第10話 檻の館 4

 高熱から回復したレフは周囲に対して以前にも増して無口になった。周囲の者達は必要なとき以外ただひたすらじっとしているレフを気味悪がった。戸外にいられる季節はベランダのデッキチェアの上で、寒い季節は居間の椅子に腰掛けて、目の前の空中の一点をみつめてレフは彫像のように姿勢を変えなかった。


「眼が怖い」


 というのが、特にレフの近くにいる侍女達の想いだった。


「あの眼で見つめられると心の奥を見透かされるようで恐ろしい」


 侍女達はレフと目を合わせなくなったし、必要以上には言葉を発しなくなった。


「暗闇の中で光るの、まるで獣みたい」


 

 

 このとき以降、レフの興味は父からの知識の整理と母との通心にしかなかった。父からの膨大な知識は一度意識の上に上らせて整理しないと本当に自分の物になったとは言えなかった。それは根気のいる時間を要する作業だったし、どうしても自分だけでは理解できないことは通心の時に母に訊くしかなかった。母は知っている限りの知識でレフの疑問に答えてくれたが、全てに応じられるわけではなかった。そんな疑問に対してはレフが自分で答えを見つけるしかなかった。こういった作業にレフはそのほとんどの時間を費やしていた。


 デクティスとの武技の訓練だけは止めなかった。身体を動かすことは面白かったし、デクティスだけはレフに対する態度を変えなかったからだ。




 母との通心はレフの13歳の誕生日に終わった。それを告げられて、


「どうしてなの?母様」


 と訊いたレフに、


「そういう約束だったの。あなたが成人するまでという。でも私はいつもレフのことを想っている、たとえ通心出来なくてもいつもレフのことを感じている。……今の仕事が一段落したら、ガイウス陛下の治世もうまくいっているし、このまま陛下の力が大きくなってあなたの存在が問題にならなくなれば、きっとあなたを手元に引き取ることが出来るようになる」


 何の当てもない願望だと言うことはレフにも分かった。でもそう思わなければおそらく母の心が持たなかっただろう。

 レフの目の前で通心の魔器の表面にひびが入った。法陣を描いていた魔導銀に断裂が出来、魔力を通すと鮮やかに輝いていた光を見ることはなくなった。あふれるようにレフに届いていた母の思いが途切れた。



 13歳になれば1人前と見なされる。貴族が領地を相続することを許される最小の年齢が13歳だった。


「レフ様、13歳と言えば立派な大人です。一つの家を任せられる年齢です。いつまでも母君に甘えていられるわけではありませんぞ」


 いつになく荒れた刃筋で短剣を振るうレフにデクティスが言った言葉だった。寡黙なデクティスにしては長い言葉でひょっとしたら慰めるつもりだったのかもしれない。この頃にはレフはデクティスと結構良い勝負するようになっていたが、心が動揺していては相手になるわけもなかった。そんなレフをデクティスは容赦もなく叩きのめした。

 しかし、デクティスは知らないことだったが、レフと母は完全に切れたわけではなかった。濃密な通心は出来なくても、レフの胸にほんのわずか暖かい糸が繋がっていた。暖かさだけしか伝わってこなかったがそれが母のものであることをレフは疑いもしなかった。



 13歳を過ぎてから、侍女達が交代でレフの性の相手をするようになった。皇家の一員としての嗜みとして、だった。レフは無表情にそう告げる侍女長を見ていた。


「一人の女に執着なさらないようにお願いします。皇家に入れるには身分の低い者ばかりでございますので。たとえレフ様が特別な想いをもたれても、どうすることも出来ません。レフ様と対したときどうすれば良いのかは十分に教え込んであります。勿論娘ごとに多少の違いはございましょうが、基本的にどの娘も同じと思ってください」


