第113話 暗闘 1
アリサベル王女はふっと目を覚ました。知らない人間の気配が”奥“に入ってきた。しかも、探知に害意を持った人間のざらついた感触がある。そう思った瞬間、完全に目が覚めた。時刻は日付が変わった頃合いだろう。
「ロクサーヌ」
王女の寝室の隅で仮眠を取っているロクサーヌを起こした。小さな声で1回名を呼んだだけでロクサーヌは目を覚ました。ゾルディウス王亡き後の有力後継者の一人となってから王女の護衛はそれ以前よりずっと厳重になっていた。国葬が身近に迫って、それまでの間が特に危険だと判断されていた。外からそんな事は分からなかったが。
「姫様」
「私に害意を持っている者が”奥“へ入ってきたわ。ジェシカを起こして」
頷いたロクサーヌが控え室の方へ行くのを見て、王女は起き上がって手早く夜着を着替えた。ロクサーヌがジェシカを連れて戻ってきた。
「来たのですね?」
念を押すようなジェシカの問いに、
「ええ、誰か"奥“へ入ってきたわ。この方角」
アリサベル王女が右手で右前方斜め下を指した。直ぐにジェシカも同じ方向に探知を飛ばした。3層下に複数の覚えのない気配があった。
「3……、いや4人」
一人、酷く気配が薄い。逆に一人、気配を全く隠すことのできてない者もいる。
「ええ、一人は知っているわ。妃殿下の侍女の一人よ」
酷く場違いな一人は、王女も何度か接したことのあるマルガレーテ王妃の侍女の一人だった。その侍女は3人から離れて王妃の部屋の方へ帰って行った。
「そうですか、害意を持った者を手引きしているのは、やはり妃殿下が……」
「手っ取り早い手段に出た、と言う訳ね」
「レフ様を呼ばなければ」
「ええ、お願いするわ」
表向き、"奥”におけるアリサベル王女の直衛はロクサーヌとジェシカの二人だった。親衛隊が厳重に警護しているから大丈夫だと言うわけだ。それでもジェシカだけはなんとか王女の側に置くことに成功した。
”奥“にしばらく滞在しなければならないことになって、ジェシカはアリサベル王女の自室を中心に探知結界の魔器を設置した。通常の通路を通る限り、それに引っかからずにアリサベル王女の部屋に近づくことはできない。探知結界はアリサベル王女の魔力パターンに合わせてある。ジェシカより"奥”の住民のことをよく知っているからだった。探知された人間が奥に普段から居る者かどうか見分けることができる。
ジェシカは懐から転移の魔器――迎門――を出した。軽く魔力を通すと魔器の表面の法陣紋様を淡い光が走る。それを床に置いた。そして一瞬、魔器全体が光ったかと思うと、魔器の上10デファルの空間にレフとアニエスが現れた。レフの左手にアニエスが両手でしがみついている。それを見たアリサベル王女とジェシカの口が不満そうに僅かに尖った。二人はすとんと床に降り立ち、アニエスが名残惜しそうにレフの腕を放し、床の魔器を取り上げてジェシカに返した。ジェシカが少し乱暴な手つきで魔器を回収した。
「マルガレーテ王妃が思いきったようだな」
転移してきて直ぐにレフは状況を把握した。張り巡らせた結界内にアリサベル王女に害意を持った者が3人いる。気配の消し方、体捌きを見れば、暗部の人間だと言うことが直ぐ分かる。
「はい」
返事をしたのは王女だった。
「ベニティアーノ卿が言った通りか、暗部を動かしている」
コスタ・ベニティアーノからの情報だった。暗部の長カルーバジタとディアドゥ・エンセンテは個人的に親しい間柄で、暗部の幹部にもエンセンテに近い者が多いと報せてきた。カルーバジタの母が病的な浪費家で多額の負債を残して死んだとき、ディアドゥが援助したのがきっかけだと言われていた。勿論こんなことを公にできるわけがないが、高位貴族の間では知る人ぞ知る話、であった。ディアドゥはカルーバジタ以外の暗部のメンバーにも誼を通じていて、暗部を取り込んでいるのが彼の大きな権力を裏から支えていた。個人的な繋がりは死んでしまえば終わりになるのが通常だったが、ディアドゥはマルガレーテ王妃にもカルーバジタとの繋がりをつけた。ディアドゥとカルーバジタの個人的な繋がりが暗部とエンセンテ一門の繋がりに変わっていた。ディアドゥ・エンセンテが他の貴族家に強い睨みをきかせるようになったのは、肥沃なテルジエス平原を押さえているのみならず暗部との親密な関係が大きな力を与えているせいでもあった。
