第137話 アンドレ・カジェッロ Part Ⅱ
「ふーっ」
寝不足で重い身体を引きずるように宿舎の廊下を歩いていたアルティーノは,
肩を後ろから叩かれて振り返った。
「疲れてんだ、眠……」
言いかけたところで、相手が誰だか分かって慌てて姿勢を正した。
「アンドレ様!?」
アルティーノの肩を叩いたのはアンドレ・カジェッロだった。
「随分疲れているようだな」
「はっ、そ、それは……」
「まあ、無理もないか6日も連続で夜中に引っ張り出されたらな」
「はっ、いえ、昼間に十分な睡眠時間を、頂いておりますから」
「眠れるのか?」
と問われると素直にはい、とは言えなかった。言葉に詰まったアルティーノに、
「眼の下に隈ができているぞ」
「はっ、慣れぬことをしていますので、興奮がなかなか冷めません」
「レフに聞いたぞ、魔器の投擲を一手に引き受けているそうだな」
「は、はい」
「随分上達したとレフが言っていたぞ。魔力量も上がったと」
「あ、有り難うございます」
「昨夜で終わりだそうだ」
そう言えば夕方にまた司令部へ来いと言われなかったな、アルティーノはぼんやりした頭で思った。体力も精神力もガリガリと削られる任務だった。闇の中をレフに付いて走っていくのは楽な作業ではない。最初の1~2日は、初めて共に行動するコーディウスに配慮してレフもスピードを落としていたが、その後はどんどん速くなった。直ぐにコーディウスがレフに追随できるようになったのは、さすがはフェリケリウス皇家の成員と思ったものだが、アルティーノにとっては冗談ではなかった。レフはアルティーノに合わせたスピードで駆けるようになった。つまり、アルティーノが付いていくのがやっとと言うスピードだった。その上目的地に着いたら魔器の投擲をしなければならない。そこからは転移で帰れるため残った魔力・体力を振り絞ってもいいことが救いと言えば救いだった。
「そ、そうですか……」
助かったと思った。弱音は吐きたくなかった。レフに付いていくのがシエンヌ様なら平気な顔をしているだろうと思ったからだ。魔法士として成長することは、カジェッロ家の若――アンドレ――のためにも望ましいことだった。
「と、言うことで付いて来い」
アンドレに言われては否やはなかった。
「ここは?」
「何だ、来たことはないのか?」
「いえ、有りますが、しかし昼間からいいのですか?」
連れてこられたのは酒保だった。
「お前はこれから休憩時間だ、俺は非番で夕方まで用事が無い」
「しかし」
「お前は良く遣った。顔を見れば寝不足なのは分かる。レフに言われたぞ、眠れるようにしてやれ、って」
「あ、有り難うございます」
「飯は食ったんだろ?」
未だ人影の少ない酒保の片隅に席を確保してアンドレが最初に言った言葉だった。
「はい、用意されていましたので」
「じゃあ、酒とちょっとしたつまみでいいな」
アンドレが注文したのはナッツと燻製の肉、それにクヴァ酒という芋から作った蒸留酒だった。クヴァ酒はアルコール度数が高い割に値が安く一般庶民に、当然一般兵にも人気のある酒だった。ウェイターの運んできたグラスになみなみと注がれた酒を取り上げて、
「乾杯」
アンドレは半分ほどを一気に飲んだ。アルティーノはグラスを傾けて一口、口に含み飲み下した。アルコールがガリガリと喉を刺激しながら胃の腑へ下っていった。いつもアルティーノが愛飲しているクヴァ酒よりよほど上等な酒だった。
「ふーっ」
思わず溜息が出た。レフに連れ回された6夜の緊張がほぐれていった。
「ご苦労だったな」
「いえ、アンドレ様がレフ閣下に推薦してくれたのでしょう?私も役に立つと」
「それもあるがな、レフの方からの指名でもある」
「へーっ?」
