第36話 ジェシカとイフリキア

 その日は海岸沿いに5里程東へ行っただけで夜営になった。レフとシエンヌを除いて皆が慣れない転移に疲れたのと、2人の足弱さん――アリサベル王女とジェシカ帝国軍魔法士――がいた所為だ。主要街道ではない海沿いの道が余り整備されてなかったこともある。

 そそくさと携帯軍用食で夕食を済まし、不寝番の割り当てを決め、一行は軍用毛布を被って眠りについた。ロクサーヌはルビオと交代で一晩をカバーすると言い張った。レフ達の不寝番を信用できなかったのだ。レフは苦笑しながら好きすれば良いとそれを認めた。


「ならば私たちは勝手に寝るぞ。あんたかルビオが起きて番をしていてくれれば安心だろうからな」


 王女一行とレフ達は20ファルほど離れて野営の場所を決めた。姫様の寝ている近くに信用の置けない男を近づけるわけにはいかない――ロクサーヌの思いだった。

実のところ、レフとシエンヌがいれば不寝番は必要なかった。4個1組の結界の魔器をレフは造っていた。その魔器で四辺形を造れば、その中にレフ、あるいはシエンヌに気づかれずに生き物が侵入することは出来なかった。さすがに虫や小鳥までいちいち探知はしないが、猫以上の大きさの動物は結界に引っかかった。その魔器をレフは一辺50ファルの四辺形を形作るように置いた。その四辺形の中に王女達の野営場所もあった。それをわざわざロクサーヌに教えてやるほど人が好くはなかった。





 ジェシカ・グランデールはくたくたに疲れていながら、妙に目がさえて寝入ることが出来なかった。薄い軍用毛布の下でごそごそと身体を動かしたときに、自分を見つめる視線に気づいた。薄く目を開けると自分に視線を当てているレフがいた。


「お前……」


 レフが珍しく躊躇いがちにジェシカに声を掛けた。ジェシカにも辛うじて聞こえるほどの小声だった。ジェシカははっきり目を開けてレフを見返した。


「母を……、イフリキア・……ジンを知っているのか?」


 フェリケリウスという一門名をわざと抜いているらしいことに気づきながらジェシカは頷いた。


「はい」


 先を促されるようにジェシカは続けた。


「帝国魔法院に1年ほどいたことがあります。そのときに僅かな期間ですけれどイフリキア様に教えて貰ったことがあります」


 魔法院のどの部署でも歓迎されなかったジェシカはわずか1月ほどだったがイフリキアの所にいたことがあった。1月で別の部署に替わらされたのは、ジェシカがイフリキアに気に入られそうになったからだ。ジェシカは魔器製造、特に魔導銀線の製造能力において、初心者にしてはイフリキアの教えた魔法使いの中で1、2を争う程の才能を見せた。それがジェシカを疎んでいた一部の上層部の気に入らなかった。別れの挨拶も許されずジェシカは別の部門に移された。イフリキアがいつもいる部屋から場所的に一番遠いところにある部署だった。イフリキアの下にいたことは、ジェシカにとって魔法院で唯一暖かい思い出だった。唐突にジェシカが自分の下からいなくなってもイフリキアは何も言わなかった。帝国の使う魔器の性能が、ジェシカを魔器製造から外すことで下がっても気にしなかったからだ。尤も自分になついてきそうな魔法使いがいなくなったことを寂しくは思った。


「そうか……、私は母に似ているのか?」


 ジェシカはレフを見てイフリキアの名を出そうとした。レフにイフリキアを想い出させる何かがあるのだろう。


「はい……。髪の色は違いますが。イフリキア様は黒い髪をしておいででした。それに目は碧色でした。でも一見した印象はそっくりでした」


 はじめてレフを見たとき、逆光だったから髪の色は一見では分からなかった。だから余計にそっくりに見えた。そして今の穏やかな表情のレフは細かい違いはあってもイフリキアに生き写しだった。


「イフリキア様にお子様がおられるなんて知りませんでした」


 ジェシカから見ても、華奢で儚げで、まるで自分より幼い少女の様に見えることもある女性ひとだった。フェリケリウスの一門に属しながら、人を叱ったり、命令するようなことを言わない女性ひとだった。その魔力の大きさと魔法使いとしての才能には圧倒されたが。

