第19話 居場所

――ふくらはぎまで浸かっている液体は生暖かくて粘っこかった。足を動かそうとするたびに絡みついてくるそれは急速に体力を奪った。薄明るい周囲には何も見えなかった。視線の届く限り水面が続いている。随分遠くまで水面が見えるから靄が掛かっているわけではない。なのに空中には何も見えなかった。いきなり全身に鳥肌が立った。振り向くと目の前に密度を持った黒い靄が浮かんでいた。思わず腰の剣を抜いた。ついさっきまで、確実に周囲には何も無かった。人の頭ほどの大きさだった黒い靄が急速に大きくなった。目も口もないのにニヤッと笑ったような気がした。二つ、三つと増えていく。増えた黒い靄が取り囲む。悪意の固まりとしか思えない、密度を持った黒い靄が襲いかかってくる。懸命に体をひねりながら躱していたが、真正面からぶつかってくる幾つめかの塊は避けきれなかった。夢中で剣を振って両断する。体の両側を真っ二つに切られた、口角を上げて嗤いを浮かべた巨大な首がかすめ過ぎていった。不自然な体勢から剣を振るったせいで体のバランスを崩した。両手を液体に突っ込んで四つん這いになった。跳ね返ったしぶきが顔に掛かる。鉄さびの匂いがした。嘲笑が渦を巻く。耳を塞ごうとして両手が液体から抜けなかった――



やーっ!」


 シエンヌは悲鳴を上げながら上体を起こした。息づかいが荒い。両手で顔を覆ってうずくまった。体がガタガタと震えている。訳も分からず涙がこぼれる。背中を冷や汗が流れ落ちる。


「……嫌や……」


 シエンヌの体に手が回されて、そっと引き寄せられた。シエンヌの体に触れている手から温かいものが流れ込んできた。震えが止まった。息づかいが落ち着いてきた。


「大丈夫か?」

「レフ様」


 体に回されているレフの手にシエンヌが自分の手を重ねた。両手でレフの手を包み込んだ。離されたくなかった。レフの手は心地よかった、心にも体にも。


「大丈夫?」


 アニエスが横からのぞき込んでいた。


「悪い夢を見たんだろう」


 夢だったのだろうか?まだふくらはぎにあの液体の感触が残っているような気がする。顔に付いた液体の臭いが取れないような気がする。あの真っ二つにした顔は首を刺し貫いた帝国士官だった。


「シエンヌは人と闘ったのは初めてだったのか?」


 こくっと頷いた。


「初めて人を殺して、びんびんに張り詰めていた気が少し寝たことで緩んだか、切れてしまったかしたんだろう。女にはきつい経験かもしれないな」


 女は命を育む性だ。命を壊す性ではない。


「あ、あたしは平気だわ。レフ様の敵はあたしの敵だもの。幾らでも殺してやるわ」


 シエンヌに回していた右腕がアニエスの肩を抱いて、アニエスもレフの方に引き寄せられた。3人がひとかたまりになった。


「無理をさせたな。私に付いてくるならこれからもこんなことがいくらもあるだろうし、避けることはできないだろうが……。辛ければ私にもたれていい。それで少しでも楽になるなら」


 アニエスが肩を抱いているレフの手を取って、レフの方にもたれ掛かってきた。


「うっ、うっ……」


 シエンヌが嗚咽していた。身体に回されているレフの手から流れ込んでくる暖かいものがシエンヌの心と体のこわばりを溶かしていくようだった。


「あたしはレフ様に付いていく。そのためならどんなことでもする。全てあたしのため」


 レフが少女達に回した腕にいっそう力を入れた。シエンヌとアニエスはそれが心地よかった。アニエスに回した腕からも暖かいものが流れ込んだ。アニエスもいつか涙を浮かべていた。



――あたしの心にもしこりがあったんだ。無理をしていることをレフ様は分かっていたんだ。でも、本当に、レフ様に付いていくためなら何でもする――



 レフの左手がシエンヌを抱え、右手がアニエスを抱えて3人は眠った。シエンヌとアニエスは夢も見ない深い眠りを、レフは周囲の気配を見逃さない浅い眠りを。




 レフ達が一晩をやすんだのは、帝国軍の焼き討ちに遭って見捨てられた村だった。アンジエームへの最短距離を行くというカジェッロ達と分かれて、この村を見つけたのはもう日が暮れてからだった。この村が焼き討ちに遭ったのは、この村で警戒に出てきていた領軍と略奪行に出ていた帝国軍がぶつかったからだ。帝国軍は戦力に劣る領軍を一蹴したが、その勢いのまま村を焼いてしまった。領軍に徴発された若者達が殺され、家や倉、畑を焼かれて生活のすべを失った村人達は村を捨て、伝手を頼って移っていった。ダナがその場にいれば何人かを奴隷として買っただろう。


