第148話 終息
「どこへ行く?」
いきなり声をかけられて男は思わず立ち止まった。声が耳のすぐそばで聞こえたような気がしたからだ。周りの気配を探る。右斜め後ろに誰かいる。
「おまえ一人で逃げ出すつもりか?カルーバジタ」
再度声をかけられてカルーバジタはゆっくりと振り返った。
「これはレフ殿下、それに……」
レフの横にもう一人いるのに気づいた。
「シェルベリカ」
カルーバジタが指名手配になった後、暗部をまとめていた女だった。カルーバジタの下で急速に力をつけ、ナンバー2になった女だった。シェルベリカはじっとカルーバジタを見つめたまま身動きもしなかった。
王府に近づくに従って膨れ上がってくる不安をどうしようもなかったのだ。根拠があるわけではなかった。北門の突破も宮殿内の清掃もうまくいっているように見える。しかし暗部に長く身を置いていると、そういう漠然とした感覚を無視してはいけないことを何度も教えられていた。周囲の兵たちが逸っていて自分に注意が向いてないことを確かめて、カルーバジタは少しずつ後ろに下がって廊下を曲がるときに王太子の部隊から離れた。そして一目散に王宮の外に向かっていた。もう少しで宮殿から出るという所まで来ていたのだ。
(二人だけなのか……)
周りを探っても他の人間の気配はなかった。それでもそのままで逃げ切れる相手ではなかった。カルーバジタは大ぶりのナイフを懐から出して構えた。レフは一歩引いた。
「シェルベリカ、おまえの仕事だ。暗部の不始末は暗部で処理しろ」
シェルベリカは軽く頭を下げた。
「畏まりました」
シェルベリカも同じような大ぶりのナイフを構えた。
――こいつだけならなんとかなる。レフの近接戦闘の腕は知らないが、あれだけの魔法を持っているとなると、そちらに力を入れてたいしたことはない可能性もある。現にシェルベリカに任せて一歩引いた。一人ずつなら――
すぐにカルーバジタが仕掛けた。話し合いの余地などなかったからだ。キンキンキンキンと近距離で互いのナイフが交錯した。両者に浅い傷がいくつもついたが動きを阻害するようなものではない。服が赤く染まった。いったん離れて息を整える。カルーバジタには時間がなかった。こんなところでグズグズしていれば人が集まってくるかもしれない。それは確実に味方ではない。
焦って次の攻撃に移ろうとしたときレフから強烈な殺気が放たれた。それはカルーバジタとシェルベリカの動きを一瞬止めた。シェルベリカの方がわずかに回復が早かった。暗部をまとめるようになってからレフに接することが多く、その気に慣れていたからだ。回復してすぐに仕掛けた攻撃をカルーバジタは受けきれなかった。
「余計なことをしたかな」
「いえ、助かりました」
胸に深くナイフを刺されたカルーバジタの死体を見下ろしながらシェルベリカは大きく息をついた。個人的な武技ではカルーバジタに及ばなかった。それに30代も半ばを過ぎれば体力のピークを過ぎている。カルーバジタは10歳以上年上とはいえ男だった。レフに命じられて戦っていたが徐々に押されていることはわかっていた。
レフが首を回して王府の方を見た。
「あっちも終わったみたいだな」
王府の方へ視線を向けながら言ったレフの声を聞きながらシェルベリカはカルーバジタの胸からナイフを抜いた。
「これで処理するべき人間がはっきりしただろう。カルーバジタの息がかかった者はいらない。あとは暗部の仕事だ。暗部の中で片をつけろ。それから渡したリストに載っていた人間について、どう動いたか、早急に報告しろ」
「承りました」
去って行くレフの背中に頭を下げながらシェルベリカは背中を冷たい汗が落ちていくのを感じていた。
――多分レフ殿下は王太子殿下の暴発を誘発したのだ。それを機会にアリサベル副王に従わない連中をあぶり出すつもりで……――
「俺をどうするつもりだ」
ジルベール王の前に座り込んでドライゼール王太子が訊いた。ジルベール王を見上げる形になるのが癪だが、立ち上がろうとするとアリサベル師団の兵たちに無理矢理押さえつけられるだろう。王の隣にいるシエンヌもいつでも剣を抜ける体勢で王太子を見ている。
「ドライゼール兄様には王太子を降りていただきます。その上で王族の勤めとしてクローゼイア神の本神殿の神殿長に就任していただきます。そこで神に捧げた一生を送ってください」
「クローゼイア神の本神殿……」
クローゼイア神は生と死を司る神だ。アンジェラルド王国では契約と知識の神、メリモーティア神と並んで信仰されている。本神殿の神殿長は代々王族が就くのが慣例だったが、形式的に傍流の王族が就くのが普通だった。何かの行事があれば本神殿に行くが、普段は王宮にいることが多い。ジルベール王はドライゼール前王太子に対してそこがお前の居場所だと言っている。
本神殿はゼス河がメディザルナ山地から下ってきた三角州に建てられており、川を渡らなければ外へ出られなかった。ジン領とアルマニウス領の境界にある。身分のある王族を幽閉するには丁度いい。
「いいのか?今俺を殺さなくて」
ドライゼール王太子の強がりだった。今ジルベール王は王太子を殺さないと明言したのだ。それを聞いた者も多い。王がいったん口にしたことを翻すのは王の権威に関わるとされていた。だから多少揺さぶっても大丈夫だろうと思ったのだ。
「ぼ、……私は慈悲の王と呼ばれたいと思っています。ドライゼール兄様が反乱を起こしたにもかかわらず処刑を免れれば、そういう評判を得る一助になるでしょう。平民に王族の諍いなど報せるわけにはいきませんが貴族たちには隠しようもありませんから、私が兄様をどう遇したかも広がります。でもまた兄様を担ぐ者たちが出たら、そちらは容赦しません。それに、処刑でなく、レアード兄様のように自然死なら私の評判には傷はつかないと思いますが」
ドライゼール王太子は息をのんだ。それとわからない形で殺すこともできると言っているのだ。ひょっとしたらレアードもこいつらの手にかかったのか?
「それにマルガレーテ王太后には居室を移っていただきます。
マルガレーテ王太后も軟禁すると言っている。尤も母の処遇などドライゼールにとってはどうでもいいことではあった。とりあえず自分が殺されないように注意しなければならなかった。家臣――王太子位を外されてしまえばドライゼールも単なる家臣と大差はなかった――の命など王の考え一つでどうにでもなるのだ。
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