 目の前のこの男もイフリキア様に匹敵する、あるいは凌駕するかもしれない魔力を持っている事が分かる。


「でも何故、イフリキア様のお子様なのに帝国に敵対されるのですか?」


 何気なく発した問いだった。とたんにレフの雰囲気が変わった。

 レフの影が背後から大きく膨らんで来るような気がした。息を飲むほどそれは強烈な敵意だった。


「あの国は……、私から母を奪った国だ。誰一人私に厚意を持たなかった国だ」


 半分掠れた声だった。目が底冷えのする光を帯びた。その目に見据えられて、恐怖がジェシカを包んだ。冷や汗が背中を降りていった。思わず手足を縮めて地に伏せそうになった。


「母を無為に死なせた国だ。そして母が死んだとき、私を殺そうとした国だ……」


 強く握られたレフの両手がぶるぶると震えていた。固く閉じられた口からギリッという歯ぎしりが聞こえた。その姿勢で固まったままどれくらいの時間が過ぎただろう、ゆっくりとその姿が柔らかさを持ってきた。正視できなかったレフの顔がやっとジェシカにも見ていることが出来るようになった。レフの背後の影が元の大きさに小さくなった。ジェシカに対する圧迫が軽くなった。


 いつの間にかシエンヌとアニエスも目を覚ましていた。大きく目を見開いてレフを見ていた。レフのこんな感情の動きを見るのは2人とも初めてだった。全てを拒絶して全てを破壊し尽くさなければ済まないとでも言っているような凶暴な感情だった。それが収まってきたことはシエンヌとアニエスにも安堵を与えていた。


「二度と、今のようなことを言うな」


 こくこくとジェシカは何度も頷いた。

感情を爆発させたことにレフ自身も驚愕しているようだった。一転した穏やかな声で、


「母のことを話してくれたことに礼を言う。そうか……私は母に似ているのだな」

「はい」


 通心で結ばれてはいた。しかし通心では自分の容貌や姿を直接見せることは出来ない。視覚や聴覚を共有するにはイフリキアの作った魔器を使っていても離れすぎていた。レフは母の顔を知らなかったし、肉声を聞いたこともなかった。


「今日はもう眠れ。明日からまた歩くことになる」


 レフが右手の人差し指をジェシカの額に当てた。とたんに猛烈な眠気に襲われてジェシカは意識を手放した。



「「レフ様」」


 シエンヌとアニエスに呼びかけられてレフは2人が起きているのに気づいた。


「シエンヌ、アニエス……」


 呼ばれて2人がレフに近づき、恐る恐る抱きついた。あの怒りを爆発させたレフは見たことのないレフだった。かなり長い間一緒に暮らしていて、見たことのないレフだった。近寄りがたく、近づきたくもない、しかしどうしても離れられないレフだった。2人にとってひどく遠くに行ってしまったような気がしたレフが、しかしやはりすぐ近くにいた。シエンヌもアニエスもレフに回した腕に力を入れた。

 レフが交互に2人の顔を見た。むしろ頼りなげで寂しげな視線だった。何か言わなければ……、シエンヌが思わず、


「私もアニエスもずっとレフ様のそばにいます。ずっと……」


 レフが2人に回した腕に力を入れた。


「それでいいのか?2人とも」

「あたしはレフ様のものです。レフ様が望むかぎりそばにいます」


 アニエスの言葉に応えるようにシエンヌも何度も頷いていた。


「レフ様、もしこの者を殺さなければならなくなったら、私に命じてください」


 シエンヌの懸念だった。帝国はレフの敵なのだ。この帝国の魔法士を殺さなければならなくなったとき、レフに出来るだろうか?隷属させたばかりの自分シエンヌに対したレフの行動を想うと多分躊躇うだろう。なら自分がレフの代わりをするだけだ。


「レフ様……」


 アニエスがレフにもたれ掛かった。何かを訴えるようにレフを見上げた。アニエスの唇がレフの唇に重なった。互いの舌が互いの口腔を弄った。長い長い口づけの後、離れたアニエスとレフの間を唾液の橋が繋いでいた。横から今度はシエンヌの唇がレフの唇を覆った。レフの手がシエンヌの乳房を掴んだ。柔らかい乳房を揉みしだきながら上体を倒していった。母を失って欠けたものは戻ってこないが、それ以外のところで満たされるものができていた。それがレフに嬉しかった。

 3人は体を寄せ合ったままその夜を過ごした。







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