第107話 ルルギア放棄


 ガイウス7世がルルギアに避難してきて4日目の早朝、まだ暗いうちに帝国軍はルルギアを放棄して帝国への帰路についた。第2師団に、アンカレーヴを脱出できた9000人余の兵を加えた帝国軍は重い足取りで北へ向かった。3個師団規模の王国軍の追跡部隊が半日の距離に迫っていることが分かっていた。満身創痍の帝国軍では、その日の午前中にはルルギアに到達すると考えられる王国軍に、ルルギアでは抵抗できないと判定された。しかし国境を越えた帝国の街、アトレまで辿りつけばなんとかなる。アトレは対王国の最前線の一つだ。ルルギアほどの規模はないが、王国に向かって防壁が築かれており、籠城の用意もある。出動するように命じられた帝都師団をそこで待つこともできる。兵站を命じられたディアステネス上将もおっつけ来るはずだ。


 帝国内なら、自分たちのホームグラウンドなら、王国兵など蹴散らしてみせる。ガイウス7世を始めとする帝国兵はそう考えていた。


 通常よりも長い列になったのは、負傷兵と、出発ぎりぎりまでたどり着く兵を収容して、その疲れ切った兵達を荷車に乗せて運んでいるからだった。道の凸凹が直接体に響く荷車は決して乗り心地の良いものではなかったが、精も根も尽き果てた兵達は只ひたすら眠りこけていた。後方では油をまいて火を付けられたルルギアが派手に燃え上がっていた。

 ガイウス7世はルルギアから1里ほど離れた小高い丘の上を通るときに馬を止め、振り返ってしばらく燃えるルルギアを見ていた。自然に隊列全体がその場で静止した。じっとルルギアを見つめるガイウス7世の周りに人のいない空間ができた。ガイウス7世が首を振って遠ざけたのだ。直衛の近衛兵は遠巻きに周囲を警戒している。


「陛下」


 声をかけて近づいてきたのはドミティア皇女だった。しばらくと言うには長すぎる時間じっと止まっているガイウス7世に出発を促そうとして、思わず息を飲んだ。まだ暗いなかで、遠くの炎に照らされたガイウス7世の横顔がまるで憎悪の化身のように見えたのだ。その顔は無表情であったにもかかわらず。


「……ドミティアか」


 振り向いたガイウス7世の顔は、他人を峻拒する雰囲気が和らいでいた。


「はい、陛下。急ぎませんと。あの火を見て王国軍が野営地からの出発を早める可能性が有ると、アウレンティス下将が申しております」

「クトラミーブに先に行くように言え。余はもうしばらくあれを見ている」


 アウレンティス下将は近衛司令官だから、ガイウス7世から離れるわけにはいかない。残りの部隊を指揮するのは第1師団司令官クトラミーブ下将になる。負傷兵を運んでいる帝国軍の歩みは遅い。ガイウス7世が少々ここで時間を取っても、騎馬で行軍する近衛が追いつくのは直ぐだ。


 伝令が走っていって、ガラガラと車輪の音をさせて部隊が又動き出した。ガイウス7世が、そしてドミティア皇女と近衛兵が動いたのは部隊の最後尾が横を通り過ぎた後だった。ガイウス7世は王国軍の偵察部隊がルルギアに近づいているのを探知していた。本隊が着くにはまだ時間が掛かる。王国軍がルルギアでどのくらい時間を取るか分からないがまだ半日の距離はある。


――追跡に加わっているのか?レフ・バステア――


 ギリッと無表情のまま歯ぎしりをした。


――この戦役で帝国も王国も疲弊している。追跡している部隊をアトレでくい止めることができれば、両国ともしばらくは大規模な動員は無理だろう。それにしても、レフ・バステア、あの裏切り者さえいなければ今頃は大フェリケリア神聖帝国を再統一していたものを――


 ガイウス7世にとってはレフはあくまで帝国の裏切り者であった。国が個人を見捨てることがあっても、個人が国を見捨てることは――彼にとっては――あってはならないことだった。



 ルルギアは国境の街だ。ルルギアの北、帝国領との間に自由国境地帯が設けてある。帝国にも王国にも属さない荒れ地で、両国が直接国境を接しないための知恵だった。帝国にも王国にも属さない少数の人々が僅かな畑を耕し、メディザルナ山地で狩りをし、川で漁をしながら細々と生きている。帝国の国境の街であるアトレと王国の国境の街であるルルギアを結ぶ30里余りのラタルダ街道を通る商隊の邪魔をしなければ両国から放って置かれる人々だった。税も取らないが保護もしない。自由国境地帯と言いながら帝国も王国も相手が手を出さないかと監視し合っている場所だった。





 王国軍の追跡隊が出るのは遅れた。そもそもガストラニーブ上将には追跡隊を出すつもりはなかったのだ。アンカレーヴで勝ったとは言っても王国軍の総力を振り絞っての決戦だった。辛うじて勝ったが、王国軍の損害も少なくはなかった。だが帝国軍はほぼ壊滅状態に陥らせることができた。帝国軍に与えた損害を考えると、ルルギアを保持することさえ無理だろう。帝国内に引き上げるに違いないと思っていた。その後でゆっくり戦前の国境を回復すれば良い。これ以上戦を続けても王国の得るものは少ない。帝国から僅かな土地をぶんどってもその統治にすら手を焼くだろう。あの誇り高い帝国民—―ガイウス神聖帝の直属の民なのだ――のことを考えると、易々と王国の政に従うはずもない。まして帝国全体を支配できるなどとは考えられない。あとは軍ではなく政治の出番だ。戦の終わらせ方を考えるのは軍の仕事ではない。


 その目論見が崩れたのはドライゼール王太子の策動の所為だった。王太子が帝国軍を追跡することをしつこく言いだしたのだ。ガストラニーブ上将が消極的に抵抗するとゾルディウス王に直訴した。

 アンカレーヴの戦いでもドライゼール王太子には何の軍功もなかった。言わば只指をくわえてみているだけであった。


――又アリサベルとあの亡命帝国貴族が!――


 焦る必要など無かったのだ。ゾルディウス王には廃嫡する気などなかったのだから。しかし周囲の人間の、アリサベル王女とその婚約者である帝国亡命貴族を見る目が変わって行っていることくらいは、ゾルディウス王も気づいていた。”救国の英雄”と持ち上げている向きがあることも分かっていた。それが王国三大貴族家の一つであるアルマニウス一門で特に声高に言われているも問題だった。アルマニウス一門宗家の当主、カデルフ・アルマニウス・ハーディウスがかなりあからさまにアリサベル師団に肩入れしていることにゾルディウス王も気づいていた。アンカレーヴの東でアリサベル師団に助力したいと申し出たのもカデルフ・ハーディウスからだった。アリサベル師団の中枢にアルマニウス一門の出身者がいることも知っていた。そのコスタ・ベニティアーノが油断のならない事情通であることも暗部から知らされていた。

 この戦役で他の大貴族、エンセンテ一門は宗家当主を失い、ディセンティア一門は自滅してしまった。大貴族家の中で残ったのはアルマニウス一門だけと言っても良かった。そのアルマニウス一門がアリサベル師団を持ち上げている。その事実がゾルディウス王の判断に影響したのだろう、王はドライゼール王太子の要求を容れたのだ。

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