第88話 アリサベルの魔器

 アリサベル王女はうきうきした気分で掌の上の球形の魔器を見つめていた。レフから渡された物だった。


「転移の魔器です。ここに人差し指を当てて」


 なめらかな球面の一カ所だけ僅かに盛り上がった小さな突起があった。


「ここから魔力を流して、この魔導銀線を光らせてください。そうすれば起動します」


 突起が北極だとすれば、光らせるように示された魔導銀線は赤道上にあった。球面をぐるりと一周していた。


「殿下の魔力パターンに合わせてあります。大きな魔力は必要ありません」


 さらに説明を続けようとしたレフに、


「あの……。殿下は止めてください。アリサベルと呼んで頂けると……」


 魔器の使い方をレクチャーしているときに見当違いのことを言われてレフは戸惑った。


「……アリサベル様?」

「敬称は無しで」


 疑問符も取って欲しかった。


「それでは周りに示しが付かなくなるかも知れませんが」

「レフは私の夫君になるのです。構わないではありませんか」

「それでは、……アリサベル」

「はい」

「使い方の練習をします」

「はい」


 アリサベル王女の声が嬉しそうだ。レフがアリサベルの掌から魔器を取り上げて、右手の人差し指と親指でつまんだ。


「これで突起から魔力を流してみてください」

「起動させるのですか?」

「いいえ、私が抑えてますから起動はしません。アリサベルが丁度良い魔力を流せるようになるための練習です」


 恐る恐る突起を触れて魔力を流してみた。突起部分が僅かに光って直ぐに止まった。


「今のの5倍くらいって感じかな?大丈夫暴走はさせませんからそれくらいのつもりで流してください」


 5倍?と言われてもそんな事を考えながら魔力を使ったことはなかった。それでも大体の見当で恐る恐る魔力を込めた。今度は赤道付近の魔導銀線が光った。さらに赤道を越えた半球も淡く光った。光の帯が赤道を一周してふっと消えた。


「少し多いけれど、それでいい。少なくて起動しないよりずっとましだから。でも必要最小限の魔力で使うことを覚えて欲しいかな。魔力にも限界はあるのだから」


 レフに比べれば魔力が少ない。尤もこれはアリサベルに限ったことではなかった。シエンヌもアニエスもジェシカも同様だ。だから魔力の無駄遣いをしないように注意している。


「分かりました、レフ。適正な魔力で起動できるように練習するわ」


 これまでアリサベルの魔法が本当に求められたことなどなかったのだ。アンジェラルド王族としては多い魔力を持ち、通心、探査・索敵、それに転移の魔法が出来るとは言っても実用レベルで求められたことはなかった。護衛の親衛隊には必ず手練れの魔法士が付いていたからだ。

 シエンヌに手ほどきをしてもらった後も一人で練習していたが、実際の場面でアリサベルの魔法が求められることなどなかった。だが今は、魔器を使った転移が求められている。レフの仲間で転移ができるのはシエンヌだけだった。そのシエンヌも他人を連れての転移はできない。アリサベルも自分1人の転移が精々だと思われていた。レフのように他人を引き連れて転移できる方が異常なのだ。それでもシエンヌが自力で転移すればレフの負担が減る。アリサベル王女にも同じ事が求められている。


 レフがにっこり笑って魔器をアリサベルに返した。


「じゃあ、あっちで待機している」


 と言って、レフの姿が消えた。




 そこはレクドラムの旧領主館の1室だった。元は客間で今はアリサベル王女が自分の部屋にしていた。シュワービス峠の帝国側の口から帝国砦、王国砦を経て、レクドラムまでレフに連れられて転移してきた。レクドラムに転移してきてから丸1日レフとジェシカが工作室にしている部屋に籠もって作り上げたのがアリサベル用の転移の魔器だった。


