持っていたのか……」
そう思わず呟いた僕に、老人はニタリと笑った。
肩に担いでいた軍刀の刃を、僅かに抜いて見せる。
「老後の貯金も尽きたことじゃしなぁ……」
「あと百年は長生きするつもりだったんじゃが……」
「ちょいと気が変わったぞい……」
「お前さんに一太刀浴びせられるなら」
ここ十年、ずっと車椅子生活であるはずの老人が。
「あと五分の命で構わんよ」
信じられないことに、自らの足で立ち上がっていた。
横の楓が叫ぶ。
「立った……倉田が立った……!」
「楓さんちょっと黙ってて」
やせ細った老人が、疾風のような速さで僕に切りかかってきた。
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