 半分焼け残った納屋で一晩を過ごしたレフ達は村はずれを流れている小川で顔を洗い、湯を沸かして、軍用携行食で朝食をとった。村の井戸を使わなかったのは死体が投げ入れられていたからだ。


「ひどいものだな」


レフが村の方を振り返りながら言った。


「……はい」


 明るくなってあらためて村の様子を見たシエンヌが沈んだ声で答えた。


「戦に負けるっていうのはああいうものだ。兵だけではなく民も蹂躙される」


 シエンヌが震えている。


「アドル領が心配か?」

「はい」

「アドル領はどれくらい離れているんだ?レクドラムから」

「徒歩で3日と少し、くらいです」

「それなら大丈夫の可能性が高いな、レクドラムへの行軍中に略奪にあった街や村を幾つも見ただろう?大体、1日か1夜営行程くらいしか離れていなかった。多分帝国軍は略奪そのものが目的なのではなく、王国軍を激高させることが目的だったんだろう。冷静な判断が出来なくなるように。現にエンセンテ宗家の当主などその術中に嵌まってしまった」


 シエンヌはレフの言葉に明らかにほっとしていた。アドル領までは帝国の手は伸びていないだろうとレフは言った。これまでこの戦についてレフが言ったことはほぼ当たっていたからだ。


「シエンヌの兄さんには気の毒だったな。もう少し早ければ助けられたかもしれない」

「小さな領からの兵は一番危ないところへ投入されるのが常ですから、ファビオ兄様もある程度覚悟していたと思います」

「兄妹2人なのか?」

「いえ、一番上にもう1人、兄がいます。それに弟も」

「そうか」


 次男は長男――跡継ぎ――のスペアだ。だからこんな場合、先に戦場に出される。


「そう言えばシエンヌの家族について聞いたのは初めてだったな」

「はい、興味がおありにならないのだと思っていました」

「そういう訳ではないんだが……」

「家族は両親と兄が2人――今は1人になりましたが――、年の離れた弟が1人です。アドル領は人口が1000人ちょっとの本当に小さな、麦を作って家畜を飼っているだけの領です」

「帰りたいか?」


 少し考えてシエンヌは首を振った。


「いいえ、帰っても私が生きていることが知られたらあちこちに支障が出そうですから」

「だけど、兄さんの気配を追っていただろう?」

「あれは、兄たちが無事に逃れているのを確かめれば良いというつもりでしたから」


 シエンヌの声は穏やかだった。


「父は……、父と兄は周りの小領の領主達と歩調を合わせると思います。ファビオ兄様は死にましたがそれを根に持って最後まで抵抗するなどということはないと思います。小領主は昔から大領主の争いに巻き込まれては上手く動いて生き延びてきましたから」

「そうだろうな、それをとやかく言うことは誰にも出来ないな」


 テルジエス平原が、少なくとも一時的には帝国の支配下に置かれることは間違いない。そのとき帝国がテルジエス平原をどのような形態で統治しようとするのか?王国の支配下にあった民をすべて追い出して帝国の民に置き換えるのか?そんなドラスティックなことをすれば少なくとも10年はテルジエス平原は荒れるだろう、年貢も期待できない。第一この広いテルジエス平原に隙間なく移民できるほどの民が帝国に余っているわけではない。エンセンテ宗家のような大領主と反抗的な領主を入れ替えて、その他は従来の支配機構を温存しての間接統治というのが現実的なところだろう。しかし、帝国の占領政策の方針が分からない以上、あらかじめ的確な対策など立てようがない。大勢力の間を巧みに泳ぎ回って生き延びてきたという、アドル家DNAに期待するしかない。


「それに……」

「それに?」

「私には居場所が出来ましたから……」


 顔を真っ赤にしてシエンヌはそう言った。







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