第117話 侵攻 7
イクルシーブ中将は侵攻軍の司令部をテストールに置いていた。帝国側の峠口に臨時に作られた砦よりも居心地が良かったからだ。住民が皆逃げ出した街は、空き家ばかりで自由に徴発でき、しっかりと建てられた家は峠口のバラックより快適だった。
皆が忙しく立ち回っている司令部の中で、少し俯き加減に通心していたグリマルディ上級魔法士長が立ち上がって一番奥にいるイクルシーブ中将の元へ歩いて行った。
「閣下」
呼びかけられてイクルシーブ中将は書類から目を上げた。何だ?と表情で促した。
「
「そうか」
想定していた事態の一つだった。正規軍を、侵攻した王国軍にぶつけてくる。レフ支隊が帝国領深く突出しているから、その退き口を扼してしまえば袋のネズミになる。
「規模は?」
「未だ遠いためはっきりしませんが、1個師団前後かと」
テストールの外周に魔法士を配置して探知網を形成してある。峠から下りてすぐの峠口より、平地の中にあるテストールの方が全周囲探知網を作りやすい。これもテストールに司令部を置いた理由だ。敵地にいるのだ、油断できるものではない。
グリマルディ上級魔法士長がまた俯いた。すぐに顔を上げて、
「魔法士長クラスに改めて探知させました」
「それで?」
「増強師団です、12,000ほどいるようです。騎馬のスピードでこちらへ向かっています。今夕には接触する可能性が大きいと」
「今夕か。そのまま攻めてくるかな?」
「敵の主力は騎馬です。1日駆けてそのまま戦闘は無理でしょう。それに
夜戦を苦にしないのはレフ支隊だけだ。レフの作った灯火の魔器の僅かな明かりだけで動けるように訓練されている。王国軍でもレフ支隊と比べれば夜戦は得意ではない。アリサベル師団はレフ支隊に刺激されて夜戦の訓練をしている。イクルシーブ中将が、闇の中で僅かな明かりを頼りにスムーズに動くレフ支隊の訓練を見て、アリサベル師団全体をその水準に引き上げたいと考えたからだ。
帝国軍はテストール近くまで今日中に来て、一晩野営して明日襲ってくるつもりだろう。兵の疲弊を考えてもその方が合理的だ。テストールにいる王国軍は4,000、
「よし、峠口まで撤退しよう。土産を置いていくのを忘れるな」
峠口に帝国軍が作った砦は修理して王国軍が使っている。防御正面は真反対になったが、一から作るよりは時間も手間も節約になる。
この情報はすぐにレフ支隊にも伝えられた。
イクルシーブ中将の報告とほぼ同時にシエンヌからも帝国軍を探知したと報告が来た。シエンヌの探知距離ギリギリだった。
「あと10里も近づいてくれば詳細が分かると思います」
もう少しこの場所に留まって索敵を続けたいとシエンヌが言った。10里、騎馬なら半刻足らずで駆け抜ける距離だ。その分シエンヌと敵の距離が近くなる。
「危なくはないか」
「大丈夫です。騎馬でも半日の距離があります」
帝国軍が先行偵察を出しているという可能性も考えられる。後ろの大部隊の気配に隠れて数個中隊の先行偵察隊を見逃すこともあり得る。シエンヌに限ってとは思うが多少の心配は残る。気配を抑える事の出来る軍もあるのだ、レフ支隊のように。
「
シエンヌはもう少しその位置に留まって探知をしたいと重ねて言った。単に帝国軍が近づいているという情報よりも、その規模、編成、進軍速度などを知った方が作戦が立てやすい。
「分かった。あと半刻だけそこに留まって探れ」
「了解」
側で聞いていたアニエスがクスリと笑った。アニエスは、通心の能力はなかったが魔器を通して、レフ、シエンヌ、ジェシカ、それにアリサベル王女の通心を聞くことはできるようになっていた。
「レフ様も過保護ですね、シエンヌには」
軽く睨み付けるようにアニエスがそう言った。
「別にそういう訳ではないぞ、部下の心配をするのは当然だろう」
「単なる心配には聞こえないんですけれど。まるでお使いに出した子供が無事帰ってくるかどうか心配している父親のようでしたよ」
「そ、そんな事はない」
「いざとなればシエンヌは転移で帰ってくることができるではありませんか」
当然のように転移の魔器を進路に設置してある。それを使えば帝国軍に追いつかれることはない。
「いや、それは不味い。護衛の中隊を置いてくることになる。我々だけがいつも安全に逃げることができるなどと一般兵に知られるのは士気に関わる」
「そうですね、いざとなったら見捨てられると思えば兵達もいい気はしないでしょうから」
横からジェシカが口を挟んだ。
「さっ、シエンヌが合流すれば我々も峠口に引き返すぞ。準備を始めろ」
あからさまに話題を変えてレフがそれ以上の議論を終わらせた。
ここから時間の勝負だ。レフ軍が峠口に着く頃にはイクルシーブ中将と帝国軍がそこで睨み合っているだろう。レフ軍がアリサベル師団主力と協力して帝国軍第一師団を挟み撃ちにするか、レフ軍の背後から帝国軍帝都師団が襲いかかって第一師団との間で挟み撃ちになるか、の瀬戸際だ。
勝敗がタイミングに掛かっている。帝都師団がレフ軍に追いつくより先に帝国軍第一師団を排除しなければならない。
シエンヌはさらに半刻、帝国軍の探知を続けた。規模は1個師団、全員が騎馬で補給物資を運ぶ馬車はあきれるほど少ない。いくら自分の国の中を動くと言っても、この量ではすぐに食料などが尽きて徴発をしなければならないと思わせた。
「
補給物資無しでは闘えない。シエンヌの報告通りだと、デポを失うことは帝国軍にとって大きな痛手のはずだ。
「手間取るな、半刻だけだぞ」
「はい」
半刻もあれば充分だ。シエンヌは振り返って、
「聞いていました?タントルーデ百人長」
通心の魔器を外部発声にしていた。周囲にいる百人長や魔法士に聞かせるためだ。
「はい、守備しているのはたかが2個小隊です。小半刻もあれば殲滅できます」
「敵兵の殲滅はいらないわ。逃げるようだったら放っておきなさい。それより補給物資を念入りに燃やすことよ」
「畏まりました」
タントルーデ百人長は敬礼して自分の中隊の方へ駆けていった。既に天幕はたたまれ、荷はまとめられて、いつでも出発できるようになっていた。
「中隊、出発!」
単に偵察任務の護衛だけでなく、物資集積所の襲撃という任務にタントルーデ中隊は勇躍していた。これまでもレフ支隊に属しているから、他のアリサベル師団の中隊よりも働く場面は多い。しかしレフ支隊の中ではごく目立たない中隊でしかなかった。それがシエンヌの護衛に抜擢されて、さらに大きな軍功を立てる機会を得た。中隊員が張り切らないはずがなかった。
「敵を深追いしてはなりません。物資を破壊するのが一番です」
とシエンヌが釘を刺すほどに。
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