第140話 ドライゼール王太子の憤懣

「不味い!!」


 乱暴に投げ捨てられたグラスは、中身の液体をまき散らしながら壁にぶつかり、大きな音をたてて砕けた。赤い酒が毛足の長い絨毯を濡らして広がった。慌てて女が飛び散った破片を拾いに走った。


「まるで水ではないか!」

「ドライゼール様」


 おろおろと落ち着かなく両手を動かしながら、豪華なドレスを着た正妃のベルエアが何とかドライゼール王太子を宥めようとしていた。


「酒を持ってこい、もっときりっとした奴を」

「ドライゼール様、今日はもうバゼット酒を2瓶空けられたのですよ。これ以上はお体に障ります」


 バゼット酒は大麦から作った蒸留酒でアルコール度の一番高い酒だった。それを2瓶も空けた後に正妃の命でアルコール度の低い葡萄酒を持ってこさせたのだ。


「うるさい!さっさと持って来い!」


 ドライゼール王太子は立ち上がってベルエア妃を平手打ちしようとした。ベルエア妃は思わず両手を顔の前に持ってきた。ドライゼール王太子は右手を振り上げたところで固まった。急に身体を動かしたことが酒の酔いを増強したのだ。足をもつれさせその場にくたっと尻餅をついた。そのまま上体を後ろに倒し、いびきをかき始めた。


「ドライゼール様」


 ベルエア妃はそっと体を揺すってみたがドライゼール王太子はいびきを搔いたまま目を覚まさなかった。


「丁度良いわ。あなた達」


 ベルエア妃は一緒にいた2人の側妃に合図した。


「ベッドにお運びしましょう」

「「はい」」


 ドライゼール王太子は体格がいい。意識を失った王太子の身体は重く扱いにくかったが3人の女達は何とか王太子の身体をベッドに横たえた。女の身には重労働で、一番年上の正妃など肩で息をしていた。ゴォーゴォーといびきが続く。


「おいたわしい……」


 側妃の一人が呟いたのは本気だったのか、単なる儀礼だったのか。





ここ何日かドライゼール王太子は酒浸りだった。


「何故、誰も来ない!?」


 勿論帰国に際しては出迎えはあったのだ。オルダルジェ宰相直々に帝国からの書状を受け取った。但しジルベール王、アリサベル副王の出迎えはなかった。格から言うとドライゼール王太子を飛び越えていたからだ。オルダルジェ宰相の関心も直ぐに帝国からの書状に移った。最小限の挨拶のみでドライゼール王太子の面前から辞し、書状の検討に入った。その後は日に一度、ご機嫌伺いに宰相府の中堅官僚が顔を見せるだけだった。軍幹部は顔を見せなかった。対帝国戦で手を離せないと言うのが表向きの理由だった。

 帝国に囚われる前に王太子の周囲にいた取り巻き達は、王太子の無茶な行動を抑制できなかったとして降格され、王宮に出入りできる身分ではなくなっていた。生母である王太后は前王の喪に服してクローゼイア神殿に籠もっている。つまりドライゼール王太子は王国の中枢から完全に排除されていた。


 ドライゼール王太子は丁重に扱われない事に不満たらたらで、酒が入るとジルベール王や、アリサベル副王に対する不満が止めどなく口をついた。勿論3大貴族家や軍に対する不満もあった。

 クーデターを示唆するようなことを口にするようになって、王太子妃達は侍女や召使いを遠ざけて自分たちで酒の相手をするようになったのだ。滅多な人間に聞かせられることではなかった。王太子妃達の目から見ても、ジルベール王、アリサベル副王の体制は上手く回っていた。何より圧倒的敗勢だった戦を勝利寸前まで持って行っているのだ。勿論不満を持つ人間も少なくなかったが、不満を持つ人間が即王太子に同情的とは限らない。聞く人が聞けばそしてそれを口にしたのが平民だったら物理的に首が飛ぶようなことまで、酒の入った王太子は言うのだ。王太子が失脚すれば妃達もただでは済まない。王太子を懸命に世話するのは自分たちのためでもあった。


