第116話 ジルベール幼王

「アリサベル姉様」


 呼ばれて王女は書類から目を上げた。王女をこんな風に呼ぶのは一人しかいない。声にも覚えがあった。案の定、目の前に元帥服を着用したジルベール1世が姿勢良く立っていた。

 未だ成長しきっていない少年の体に華麗な元帥服は重すぎるように見える。金で作られた階級章が襟元でキラキラと光っている。戦争中と言うこともあって王は公的な場では元帥服を着用することになっていた。元帥に昇格できるのは王族だけと決まっている。

 執務室の入り口にジルベール王に付いてきた王府の文官が一人、護衛兵が二人立っていた。彼らは許可なく王女の執務室に入ることを許されていない。そして今まで入室を許可されたことはない。


「陛下」


 アリサベル王女がにっこり笑って立ち上がった。このところ三日に上げずジルベール1世が王女府のアリサベル副王執務室を訪れていた。


「お忙しいのですか、アリサベル姉様」

「いいえ、丁度休憩を取ろうかと思っていたところです。お茶に致しますが召し上がりますか、陛下?」

「はい、丁度そんな時間だろうと思って訪ねました」


 後ろに控えている文官が無表情に二人の会話を聞いている。宰相府から王府へ出向している文官は王の執務を助けるだけではなく、王の行動を宰相に報告する義務も負っていた。オルダルジェ宰相はジルベール王とアリサベル王女が余り親しくなるのを好まない。できるだけ切り離して別々に宰相府の見解を多少ニュアンスを変えて伝えたかったのだ。しかし文官には王の行動を制限する権限などはない。王が王女府を訪れると決めれば従うしかない。尤も彼がいなかったら、ジルベール王の王女府訪問は毎日になったかも知れない。ジルベール王がアリサベル王女府を訪れることを,

彼が、ひいては宰相府が決して歓迎していないことは言葉に出さなくても分かる。"奥”で長年暮らしてきた幼王は大人の気配に敏感だった。尤も、察した気配を忖度するかどうかは別の問題だった。

 アリサベル王女にはジルベール王の訪問を拒む理由がなかった。王と副王が親しくしていることを周りに見せるのは、一部の利害関係者以外にとっては歓迎すべきことだった。それにジルベール王は、執務上の疑問を宰相府から派遣された官僚に訊くよりもアリサベル王女に訊く方を好んだ。これもオルダルジェ宰相が顔をしかめる原因の一つだった。しかしジルベール王も、王の生母のベアトリス妃も、継承順位の低かった王を殆ど無視していた宰相府に良い印象を持ってはいなかった。ベアトリス妃は、かって”奥“で孤独だったアリサベル王女に、特別な好意は示さないまでも公平に接していた。マルガレーテ王妃の様にあからさまな嫌悪を表さなかったと言うだけでも、王妃の取り巻き達とは異なる印象を与えるものだ。それだけでも王女にとってはジルベール王を歓迎する理由になった。


「ロクサーヌ、お茶の用意を命じてください。陛下がいらっしゃることもきちんと伝えて」


 アリサベル王女がお茶の支度を命じるのを聞いて、ジルベール王は執務室に備えてあるソファに腰を下ろした。そして鞄からごそごそと何枚かの書類を取り出した。訊きたいことがあるのだろう。さすがに用事もないのに王女府に来るのは文官の手前遣りにくかった。


「私も座っても?」

「どうぞ、坐ってください、アリサベル姉様」


 王女が向かい合わせに座ると間を置かず、侍女達がティーポット、カップ、お茶菓子を持ってきてソファの前の机に置いた。菓子は干した果物に砂糖をまぶしたものだった。未だ成人していない王は甘いものを好んだ。

 ジルベール王が持ってきた書類をアリサベル王女の方へ押しやって、優雅な手つきでカップを手に取った。


「これは?」


 ディセンティアの処分を決めた書類だった。既に王の署名が入っているが、王の手元に行くまでに随分時間が掛かったようだ。宰相府で止められていたのだろう。


「寛大な処置に母も感謝しています」


 王の生母ベアトリス妃はディセンティア一門の出だった。


「でも宰相府では寛大すぎるのではないかと言う意見もあるようです。法を余り緩めると王国のたがが外れるのではないかと」


 下級士官と兵に恩赦を与えたことが宰相府で議論になっている、と言う情報は王女府にも聞こえていた。文官が必死に無表情を維持した。それを王に言ったのは宰相自身だった。王に対して、副王の行動に宰相府必ずしも納得しているわけではないと伝えたかったのだろう。


「法の解釈の範囲内であると考えています、陛下。それに今ディセンティアの力を弱めるのは、増して解体するなど利敵行為ですわ。帝国との戦争の決着がまだ付いていませんもの」

「でもディセンティアの領軍を他の、例えばエンセンテの領軍に組み込めば戦力は変わらないのではないですか?」

「そんなことをしては士気が保てません、陛下。根を絶たれた領軍など烏合の衆です」


 文官に聞かせる意味もあった。懸命に無表情を保とうとしている口元がピクピク動いている。


「アリサベル姉様の仰ることはよく分かります。でも、姉様がディセンティアを取り込むために、拡大解釈で緩くしたんだという向きもあると言うことですが……」

「まあ、そんな事まで陛下の耳に入るのですか?」


 ジルベール王はちらっと文官の方に目を遣り、


「いえ、廊下を歩いているときに扉が開いたままの部屋からたまたま聞こえてきたことです」


 文官の背を汗が滴り落ちた。


 王女は、王にだけ見えるように小さく舌を出した。


「まあ、心外ですわ、陛下。これでも王国のことを第一に考えていますのに」


 ジルベール王はわずかに口角を上げた。11歳とは思えないような大人びた顔になった。


「ええ、よく分かっています。アリサベル姉様がいなければ今頃アンジエーム王宮のぬしはガイウス7世だったでしょうから」


 ジルベール王が王女の執務室をぐるりと見回した。


「所で今日は、レフ卿はいないのですか?」


 これまでは、ジルベール王が来たときには王女の執務を手伝うようにいつも側にレフがいた。アリサベル師団は実質レフ師団だと言われているようにいつもついでいるものだと思っていた。


――アリサベル様はレフ卿に首っ丈だから――


 笑いながら、どこか羨ましそうに母――ベアトリス妃――が言ったのをジルベール王は聞いたことがあった。高位貴族や王族の女が好きになった人と結ばれることなど滅多にない。おとぎ話の類だ。ベアトリス妃もマルガレーテ王妃が権勢を振るう"奥”に来るのは気が進まなかったものだ。そんな事を口に出すこともできなかったが。父もベアトリス妃の意志を聞くことさえしなかった。


「ええ、レフはレクドラムに帰りました」

「レクドラム、……アリサベル姉様の領を整備するためにですか?」

「はい、それもあります。シュワービス峠の管理もありますし」


 アリサベル王女が化粧料としてもらったテルジエス平原の北半分は広い。北三分の一だったのを、ジルベール王の裁量で広げたのだ。エンセンテ一門や宰相府からの抵抗はあったが王が押し切った。ジルベール王が自分の意志を押し通した最初の事案だった。帝国軍の侵攻で荒れたままの土地も多い。また豊かな沃野に戻すのは大変だろうな、地図でしか知らない土地だったが、ジルベール王はそう思ったのだ。

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