第114話 王女府
ゾルディウス王の死去から葬儀まで王国の政治はほぼ麻痺していた。王の死後10日も経って、さて日常業務に復帰しようとして、行政、司法、立法の最終意志決定権者の不在に初めて気づいた。王の不在、という事態は想定外だったからだ。普通なら王が死去、あるいは引退したときには間を置かず第一継承権者が後を襲う。だが今はその第一継承権者も不在だった。
それでも
候補は3人しかいなかった。ジルベール王子は幼すぎた。未だ成人にも達していない。それに周りの人材が薄すぎた。宰相府から人を派遣して王府を開いたりしたら、宰相の操り人形ではないかという批判は免れない。王弟のルクルス殿下はそう言う話が出ると逃げ回っていた。もう何十年も充分な年金をもらって別荘暮らしを続けていて、今更政治の表舞台で忙しい思いをするつもりはなかった。趣味の音楽に費やす時間がなくなる。彼自身も幾種類かの楽器を弾きこなしたし、周りに音楽家を集めて演奏会を催していた。彼のサロンに招かれることは音楽を趣味とする貴族にとってはステータスでもあった。
結局アリサベル王女が臨時ではあっても最終意志決定権者になるしかなかったのだ。オルダルジェ宰相に要請されて王女は承諾した。王宮内にアリサベル王女府を開いて政務を執り始めた。その事実は徐々に王国民に知られることになり、後にアリサベル王女府は一部では女王府と呼ばれるようになった。
アンジェラルド王宮は巨大な建物だ。幅の広い階段を10段上って正面玄関に着く。両開きの、アンジェラルド王室の紋章を付けた大きな扉をくぐって入ると5ファルの幅の廊下があり、正面に同じくらいの大きさの内扉がある。紋章は帝国が占領したときに外され壊されたが、王国が王宮を取り戻したときに新しく付けたものだ。廊下を右に行けば右宮、左に行けば左宮に行く。正面の内扉を開ければ大きな、天井の高いホールがある。ホールでは王室主催の晩餐会や舞踏会が開かれる。内扉から真正面50ファルの距離に階段があり、25段上って中2階になる。中2階には王宮親衛隊の本部があり、そこを突っ切ると”奥“への通路がある。
さらに25段上ると2階で、広大な2階は宰相府が占めている。宰相府の上、3階に王府があり、王府からも”奥”に行くことができる。
右宮と左宮は本宮と比べると小さいが、大貴族の館くらいの大きさはあった。右宮は成人した王族男子の住まいであり、左宮は王宮内に部屋を持つことを許された貴族達のためのスペースになっていた。以前は3大貴族と称されるエンセンテ、アルマニウス、ディセンティアが同じくらいのスペースをもらっていたが、ディアドゥがエンセンテ宗家の当主となってからエンセンテのスペースを増やしていき、左宮の半分近くをエンセンテが占拠するようになっていた。ディアドゥ・エンセンテが戦死し、エンセンテ一門の勢いが大きく殺がれたあとも、名目上はエンセンテのためのスペースであったが人も少なく閑散としていた。
アリサベル王女は本宮ではなく、この左宮のエンセンテ一門が占めていた一角に王女府を構えたのだ。
ダグリス・ディセンティアは王女府に呼ばれていた。彼はゾルディウス王の死去以来、ディセンティアに対する風当たりが和らいでいるのを感じていた。ゾルディウス王の葬儀に彼の代理人一人に限られたにせよ出席を許されたし、エスカーディアの宗主館に軟禁されているのは変わらなかったが面会の制限が緩くなっていた。館にいる監視兵の長が同席するが、面会を希望する者にはほぼ許可が出たのだ。エスカーディアからアンジェラルドまでの道もディセンティアの武装護衛1個中隊を付けることを認められたし、アンジェラルドの市門も武装したまま通ることができた。さすがに王女府へは武装兵の同行は認められなかったが、迎えに来た1個小隊の国軍の扱いも丁重なものだった。
ダグリス・ディセンティアが、護衛兵が開けた扉を抜けて王女の執務室に入ったとき、書類の山と格闘していた王女がちらっと目を上げて僅かに口元をほころばせたことに気づいた。
「一区切り終わるまで待ってください」
王女が再び書類に目を落としたことを幸いに、ダグリス卿は部屋の中を見回した。部屋の中にいるのは、グリツモア海軍上将、マクナーブ中将(ガストラニーブ上将の後をついで第3軍の指揮を執ると言うことだからすぐに上将に昇進するだろう)、イクルシーブ下将(もうすぐ中将に昇進すると聞いた)、カデルフ・アルマニウス・ハーディウス(アルマニウス宗家の当主だ)、コスタ・ベニティアーノ(アルマニウス一門の出だが、アリサベル師団の幹部と聞いている)、それに初対面になる若い小柄な男(これが多分レフ・バステアだろう)、アリサベル王女が軍の重鎮とアルマニウス一門を抑えていることを示すメンバーだった。執務室にいつもこれだけの人間がいるとも思えないから自分を呼ぶに当たって集まったのだろう。陸軍も海軍も巨大組織だ。共に連絡事務所を王女府に置いたと聞いた。宰相府にすらそんなことはしなかったのに、国軍がどれほどアリサベル王女を重視しているか示唆している。
アリサベル王女が目を通していた書類に署名してダグリス・ディセンティアに視線を向けた。ダグリス・ディセンティアは姿勢を正した。