暗部が敵に回る可能性が有るため、レフはジェシカをアリサベル王女の近くに配した。何かあったら直ぐにレフに通心が行く、男子禁制の"奥“でも転移を使えば簡単に侵入できる。ジェシカをアリサベルの側に置くと言うことはレフが直衛に付くと言うことと同義だった。
“奥“におけるアリサベル王女の部屋は、"奥”の外れに近い所にあった。王族の女として一応他の王族に比べることができるだけの広さを持った部屋だった。私室の扉を開けると広めの玄関ホールがある。そこに客を応接する椅子や机を置いている場合が多いが、アリサベル王女のそこはがらんとした空間だった。ここで暮らしていたときでも客を迎えることが少なかったし、数少ない訪問者はその奥の居間で応接したからだ。玄関ホールを抜けると居間に続く扉がある。王女の寝室は居間のさらに奥になる。主寝室の手前に控え室があって、ジェシカはそこで待機していた。
「まさかと思ったが、マルガレーテ王妃は本当にアリサベルを排除する気だな」
やれやれと言ったように王女を見ながらレフが首を振ってそう言った。
「私が王位に就けばドライゼール殿下の目はなくなりますから……。どんな手段を執っても阻止したい人たちはいると思います」
少し時を遡る。
カルーバジタにアリサベル王女の処理を命じられた3人は日付が変わる少し前になって、待機していた暗部専用の部屋を出た。王宮の建物の周りを、闇を拾いながら大きく回って“奥”に近づいて行った。
“奥”への正規の入り口は1カ所しかない。王が“奥”へ渡る入り口だった。しかし当然そこだけで用が足りるわけがない。使用人が出入りし、様々な物品が出入りする入り口が何カ所かある。しかし3人は正門にも側門にも近寄らなかった。
"奥“は王宮の南西に位置していて、西側は直ぐ近くまで面積は広くないが原生林に近い森が迫っていた。3人は王宮の外を大回りしてその森に入っていった。森は一見無秩序に木々が生えており歩きにくそうに見えるが、3人は暗がりの中で迷いもせずに王宮の一角にたどり着いた。地面から半ファルの高さの土台がありその上に王宮は建っている。3人のうちの1人がその土台に手をかけて身軽く体を持ち上げた。それを待っていたかのように王宮の壁の一部が高さ1ファル、幅半ファルの大きさで窪んで横に動いた。公にはできない入り口の一つだった。
男はするりと体を王宮内に滑り込ませた。残りの2人も続いた。内側からしか操作できないこの出入り口を開いたのは王妃の侍女の一人だった。黙って頭を下げている侍女を見ようともせず、3人の暗部の男達は”奥”の内部に入っていった。侍女は3人が遠ざかるのを確認して出入り口を閉めて王妃の間の方へ戻って行った。彼女が命じられたのは暗部の人間のために扉を開けることだけだったからだ。
もともとマルガレーテ王妃はアリサベル王女のことなど歯牙にもかけていなかった。大貴族の後ろ盾のない小娘など、適当なところへ嫁がせて利用すれば良いだけと思っていた。幸い母親に似て見目は良い。王の寵愛を受けている母親が生きている間は気をつけるべき存在であったが、母親の死後は単なる王族の女の一人に過ぎなくなった。ゾルディウス王の強い関心を引く存在でもなかった。
それが、自分がレアード王子を失った頃から急に名を上げてきた。帝国からの亡命貴族を籠絡してその力で軍功を立てた。妙に気に掛かる存在になったと思ったら、継承権を捨てて亡命貴族に嫁ぐという。化粧料は過大だと思ったが、それで自分の目の前から消えてくれればそれでいい、筈だった。それなのにドライゼール王太子が帝国の捕虜に――ガストラニーブの間抜けが!――なるなどという事態で急に次期王の最有力候補になった。エンセンテ宗家の花と育てられ、王の正妃に収まり、王太子を生んで育み、今まで叶わなかった望みはない。あんな小娘にしてやられるなんて我慢できるはずがない!
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