第141話 交渉 1
講和会議はアトレで開催されることになった。国境の街であったが帝国領だった。王国にとっては敵地に踏み込んでの講和会議、つまり王国が勝勢であることと示したわけだ。
講和会議の始まる前日、華麗な軍装の2個中隊に護衛された王国の交渉団がアトレに入った。護衛が2個中隊というのは少ないが、帝国軍が本気で襲いかかれば1個師団でも足りない。アトレは対王国の最前線で、3個師団の帝国軍が駐留していた。ガイウス大帝の後継者を任じる帝国が国としての約束を破るはずがない、という目論見の元に編成された交渉団とその護衛隊だった。護衛として1個師団を付けたりすれば今度は帝国側が疑心暗鬼になる。
尤も護衛中隊にレフとコーディウス・バステアが兵に擬装して混じっていることを知ったら、帝国はそんな配慮を投げ捨てて襲いかかってくるかも知れなかった。レフとコーディウス以外にレフ支隊から選抜した1個小隊が護衛の中にいた。その中にアニエスとジェシカも入っていた。王宮に残す(残さざるを得ない)アリサベル副王の側に通心が得意なシエンヌかジェシカを残すのが通例だったが、今回は帝国内部の事情に詳しいと言うことでジェシカを選んだ。シエンヌは頬を膨らませて抗議したが、
『私はいつも残されるのですよ』
とアリサベル副王が言って納得させた。尤も、
『大丈夫、あたしがちゃんと護衛するから。シエンヌはおとなしく留守番していなさい』
などとアニエスが余計なことを言って、もう一度シエンヌの頬を膨れさせた。
交渉団の主席は内務卿、補佐に外務卿と軍務卿、及び第3軍のトレヴァス上将が付く。帝国側も同様、内務卿、外務卿、軍務卿とダスティオス上将が交渉に臨んだ。ディアステネス上将は外れたというより本人が外れることを望んだ。
交渉は最初から難航した。帝国側が、
『捕虜の釈放は双方が無条件にするべきだ』
というラヴェト帝の命令に縛られていた所為だった。
『王国が捕虜を無条件に釈放するなら、シュワービスからの撤退の費用を出してやろう』
僅かな金を払って戦前の姿に戻すことを要求しているのだ。帝国の条件を聞いた王国側は即座に拒絶した。そもそも捕虜の数と質が違う。王国へ攻め入って敗れた帝国人の捕虜の方が圧倒的に多く、2万人を数えた。それに対して王国人の捕虜は5千人弱であり、しかも帝国人の捕虜はそのほぼ全てが軍関係者であるのに対し、王国人の捕虜の半数は占領地から帝国軍が連れ去った一般人だった。捕虜を解放すれば帝国は2個師団を増設できるのだ。それを互いに無条件に釈放など、王国として到底聞き入れられるはずがない。帝国の交渉団にもそれはよく分かっていたが、ラヴェト帝は妥協を許していなかった。帝位に就いてから彼を戴く帝国軍は王国軍、特にアリサベル師団に一方的に翻弄されるばかりで皇家、貴族ばかりか平民の間にも新帝に対する失望が広がっているのを肌で感じていたからだ。
これでは交渉にもならなかった。朝、顔を合わせて条件が変わってないことを確かめるともう後はその日一日やることがなかった。帝国内務卿は度々皇宮へ通心して条件の緩和を懇願したが、内務卿から言われる度にラヴェト帝の態度は頑なになった。
レフがそれを感じたのは不毛な交渉が始まって7日目の午後だった。その日も朝の顔合わせだけで解散し、王国側も帝国側も収穫がなかったことを本国に報告して、次の朝までの時間を持て余していた。双方の交渉団ともに、交渉の行方についてそろそろあきらめの感情が出始めているころだった。
王国交渉団はアトレの街中に豪商の屋敷だった建物を提供されていたが、護衛兵達はその屋敷の周囲に天幕を張って駐留していた。屋敷を死角なく取り巻くように小隊単位に20張りの天幕が設置されていた。2個中隊に10人の魔法士が随伴し、常に屋敷の周囲に探知網を廻らせていた。ただし10人の魔法士の中にレフやジェシカは数えられていなかった。護衛中隊の中にレフを含むレフ支隊からの兵が混ざっていることを知っているのは交渉団の首脳達だけだった。割り当てられた天幕の中でとりとめもない話をしながら待機しているときに感じたそれは、同調していない魔器からの途切れ途切れの通心だった。
『…ねが…、つう…て、へん……ください』
同調してないのに作動しているのは相手の魔力パターンがレフ、と言うより
『誰だ?』
『通じた!ああ、
『誰だ?』
繰り返し誰何するのに、
『ドミティア、ドミティア・フェリケリウス・ルファイエ、です』
『ドミティア……殿下?』
思いがけない名前にレフも一瞬詰まった。そして同じ天幕内にいたコーディウスとジェシカの魔器にも通心を繋いだ。
『はい』
コーディウスとジェシカが頷いた。2人が覚えているドミティアの魔力パターンと一致したのだ。
『レフ・バステア様ですね』
誰に通信しているのかドミティアには分かっていたようだ、とレフは思った。正体を明かすと帝国軍に襲われる可能性が有った。何しろ今、帝国の最大の敵がアリサベル師団、その力の源泉であるレフだった。しかし、今この瞬間に襲われても逃げることが出来る。1個小隊のレフ支隊の隊員を連れてルルギアに設置した迎門の魔器に跳ぶことなど、造作もない。成り行きによっては交渉団とレフ支隊以外の護衛兵が犠牲になるが、それくらいのことは彼らも覚悟の上だろう。
『レフ・ジン、だ』
『レフ・……ジン様?』
『そうだ』
『そう呼ばせて頂きます』
『で、フェリケリウス一門のお
さすがにドミティアは少し躊躇った。
『お、お会いすることは出来ませんか?』
『私が、貴女と、……何のために?』
『このままでは、折角の会議が無駄になります』
『仕方がないな、あれ程頑なではどうしようもない』
『このままでは帝国はぼろぼろになります。それに王国もただでは済みません』
『そうだろうな。しかしラヴェト新帝はそれを望んでいるようだ』
『だから、会ってください』
『私と会ってどうするんだ?私は交渉の場に出る権限など持ってないぞ』
『でも、貴方が、レフ・ジン様が交渉団の実質の長ではありませんか?』
違うと言いかけて、必ずしも的外れではないことに思い当たった。交渉団主席の内務卿は毎日必ずレフの元へ報告を寄越すのだ。書類ではなく通心によるものではあったが。レフが助言すれば内務卿はおろそかにはしないだろう。
それに
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