「帝国との講和会議が始まって、宰相を始め内務卿、外務卿も皆ルルギアへ行っております。決してドライゼール様をないがしろにしているわけでは……」

「ジルベールは王宮にいるのだろう。俺が帰ってきたのに何故顔も出さない!俺は正当な王太子だぞ。妾腹のジルベールは跪いて禅譲を申し出るのが筋だろう!」


 そうドライゼール王太子が言い放ったとき、妃達は息を飲んだ。ゾルディウス王の時代なら王位継承権も下位で、年齢も下と言うジルベール王が挨拶に来ることはあるだろう。しかし、今、ジルベール王の時代になっている。ドライゼール王太子の方から挨拶に行くべきだった。況してや王位を譲れなんて!いくら何でも他人に聞かせて良いことではない。その時側にいた侍女たちに厳重に口止めして、以降は酒を飲むときは妃達以外の人間を遠ざけるようにしたのだ。但し、妃達は知らなかったが王太子の言動は王府、副王府に筒抜けだった。





 ドライゼール王太子は目を覚ました。未だ真夜中だった。浴びるように飲んだ酒の所為で頭がずきずきと痛かった。喉が渇いていて、枕元の水差しに手を伸ばそうとしたとき、部屋の中に誰かがいるのに気づいた。転がるように曲者から遠い側のベッドの端から降りていつも枕元に置いてある剣を手にしたのはさすがだった。大声で衛兵を呼ぼうとして、闇の中にそれだけ明るく浮かび上がった曲者の姿に見覚えがあるのに気づいた。


「カルーバジタ?」


 カルーバジタの姿がもう一度闇に沈んだが、片膝をついて頭を下げたのが分かった。


「お久しゅうございます、殿下」

「何をしていた!?カルーバジタ」


 王太子の声は強い叱責だった。


 帝国のとらわれの身だったとき、王国へ帰った後どうやって復権するか懸命に考えたのだ。その手段の一つが暗部の利用だった。ドライゼール王太子はもともと暗部という存在が好きではなかった。しかし政治におけるその存在意義は理解していたし、時々生母であるマルガレーテ王妃の所へ伺候してくるカルーバジタを紹介されたこともあった。だから王太子の持っている暗部への伝手はカルーバジタだけであった。帰国してカルーバジタに連絡を取ろうとして取れなくなっていることに愕然としたのだ。理由を聞いても誰も言を左右してはっきりしたことは言わなかった。復権のために打つ手がなくてイライラしているところへカルーバジタが顔を出した。王太子の声が尖るのも理由があった。


「身を隠しております」

「身を隠して……?いったい何があった?」

「アリサベル王女を暗殺しようとして失敗しました」

「あの、売女を?殺そうとしたのか」

「はい」

「莫迦め、何故失敗した?」


 ドライゼール王太子は薄く嗤った。こんな時間に来て、こんな話をするということは自分とこいつの目的が同じ――現体制を破壊して自分が取って代わること――なのだと納得させられる。


「あの亡命貴族が思ったより手強うございました。一番の腕利きを送り込んだのですが」

「未だ暗部は使えるのか?」

「はい、未だ私の手の者が残っております。十分に殿下のご期待に添えるかと。いかに強敵と言えど四六時中気を張っている訳にもいきますまい」

「今度は失敗は許されないんだぞ。あんな外様から王国を取り戻すためには」

「分かっております。十分に機会を窺って今度こそ」


 後の無いもの同士だった。失敗すれば地獄というのは一番強い絆を作るのかも知れない。


――取りあえず顔つなぎが出来た。実権をなくした王太子でも王宮内でその行動を制限されることはない。今度は出し惜しみはしない。王太子の特権を利用すれば手の者を王宮に入れることができる。王太子の側近、護衛、召使い、それに息のかかった暗部からの人間をもぐり込ませるのだ。宰相府にも伝手がある。全員を磨り潰してでも邪魔者は排除する。アリサベルさえ始末できれば亡命貴族レフなど浮き草になる。ドライゼール王太子が然るべき地位に就けば自分の復権もなる――





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