第134話 ディアステネスとダスティオス
部屋の扉が開く音がしたとき男はちらっとそちらに目を遣ったが直ぐに元の姿勢――目を伏せて前屈みにソファに座っている――に戻った。少し草臥れた、それでも仕立ての良いことが分かる軍服に似合わないだらしない姿勢だった。部屋に入ってきた人間が自分の前に座ったときやっと顔を上げた。
「久しぶりだな」
と声をかけられて、
「ああ」
と返した声も覇気が無かった。
「元気そう……、でもないか。しかし怪我もなくて何よりだ、ダスティオス上将」
「いっそ動けないほどの大けがでもしていれば、と思うぞ。そうすればこんな役割は他人に回っただろうからな」
「やはり何か命じられたのか?王国軍に」
「貴下がレクドラムの勝利の後レアード王子に対してやったことと同じだ。ディアステネス上将」
そう言われてディアステネス上将は少し眉をひそめた。短い沈黙の後、
「講和条件の提示か?」
「そうだ」
ダスティオス上将は傍らに置いた革製の書類鞄にちらっと目を遣った。
「直接陛下に渡せと言われた」
「そうか、だが内容は知っているのだろう?」
「ああ、トレヴァス中将がご丁寧に説明してくれたよ。貴下がやったことを聞いたときは快哉を叫んだものがやられる立場になると嫌なものだな」
その日の朝、ルルギア近郊の将校用の捕虜収容所から、副官共々国境近くまで連れてこられて釈放されたのだ。捕虜収容所から出る前にわざわざトレヴァス中将がやってきて書類鞄を手渡して説明していった。ダスティオス上将に拒否するという選択肢はなかった。
『くそっ、珍しく軍服の洗濯なんか言ってきたはずだ』
捕虜になって以来着っぱなしの軍服だった。上将が普通着るようなきらびやかな軍服ではない(一目で高級将校と分かるような服は避けろとディアステネス上将からの通達を守っていた)が、一般兵が着るような物とは違う、仕立ての良い軍服だった。時々副官が洗濯していたが、王国軍の方から言われたのは初めてだった。ぴしっと折り目が付いて戻ってきたときには多少は感激したものだ。上将を帝国へ返すに当たって、きちんと待遇していたことを示したかったのだろう。
「で、どんな内容なんだ?」
「取りあえず現在占めている地点で休戦だ」
「と言うことは、東は以前のままアトレとルルギアで睨み合い、西はシュワービスを取られたまま、ということだな。しかし領土要求はしないのか?」
「それは私も確かめた。元帝国領などと言う面倒くさい領土は要らないそうだ」
「ふむ、他の要求が厳しそうだな」
「そうだな。双方の捕虜の釈放も要求された」
「まあ当然だな」
「王国人の捕虜は無条件釈放、帝国人の捕虜は身代金を寄越せ、とのことだ」
「ほう、それは……」
ディアステネス上将は口を閉じてゆっくり首を振った。帝国人の捕虜――何人いるのか帝国側では正確な数字は分からない。戦場が王国内であったから、帝国が押さえている王国人捕虜より多いことは想像できる。2万人前後ではないか――ファルコス上級魔法士長がそう推定していたことがあった。
「代わりに賠償金や貢納金は求めないと言っていた」
「なるほど、戦を仕掛けたのは
「だが、賠償金という名が付いてないだけで実質賠償金だろう。それに帝国だけが身代金を払う、外から見たら帝国の負けで戦争が終わったと見えるだろう」
「この戦は負けだ。魔器が使えなくなって、王国の魔法レベルが
そう言い切ったディアステネス上将を驚いたような顔でダスティオス上将が見た。
しばらく互いに見合った後で、
「また随分と割り切るものだな、ディアステネス。まったく、貴下がテルジエス平原を席巻し、アンジエーム市街と王宮を手にし、
「じゃあ貴下には何か戦局をひっくり返す方法があるのか?ダスティオス」
「これ以上抵抗しても戦況は変わらないぞ、ダスティオス。帝国軍がやせ細っていくだけだ」
「しかし、しかし帝国領内でならあのような一方的な戦にはならない。
「消耗戦をやるつもりか?
――こんな条件を出してきたというのは、負け戦の損害を最小化する理性が帝国にあるかどうか見ているのだろう。レフ・バステアの意思か?いや未だ若造と言って良いレフ・バステアにそんなことが出来るとは思えない。自分の受けた仕打ちへの仕返しを考えるのが普通だ。誰か老練な他の人間だろう――
「分かっている、分かっているが、……ラヴェト陛下は分かってくださるだろうか?」
「亡国の皇帝、などと言われたくはないだろうから、説得するしかないな」
「俺にできるか?」
「貴下にできなければ誰にもできまい」
「説得に失敗したら……?」
「失敗したら、帝国が滅ぶ。おそらく
――この機会を逃せば本当に帝国は滅びかねない。皇帝のために帝国があるのではない、帝国のために皇帝が居るのだ。ダスティオスに説得できなければ……――
「まっ、ラヴェト帝もガイウス大帝の血筋をひいているお方だ。自分で始めた戦争ではないのだから始末を付ける事くらいおできになるはずだ、俺はそう思っている」
心にもないこと誠心誠意言っているように見せかけるのも帝国軍の中で生き残るための処世術だった。上級貴族の出で、その才能もあって比較的順当に出世してきたダスティオス上将には必要の無いことだった。なにしろ10歳近くディアステネス上将より若いのだ。
「貴下のように私もそう信じることができればな……」
ダスティオス上将の認識では軍の最高幹部と言えど皇帝の統治機構の一員に過ぎない。それを
ディアステネス上将の基盤は軍にあった。軍だけに、といっても良い。下級とはいえ貴族の出であったから任官した時から士官ではあったが、上将まで上り詰めたのはその軍才の故だった。それだけ人物評価が厳しい。前帝のガイウス7世はディアステネス上将にとって合格点を出せる指導者だった。軍への理解もあった。しかしラヴェト帝は今のところディアステネス上将の期待に応えてない。国を成り立たせるためには軍の存在が不可欠――ひょっとしたら取り替えのきく皇帝よりも重要――とディアステネス上将は考えていた。
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