 交代させるのは、1人で相手をしていればそこに情が生まれ、思わぬ事態になる可能性があるからだ。母のように1人の相手を特別と感じてはならない。侍女にとっては仕事の一部でしかない。レフにも性に対する好奇心があった。だから侍女長の言うことに反発を覚えるでもなく、女達の奉仕を受けた。しかしすぐに興味をなくした。レフの相手をするとき女達は様々な姿態をとり、声を出す。母が父のことを話すときの声の艶めかしさを知っているレフにとってはそんな声は白けるばかりだった。それでも止めると言わなかったのは、10代の男として時々高ぶってくる衝動を治める必要があったからだった。

 どんなことをしてもどんなことを言ってもレフの情に触れないことはすぐに女達にも分かった。行為を止めることは、上からの命令であり許されなかったが、すぐに事務的に義務をこなすだけの仕事になってしまった。この頃のレフにとって性は処理するものであり、高ぶったときには治めるものであり、人、特に異性とその周りにいる人々と繋がっていく大切な手段の一つという認識では、なかった。




 母との細い繋がりが切れたのは、18歳に間もなくなろうかという初夏だった。ベッドに入ってうとうとし始めたとき、いきなり胸に鋭い痛みを感じたのだった。息が止まるほどの痛みがしばらく続いて、それが治まったとき、レフがいつも感じていた胸の奥の小さな暖かさが消えていた。びっしょりと汗をかいた顔を右の手掌で一ぬぐいしてレフは起き上がった。震える手で枕元にいつも置いている壊れた通心用の魔器を取りあげた。その魔器をじっと見つめた。唇がわなわなと震えていた。


「……母様……」


 声も震えていた。

 間を置かず、廊下を走って近づいてくる重い足音が聞こえてきた。寝室の扉が乱暴に開けられた。デクティスを先頭にした完全武装の警備兵の一団がそこにいた。


「デクティス!」


 レフの声は悲鳴に近かった。


「母上はどうなったのだ?」


 本当は訊くまでもなかった。この切れ方は、そして今感じているこの空虚は、母が物理的にいなくなってしまったことを示していた。デクティスが必要以上に恭しく礼をした。


 「私は存じません、ただ上の方からレフ様を弑するように命を受けました。お覚悟を」


 レフの震えが止まった。母がいなくなった今、自分の存在がこの国、そして皇家にとって邪魔でしかないことを知った。


「問答無用か。私からも言うことはなさそうだな」


 表情が完全に消えた。怒気が吹き出した。それはデクティスを思わず一歩下がらせるほど強烈なものだった。しかし一歩下がりながらでも警備兵達は武器を構えた。

 レフが壊れた魔器を持った右手を突き出した。掌の上で魔器の表面がぼろぼろと崩れ始めた。皮を脱ぐように表面が完全に崩れ落ちた魔器が掌からわずかに浮いた。一回り小さくなった魔器に複雑な紋様の法陣が描かれているのがデクティスにも見えた。魔導銀の紋様を小さないくつもの光がせわしく行き来した。


「そっ、それはいったい?」


 デクティスでさえ間の抜けた質問しか出来なかった。


 手の上で魔器全体が光り始めた。光はどんどん強くなり、白い光が一瞬部屋全体を満たした。思わず目をつぶった警備兵達が目を開けたとき、レフの姿はもうどこにもなかった。そして床には粉々に砕けた魔器のかけらが散乱していた。


「それは転移の魔器、あなたの転移を助けてくれるの。それを使えばあなたならとんでもない距離を転移できるわ。でも、出来ればそれを使うようなことにはならないように祈っているわ。まだ完全ではないから、目一杯にそれを使ったときあなたにどんな影響が出るか分からないの。…ごめんね、完全なものをあげられなくって」


 母様、母様……、お陰で窮地から逃げることが出来ましたよ。


 超遠距離の転移はレフの意識を奪った。気がついたとき、レフは後ろ手に手かせをはめられ、冷たい牢の床に転がされていた。そしてこのときには気づかなかったが、もとは黒かった髪が脱色したように白くなっていた。









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