第55話 アニエスとジェシカ
ジェシカは一心不乱に魔器を造っていた。レフが用意した1辺が1.5デファルの正方形のガラス土台に魔導銀線を貼り付けている。左手の人差し指と中指で魔導銀線の根を固定し、右手の人差し指で魔導銀線を押さえながら法陣紋様を描いていく。右手を細かく動かして、一定の魔力を流しながら魔導銀線を伸ばし、曲げ、二重、三重にし、一区切り付いたところで切断する。描いた紋様の途中から新しく魔導銀線を伸ばしていく。目の前にはレフが紙に描いた実物大の紋様図が置いてあり、それを懸命に目で追いながら描いている。
レフに魔器を造ってみろと言われたのだ。レフが造る魔器に比べると法陣紋は簡単なものだったが、ここできちんとレフの期待に応えれば戦争奴隷として売られる可能性も少なくなるだろうという期待もあった。
魔力を通しながらガラスに押しつけられた魔導銀線は半分ガラスに埋まってしまう。一段落付くまでは集中を切らすことはできない。だからアニエスが扉を開けて部屋に入ってきたのにも気づかなかった。
5000人に増えたアリサベル旅団は、根拠地――元の名は使われず、ベルシュタットと呼ばれるようになっていた――を長めの滞陣に耐えるように作り替え始めていた。鉋も掛けない板を使ったが、壁と屋根のある兵舎を建てた。冬のことを考えると天幕では寒すぎるのだ。一番最初に建てられたのはもちろん王女のための建物で、兵舎に比べると丁寧な作りになっていた。その次ぎに、コスタ・ベニティアーノ卿やイクルシーブレ上級千人長など士官クラスが入るための建物が建てられ、同時にレフ達のために独立した小屋が建てられた。今は一般の兵士達のための建物も整備されている。
レフ達の小屋は玄関の扉を開けて大きめの居間があり、それに簡単な料理のできる厨房、洗面所、寝室が付いただけの簡素なものだったが、独立した建物を割り振られたのは王女とレフだけということを考えると、レフ達はアリサベル旅団の中で一応優遇されていると言って良かった。
その居間の一隅に作業用の机と材料や道具を入れる箱を置いて作業場にしていた。レフ、シエンヌ、アニエスは会議で出かけて、ジェシカ一人でレフに命じられた魔器造りをしていたところだった。
1個の魔器を仕上げて、初めてジェシカは机の横にアニエスが立っているのに気づいた。
「会議は終わったの?」
訊くジェシカに、
「あたしが出ていても役に立たないもの。あとはシエンヌに任せて帰ってきたわ。夕食の支度もしたいし」
「手伝いましょうか?」
「いいわよ、レフ様に言われているんでしょう?魔器を造れって」
ジェシカが造っているのは拘束の魔器だった。このところ帝国軍捕虜が増えていて、いくら造っても追いつかない。レフはもっと複雑な魔器を造っている。だから拘束の魔器の製造はジェシカにとってもレフに自分の有用性をアピールする絶好の機会だった。
「それはどっちの魔器?」
「ん、一般兵用ですね」
ジェシカが造っている拘束の魔器は首輪に取り付ける。
親機から半径5ファル以内にある拘束の魔器全てがこの効果を現す。だから関係のない捕虜まで同じ苦痛を味わうことになるため、捕虜同士で牽制し合うという事態も起こる。首輪を無理に引きちぎろうとしたり、刃物で切ろうとしても同じ効果が出る。一般兵用と魔法士用があり、魔法士用は同じ機能と、通心・探査の魔法を使用できなくする機能が兼ね備わっている。
ジェシカの造っている魔器は帝国兵捕虜――ジェシカの味方――に使われることになる。しかしこれを使わなければ手枷、足枷などが使われるか縛り上げられることになるため、反抗さえしなければずっと負担の軽い拘束の魔器の方がまし、とジェシカは自分に言い訳していた。
アニエスは完成して机の端に並べられていた魔器を一つ取り上げた。灯りを反射して魔導銀線がきらきら光る。
