第18話 レクドラムの戦い 6

 シエンヌの兄達を埋葬する余裕はなかった。穴を掘るための道具も持ってなかったし、多数の帝国兵が生き残りの王国兵を求めてうろついている戦場でその時間もなかった。

 シエンヌは兄の髪を一房切り取り、倒れている王国兵の顔を確かめた。どの兵もアドル領の領兵であり、シエンヌと顔なじみの男達だった。剣の訓練に良くつきあってくれた。シエンヌは口の中で小さく男達の名前をつぶやいて手を合わせた。


「行こう」


 レフに促されてシエンヌが振り返り振り返り歩きだした。もうすぐ陽が昇る。明るくなれば遠くからでも姿を見られる恐れがある。丘の上から見下ろせるような見通しのいい場所に長居すべきではなかった。今度はレフを先頭にして3人は平原の中を進んだ。帝国兵を避けながら半刻も歩いたとき3人は小さな川の畔に出ていた。と言うよりレフが川の方へ導いたのだ。レフが振り返って、


「シエンヌ、ここで返り血を洗い流せ」


 言われてシエンヌは改めて自分の格好を見直してみた。帝国兵との戦闘で高ぶっていて気づかなかったが、髪も服も返り血と、血塗れの兄の身体にしがみついたときに付いた血でゴワゴワだった。顔や身体に付いた血は出来るだけ拭き取ったが全部取り切れているわけがなかった。


「でも……」


 躊躇うシエンヌにアニエスが、


「大丈夫よ、ちゃんと見張っててあげるから。帝国兵のことも、レフ様がシエンヌの方を見ないようにも」


 レフが何を言っているんだ?と言うように軽くアニエスを睨んでから、


「直ぐに駆けつけられるような近くには帝国兵はいない。まだ少し水が冷たいが、そんな返り血を浴びたままでは匂いが強すぎて、気配を消すのもうまくいかなくなる」


 レフもアニエスも返り血をほとんど浴びてなかった。シエンヌよりずっと冷静に闘っていたのだ。


 シエンヌは周囲を見回した。川は小さい、流れは緩やかで深くもなさそうだ。川のほとりに木が何本か立っているが、身を隠せるほどは密生していない。


――確かにこのままではまずい、その上気がついてしまえばこの血の臭いに耐えられそうもない――


「アニエス、お願い」

「分かったわ」


 何を頼まれて何を了解したのか分からないままそんなやりとりをして、シエンヌは手早く服を脱いで川に足を入れた。脱いだ服はアニエスが受け取った。レフは少し離れて、レクドラムの方に身体を向けて警戒している。

 水はまだ冷たかった。岸の近くでシエンヌの膝くらいの深さがあった。腰をかがめて何度も髪に水をかけて洗った。ゴワゴワにこびりついた血はなかなか落ちなかったが、手で髪を梳きながら繰り返し洗った。手櫛が髪に引っかからずに通るようになってシエンヌは髪を洗うのを止めた。脱いだ服をアニエスから返して貰って水につけ、絞っては髪と体を拭いた。何度も拭くうちに血の色がほとんど付かなくなった。まだ気持ちが悪いがいつまでもこうしているわけにも行かない。シエンヌは岸に戻った。