 今アリサベル師団はシュワービス峠の2つの砦にそれぞれ2個大隊を置き、残りをレクドラムに置いていた。雪に閉ざされると交代も容易ではない。砦の守備隊は冬の間は事実上貼り付けになる。帝国砦に置いている守備隊は、もし帝国軍が攻めてきたら逃げられない。しかし、少なくとも冬の間は攻めては来ないだろうとレフも、王国砦にいるイクルシーブ准将も考えていた。帝国砦から口までの峠道も結構な積雪があって大軍の移動は難しくなるし、何よりキリング・ゾーンの記憶が生々しく残っている内に再度の攻勢にでることはできないだろうと考えたからだ。敵の姿も見ぬうちに1個師団が壊滅したというのは生半なまなかなショックではない。攻撃を命じられても兵の足は竦むだろうし、士官も命令を躊躇うだろう。兵が動かなければ指揮官が先頭に立たなければならないからだ。第五師団を壊滅させたあの爆発物もまだ埋まっているかも知れないと思うと、積雪を口実に陣に籠もって峠の口を塞いでいる方を選ぶだろう。

 事実仕掛けた魔器の半分が未使用だった。峠の口から帝国砦までの間にもう1カ所キリング・ゾーンが設けてあった。帝国軍に動きがあればレフが帝国砦まで転移して行って起動させるつもりだった。





「幾つ魔器の気配を感じますか?」


 シエンヌの質問に、


「2つ、かしら?」


 僅かに魔器に待機魔力を通すと反応があった。起動させる魔力に比べるとほんの僅かだ。


「その通りです。姫様の転移可能範囲に魔器が2つ有ります。王国砦と帝国砦ですね」

「もっとあるの?」

「はい、レフ様はいろいろ転移を繰り返しておいでですから。回収されてない魔器があと幾つか有ります。でも姫様や私が感知できる範囲にあるのはその2つだけです」

「そう……なの」


 レフだともっと遠くまで転移できるのだ。


「どちらかを選んで転移します」


 どちらにするか魔力の流し方で決める。


「近い方よね、王国砦の」

「はい、まずは練習も兼ねて近距離の転移をします。レフ様がお待ちです。どうぞ」


 シエンヌに言われてアリサベル王女は教わったとおりに魔器に起動魔力を流した。瞬間、レフに連れられて転移したときと同じような浮遊感があり、周囲の景色が流れて、目の前にレフがいた。床から10デファルほど浮いて実体化したアリサベルの体をレフが支えた。レフに抱えられたままアリサベルがにっこり笑うと、


「上手く行ったな。これで転移先の魔器さえセットしておけばアリサベルも転移ができるわけだ」


 魔道具で転移したときよりも遙かに疲労感は少なかった。転移先の実体化に掛かる時間も僅かだった。アリサベル王女は微笑んだまま、


「はい」


 と返事をしたが、床に下ろされて腰に回されていたレフの手が離れるのが残念だった。


「本当に自力でこんな距離を転移できるのですね」

「信じられませんか?」

「はい、なんだか現実味がありません」


 だがそこは見慣れた王国砦の部屋だった。軽く頭を振るアリサベルにレフが窓を開けて外の景色を見せた。レクドラムではあり得ない、雪深い山肌が見えた。


「それに……」

「それに?」

「アリサベルが転移の魔器を使えば、私の転移に付いてくることができる。私に触れてなくても、すぐ側にいればアリサベルの能力ちからでは転移できない距離を跳べるようになる。私の魔力を殆ど使わずに」

「本当ですか?」

「ああ、本当だ」

「じゃあ、レフに置いて行かれずに済むのですね。シエンヌのように連れて行ってくれるのですね」


 レフがシエンヌやアニエス、ジェシカを連れて最前戦線に転移するとき、アリサベルは留守番になることが多かった。勿論、アリサベル師団の表象を最前線に持ってくるわけにはいかないと言う理由もあった。しかしレフの魔力を持ってしても一緒に転移させられる人数に限りが有ると言うのも大きな理由だった。最前線で動くための必要最小限の人間を選べばアリサベルは外れることになる。


「無茶はさせませんよ」

「分かっていますわ。でも多分、戦線のどこにいてもレフの側が一番安全ではないかという気がします」


 レフの側にこれまでより長くいる事が出来るようになるかも知れない、そう思うとアリサベル王女は笑みがこぼれてくるのどうしようも無かった。




…………………


1月2日の更新は休ませていただきます。次回は1月9日になります。

それでは皆様いいお年を!

                                  作者拝






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る