「元気そうで、何よりです。ダグリス卿」
「殿下のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます」
王女が立ち上がった。部屋にいた他の全員も立ち上がった。王女は机に置かれていた書類を手に取った。
「わざわざエスカーディアから来て貰ったのは、ディセンティアの反乱に対する処分が決まったからです。ルージェイ・ディセンティア・ハバルギィとガイル・ディセンティア・ダルグレースは死んでしまっているので欠席裁判になってしまいましたけれど」
“裏切り“ではなく、"反乱”という言葉を使ったことに気づいた。
「承ります」
王女は書類を両手に広げた。
「ルージェイ・ディセンティア・ハバルギィとガイル・ダルグレースは反乱の首謀者として死刑、ルーガ・ランチエールは終身刑に処します。他の反乱に加わった下級士官や兵については、アンカレーブにおけるディセンティア領軍の勇戦に鑑み、恩赦を与えます」
ダグリス・ディセンティアが最も楽観的に考えていた処分より軽かった。
――私の首一つで何とかなったようだ――
「ルーガ・ランチエールについても今後の戦いでのディセンティア領軍の働き次第で恩赦の対象となる可能性が有ります」
「温情ある判決、感謝申し上げます」
「次にダグリス卿、貴方のことですが……」
「いかような処分でもお受けいたします」
「ディセンティア一門の中に反乱の芽があったのに把握できず、結果として一門の力を大きく殺ぎました。これは見過ごすことのできない事実です」
「はい、お言葉の通りかと。お恥ずかしい次第であります」
「ダグリス卿には引退を勧めます。確かルージェイの弟がいましたね、年は離れているようですが」
「ミティアスと申します。14歳になります」
「成人していればディセンティア宗家の当主になれるでしょう。年若い分はダグリス卿、貴方が補佐すれば良いと思います」
私についても、首を要求するのではなく形だけの引退で済ますおつもりのようだ。勿論これだけの厚情がディセンティアに対する好意からのみ出ているとは考えられない。アリサベル王女は急速に力を付け、軍とアルマニウス一門の後ろ盾を得ているとは言え、王女に対する反発が特にエンセンテ一門、官僚団に大きいのは事実だ。少しでも基盤を固めたいという意識もあるだろう。しかし、思いもかけなかったような温情を戴いたことも事実だ。少なくとも10年、20年の単位でディセンティアはアリサベル王女の側に付く。
「最後にヌビアート諸島のことですが、戦がおわったらデルーシャ王国から取り上げるつもりです。王国を裏切ったのですから賠償を取らなければなりません。デルーシャから取り上げたヌビアート諸島は王家の直轄とします」
長く帰属を争っていたが敵に回れば遠慮はいらないと言うことか。さすがにディセンティアに渡すなどと言うことはない。
「海軍の基地を作る予定です」
ディセンティア領を挟んで両側に王国海軍が配置されることになる。仕方のないことだろう。
「ヌビアート諸島海域の詳細な海図を海軍に渡してください」
これも受け入れざるを得ない。
「承知いたしました」
告げるべきことを全て言ってしまって王女は笑顔を見せた。思わず惹き込まれてしまうような笑顔だった。
――この方にお会いするのは何年ぶりだろう?少女の頃から美貌を謳われていた方だがますます美しくなられたようだ――
「ところでダグリス卿、私の婚約者殿を紹介します。たしか初対面だと思うのですが」
王女の横にいた若い男が1歩前へ出た。
「レフ・バステア殿?」
「レフ・ジンと言います。母が新しい家名を立てましたので」
「そうですか、レフ・ジン殿、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
この男がレフ・バステア、いや、レフ・ジンか。アリサベル師団の戦果は殆どがこの男の力によるものだと聞いた。アリサベル師団に限らず最近の帝国に対する勝利はこの男によるところが大きい。見たところ小柄で特別な力があるようにも見えないが見かけで判断してはなるまい。王女の心を射止めているし、これからの王国の方向を決める大きな要素になる男だ。カデルフ・アルマニウスは無表情を保っている。おそらくディセンティアがアリサベル陣営で力を持つことを警戒している。今回の裏切りの代償は痛かった。アルマニウスとの差が開いてしまった。アルマニウス一門とも上手くやらなければなるまい。そのためには辞を低くすることも辞さない。
「この戦争で王国は大きく力を殺がれました。まず勝たなければなりませんが、その後の復興にもディセンティアの力は必要です。期待してます」
「微力ながら、一門の全力を挙げて殿下を支えることをお誓い申し上げます」
差し出された右手の甲に口を付けながらダグリス・ディセンティア・ハバルギィが言った。これ以降、ディセンティアはアリサベル王女を支える支柱の一つになったのだった。
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