 幸い背嚢の中に着替えが入れてあった。


「寒い!」


 細かく震えながらアニエスが手渡してくれる服を着ようとして、いきなり大きな気配の動きに気づいた。思わず手が止まって、表情が固まった。


「シエンヌ、どうしたの?」


 シエンヌの急な変化に気づいたアニエスが声をかけた。


「これは、いったい……」


 体を硬くしてレフの方を見ると、レフもシエンヌとアニエスの方を見ていた。


「気づいたか?」


 レフに問われてシエンヌが頷いた。


「えっ、なに?」


 訊いたアニエスに、レフが簡潔に答えた。


「帝国が騎兵を出してきた」

「騎兵を?」


 レフがレクドラムの方に顔を向けて軽く目をつぶった。何かに集中しているような顔だった。


「約二千と言うところか。明るくなって馬を走らせることができるようになるまで温存していたわけだ。王国軍の戦意を徹底的に叩き潰すつもりのようだな」


 逃げ惑っているところを後ろから騎兵に攻撃される、悪夢だろう。騎兵ならかなり遠くまで逃げた王国兵にも追いつく。帝国軍の司令官は本当にいやらしい作戦を立てる。


「レフ様――」

「とにかく服を着ろ、シエンヌ。さっさと逃げ出すぞ」


 レフにそう言われて、シエンヌは初めて裸でレフに対していたことに気づいたように顔を真っ赤にした。


 アニエスに比べれば小ぶりだが形の良い乳房、くびれた腰、長い足、そして髪に比べると濃い色の、短く、密度の薄い恥毛が濡れて肌に張り付いていた。


 シエンヌは顔を真っ赤にしたまま、両腕を抱えて胸を隠し、しゃがみ込んだ。



 ――――――――――――――――――――――――――――――――     




 護衛の近衛騎兵中隊25騎に護られながら戦場をいくドミティア皇女は、口をとがらせて不機嫌を隠そうともしなかった。ちなみに歩兵1個中隊は100人を基本とするが、騎兵1個中隊は25騎を基本とする。中隊長はどちらも100人長が務める。


「姫様、いい加減にご機嫌を直してください」


 ドミティア皇女のすぐ側にいつもいる2人の女兵士のうちの1人がこの言葉を繰り返すのも何度目だろう。そしてようやくその言葉に皇女が反応した。


「エリスは我慢できるの?散々待たされたあげくに並足で戦場を散歩しているだけよ」


 ドミティア皇女の声は不必要に大きかった。中隊長のレザノフ百人長に聞かせるためだった。当然レザノフ百人長にも聞こえているはずだったが、中隊の先頭を行く彼は表情も変えず前を向いているだけだった。


「姫様、姫様の安全が第一でございます。戦などこれからいくらでも経験することが出来ます。今は戦場いくさばとはどんなところかを知るだけでも価値がございましょう」

「その上、向かわされたのは王国の国軍ではなく、領軍の布陣していた所!」


 常備兵で固められた国軍の方が、事に応じて徴集される領軍よりも練度に於いて遙かに優れている。エンセンテ宗家のような大身の貴族家の領軍は常備兵を芯にしているが、それでも兵達の大半は徴集兵だった。年に何回かは招集して訓練しているが、それでも到底国軍のレベルには届かない。ごく普通に国軍より領軍の方が弱兵と見なされていた。

 より安全な所――弱い敵の所――へ戦闘が終わった後になってやっと行くことが許されたことがドミティア皇女の気に入らなかった。確かに王国兵の死体、まとめて後送される捕虜の群れ、多くはないが死傷した帝国兵などを皇女は見ていた。しかしそれは既に戦闘が終わったあとの、一種気の抜けた情景に過ぎないと皇女は感じていた。


――これじゃ戦場の空気を吸ったなんて言えないじゃない。もっとぎりぎりの緊張感に満ちた場面を経験したいのに――


 ドミティア皇女は騎乗している馬の足を少し早めて左へ曲がった。


「姫様!そちらは違います!」


 皇女に付いている女兵士2人が声をそろえて皇女を止めようとした。その声で先頭を進んでいたレザノフ百人長が振り返って皇女の行動に気づいた。


「殿下!そちらの方はまだ残敵の掃討が済んでいません。私の後に付いてきてください」


 皇女がレザノフ百人長の方へ顔を向けて、


「いいじゃない、どっちへ行ってもどうせ逃げ惑っている領軍しかいないんでしょう?」


 ドミティア皇女はそれだけ言うと自分が選んだ方向へ馬を走らせ始めた。さすがに中隊を置いていくようなスピードではなかったが。


「殿下!」


 レザノフ百人長が声を大きくした。部下なら震え上がるような声音だったがドミティア皇女は振り返りもせずそのまま馬を走らせ続けた。


 レザノフ百人長は二~三回軽く首を振って小さく舌打ちすると、


「中隊前進!殿下の護衛につけ!」


 そして自分も馬を駆けさせてて皇女に並んだ。中隊が皇女を囲むように隊列を整えた。皇女と百人長は黙ったまま並んでしばらく馬を走らせた。2人ともまっすぐ前を向いたままだった。









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