思いがけないことだった。確かにアンカレーブの戦いなどでレフと共に闘ったことはあるが帝国領深くへ少人数で侵入して嫌がらせをするなどというときに、シエンヌ達を差し置いて連れて行かれるほど評価されているとは思ってなかった。てっきりアンドレが無理矢理頼み込んだものとばかり思っていた。だからこそレフの前では弱音は吐けなかったのだが。
「実はな」
アンドレが秘密めかして声を落とした。いくらか照れながら、
「この戦が終われば、ジン家から領を分けて貰って一家を立てることになった」
「おー、それはおめでとうございます」
アンドレはカジェッロ家では側室の子だった。正室の生んだ二人の男子が、アンドレより年少ではあったがカジェッロ家の後嗣と決まっており、アンドレは嫡子のスペアーでさえなかった。だからこそ傭兵稼業をしていたし、この戦にもカジェッロの領兵を率いてベニティアーノへの援軍にも行かされたのだ。死んでもカジェッロとしては大きな影響はないと思われたからだ。それが本家とは別に一家を立てることができるなどというのは、こんなこと――対外戦争――でもなければあり得ないことだった。
「まあ、王家からの下賜ではないがな」
王家から領を分け与えられた本家よりは格下になる。
「それでも、ジン家ですよ。今は飛ぶ鳥落とす勢いの。アンドレ様がレフ閣下とも親しいことはよく知られておりますし」
「精々、領兵監くらいで終わるところが独立した家を持てるのだから文句はないがな。それで、だ。アルティーノ、カジェッロ本家から俺の方へ移ってくれないか?」
「は、はい。喜んで」
「そう言ってくれると思っていた。だからレフに頼んでお前の
良質の魔法士を持つ軍は強い。だからレフはアンドレの配下になるであろうアルティーノを鍛えたのだ。アルティーノは思わず立ち上がって深々とアンドレに礼をした。
「あ、あり難うございます」
事実アンドレの魔力は、上級魔法士長並みとまでは行かなくても国軍の魔法士長レベルには十分に達していた。これは小さな貴族家の領軍では滅多にないことだった。それを聞いてからアンドレはアルティーノを酒保に誘ったのだ。
「今、ここに居るカジェッロからの兵達も皆、若に付いていくと思います」
ベニティアーノに援軍を出すとき、カジェッロ家当主のマークス・カジェッロは次男、三男以下の死んでも家の存続に支障の無い兵を選んだ。つまり、彼らがアンドレについてもカジェッロ領の彼らの家は続くのだ。新興でも勢いのあるジン家との繋がりのあるアンドレを置いて、元のカジェッロ領へ帰るはずもなかった。
僅かグラス2杯のクヴァ酒を飲んだだけで潰れてしまったアルティーノに肩を貸して宿舎まで運んでいるときに、アンドレはアルティーノが言った言葉を想い出していた。
『いったい閣下は何者なんです?』
アリサベル師団の団員はレフを閣下と呼んでいる。イクルシーブ中将と紛らわしいため名前の下に敬称を付けるのが普通だったが、この場合名前を省いても誰を指すのかは明らかだった。質問ではなく自問だろうと先を促すと、
『真っ暗な道を俺がやっとついて行けるスピードで走るんですよ。道の様子も付いて走る俺やコーディウス様の様子も全部分かっているんです、あの暗さで』
『そんなことくらい分かっていただろう、アリサベル師団、特にレフ支隊は散々夜襲の訓練をしたんだからな』
『そ、それはそうですが、明かりもないのにあんな速度は、は、反則ですよ。ヒ、ヒック』
そこまで言ってアルティーノは卓に突っ伏してしまった。
真夜中に僅かな明かりの下で行軍し、戦闘隊形を組み、突撃する、という訓練はアリサベル師団の名物だった。声も上げずに闇の中で1個師団が統制の取れた動きをする。それまでの常識では考えられないことだった。アンドレはレフ支隊の中にいた。その実力を嫌と言うほど知っていた。
――レフはフェリケリウスの一門に属する。つまり本来なら帝国側の人間だ。それが何故か
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