第120話 急転 2
廊下の向こうからドタドタという足音が聞こえてきた。皇宮の中、しかも本来皇帝のプライベートゾーンだ、音を立てて歩くなど無神経きわまる。カルロ・ルファイエにはこんなことをする人間に心当たりがあった。足音の方に視線をやると、案の定大男がフーフー言いながら廊下の角から現れて、早足で歩いてくるのが見えた。額の汗を盛んに手巾で拭っている。仕立てのいい体に合った服を着ているはずだが、何故か着崩れてだらしなく見える男だった。
――ルゾフ・フェリケリウス・ロクスベア。相変わらずうるさい男だ――
ルゾフ・ロクスベアは近づくと、ちらっとカルロ・ルファイエを見て、すぐにロテンシジール下将に向かい合った。肩で息をしながら周囲の物々しい雰囲気に戸惑いの表情を見せていた。
――礼儀を無視するのも相変わらずか、それが自分の権威だと思っている――
「どうなっているんだ?陛下が倒れられたと連絡があったが」
ルゾフ・フェリケリウス・ロクスベアはガイウス7世の実弟だった。ガイウス7世はロクスベア家の出身で、ルゾフはそのロクスベア家の当主を務めていた。ガイウス7世と同じくらいの長身だったが、ガイウス7世の鍛えられた体躯とは比べようもなく贅肉が付いていた。二重顎の先から汗がしたたり落ちて、汗で髪の毛が額に張り付いている。走ってきたわけでもないのに息が切れている。日頃の怠惰を表していた。
魔力もガイウス7世と血縁にあるとは思えないほど貧弱なものだった。しかしガイウス7世はこの弟を可愛がっており、ルゾフ・ロクスベアはガイウス7世を後ろ盾に皇宮内で権勢を振るっていた。
ロテンシジール下将は姿勢を正して、
「陛下は5日前に皇宮に侵入した賊と闘われ、手傷を負われました。いま寝室の方で伏せっておられます」
「なんだと!?賊が皇宮に侵入しただと、それに陛下が傷ついておられるなど、今まで聞いておらんぞ!どういうことだ!?」
顔を赤くして思わず大声を出した。
「で、殿下、どうかお静かに、陛下のお体に障ります」
ルゾフ・ロクスベアは医官に宥められて慌てて手で口を押させた。
「で、陛下のご容態は?」
ロテンシジール下将と医官が目を合わせた。ロテンシジール下将が頷いた。医官がルゾフに向かって、
「ご病室に案内いたします。くれぐれも大声をお出しにならないようにお願いします」
ルゾフ・ロクスベアは医官に案内されて病室に入る前に振り返ってカルロ・ルファイエを見た。チッという舌打ちがカルロにまで聞こえた。敢えて聞かせるために舌打ちをしたと言って良かった。皇家の当主同士だから当然の礼儀があるはずだったが、ガイウス7世が即位したときから少しずつ他の皇家の人間にぞんざいな態度を取るようになり、最近はあからさまに見下すようになっていた。ガイウス7世の面前ではさすがに取り繕っていたが、その目の届かないところでの態度は鼻つまみものになっていた。
――皇家をとりまとめなければならぬ。最終意志決定者を欠いたままでは帝国は運営できない。まして今はアンジェラルド王国との戦争中なのだ。一刻も早く立て直さなければ。ロクスベアはもう計算外だ。残り6家、特にフィラール・ブライスラ、ガリエラ・スロトリーク、ラヴェト・テルミカートとは慎重な打ち合わせが必要だな――
この3人は、ガイウス7世が前帝によって後継者として指名される前に、カルロ・ルファイエとともに後継者候補だった者達だ。普段は皇都に居ることが多いが、戦況が帝国に不利に傾いてからは自領の防衛力を固めるために戻っている。知らせを受けたら2~3日でフェリコールに来るだろう。
病室に入ったルゾフはガイウス7世の状態に目を見張った。部屋は薄暗かったが、ベッドの上で呻吟しているガイウス7世は絶えず譫言を呟き、苦しそうに身をよじっている。ベッドは医官、看護官が処置をやりやすくするために、通常使用されているベッドより幅の狭いものに取り替えられていた。そのベッドを囲んだ数人の看護官が懸命に体を拭き、風を送っていた。
「陛下!!」
思わず出した大声にガイウス7世がビクンと身を逸らした。慌てて医官がルゾフの袖を引っ張った。
「殿下、大声はお控えください」
ルゾフがむっとした様子を見せたが、さすがに怒鳴りつけるようなことはなかった。
「大きな音や明るすぎる光に敏感に反応されます」
「どういうことだ、これは?」
「腸管の傷から毒が全身に回っております」
「腸管の傷……」
ルゾフは改めてガイウス7世の様子をよく見た。体を拭くために殆ど裸だったが腹に巻かれた包帯に血がにじんでいた。思わずよろめきそうになった。ロクスベア家はガイウス7世一人が突出している。その支えを失ったら発言力は大幅に低下する。ルゾフにもそれは分かっていた。他の皇家が陰でどんなことを言っているか、ルゾフにもよく分かっていた。それが尚のことルゾフの態度を尊大にさせていたのだ。
しばらく大きな息をつきながらガイウス7世を見ていたが、
「くそっ!」
唇を噛むと背中を見せて病室を出て行った。ロテンシジール下将が外で待っていた。
「ロテンシジール!」
「はい」
「
「医官はもはや神のご加護を祈るしかないと……」
「役立たずめ!高給を食んでおきながら、肝心の時に……。それにロテンシジール、私より先にルファイエの
「とんでもございません、皇家の当主の方々には同時に報せをお送りいたしました。カルロ殿下は偶々皇宮におられたようです」
「私より先に駆けつけて、今頃はいろいろ……」
「殿下?」
「ええい、ルファイエなどに出し抜かれてなるものか」
ルゾフ・ロクスベアはギロリとロテンシジール下将を睨んだ。
「近衛も身の振り方を誤らないように気をつけることだな」
「ご忠告、痛み入ります」
表向き近衛は政治に関わらない建前になっていた。彼らの任務は皇帝と、皇家の主立ったメンバーの護衛だった。皇帝の身近にいる分だけ影響力を持っている様にも見えたが、ロテンシジールは用心深く一歩身を引いていた。富と名声は十分に得ている。この上政治的影響力まではいらない。妙に影響力を持つようになった近衛司令官が、皇帝の交代後どんな運命を辿ったか、歴史が教えてくれる。
ルゾフにことさら丁寧な態度を取っているのはガイウス7世の存在有ってこそのことだった。この時点ではロテンシジール下将にはガイウス7世の後継争いに首を突っ込むつもりはなかった。
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