「それは魔法士用ですね」
魔法士用の方が多くの機能が詰め込まれている分、紋様が細かい。
「見たところは綺麗な紋様なんだけれどね」
その機能は凶悪だ。
「法陣って、どれも綺麗ですよ。特にレフ様の描かれた法陣は。イフリキア様に匹敵する精緻さですし」
「あなたのは?」
「私はまだまだです。レフ様に比べれば」
「帝国の魔法院の魔法士と比べるとどうなの?」
この質問にジェシカは少しの時間真剣な目をして考えた。
「多分、魔法院に私より精緻な紋様を描ける魔法士はいないと思います。私はイフリキア様とレフ様に教えて戴きましたから。私があそこを出たあとに、イフリキア様に匹敵する魔法士が入ったというような事があれば別ですが」
「そうね、あたしから見てもレフ様はジェシカに教えるのが楽しそうに見えるわ」
アニエスにもシエンヌにも魔導銀線を扱う能力はなかった。だからジェシカがその能力を持っていることを知ったとき、レフは言わば進んで教えるようになったのだった。
「だからジェシカ」
アニエスの口調が変わった。ジェシカは思わずアニエスの顔を見つめた。
「レフ様はあなたを手放すことを望んでいない」
「えっ?」
――なにを、言いたいのだろう?――
「あなたは帝国軍の魔法士でレフ様の敵だった。戦争捕虜としてレフ様のところへ来た。普通なら身代金と引き替えるか、戦争奴隷として売っぱらうか、いずれにせよいつまでも手元に置いておくものではないわ」
ジェシカがゴクリと唾を飲んだ。
「だけどレフ様はあなたに魔導銀線のつむぎ方、魔器の造り方を教えた。あたしやシエンヌにはできないことよ」
アニエスがジェシカの目を見返した。
「あなたがレフ様に魔器の造り方を教わったことを帝国が知れば、どんな代償を払っても取り戻そうとするでしょう。魔器造りに関しては帝国一の魔法士だもの。レフ様は自分に近くなった人間に甘いわ。だからあたしもシエンヌも側にいられるのだけれど。帝国がそれなりの身代金を払い、あなたが帝国に帰りたいと言えばレフ様は受け入れるかもしれない」
「でも、私がそんな能力を持っているなんて
「どこでどんなことで知られるか分からないわ。それにひょっとしたら逃げるチャンスがあるかもしれない」
ジェシカは両鎖骨の間にある拘束の魔器を右手で触った。もうずっとそれはそこにある。まるで自分の体の一部のように。
「私は……」
「レフ様は甘い」
アニエスが繰り返した。
「でも、あたしもシエンヌもレフ様に少しでも不利になるかもしれないことを見過ごすことはできない。あなたはレフ様の
アニエスが酷く剣呑な気配を醸した。
ジェシカは思わず体を少し後ろに下げた。
「そんなことになればあたしは、いえあたしとシエンヌはあなたを殺すわ」
脅しではないことがジェシカには分かった。だからこれからも私はずっとレフの下にいるのだ、そう思うとそれがそれ程苦痛ではないことに気づいた。むしろ、レフの下から出されることを恐れていたことに気づいた。自分の
「帝国には帰りません。だから……」
ジェシカが笑った。邪気なさそうに笑って見せた。
「殺さないで」
剣呑な気配を漂わせたままアニエスはじっとジェシカを見つめた。その気配がふっと緩んだ。
「あたしとしては逃げ出してでもくれればもっけの幸いなんだけれどね。あなたを排除する理由ができるから。これ以上レフ様の周囲に女が増えるのは歓迎できないし」
アニエスの言っていることの意味を覚ってジェシカは真っ赤になった。
「ばっ、莫迦なこことを……」
「まあいいわ。あなたを受け入れることにするわ、シエンヌもあたしが判断して良いと言っていたし」
出された手を、
――握手なんて男同士みたい――
と思いながらジェシカは握り返した。
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