第10話 檻の館 3

「夢のような11ヶ月だったわ。いろんなお話をして、いろんなことを教えて貰って、ジン様の知識が直接私に流れ込んでくるの。普通なら一生かかっても学び終わらないくらいの膨大な知識だったわ。お陰で後から整理するのが大変!」

「母様が私に教えてくれたみたいに?」

「そう、よく似ているわ。でも私は直接ジン様に触れていたから、もっと濃密だったわね。その分期間がたった11ヶ月と短かったけれど」


 母様の声が常になく嬉しそうだった。レフに向ける愛情とは違う愛がそこにはあった。


「二人でクロッケン高地中を歩き回って、魔法の練習をして、そして11ヶ月経ったときには私のおなかにはあなたがいたの。式も挙げなかったし、家族の了解も取らなかった。でも私には他の道などなかった。幸い私は一族の中では末流だったし、だれも私の行動など気にしなかったから。街に帰りたがる侍女達を説得してずっとジン様にくっついていたわ。ジン様に一番教えて貰ったのが法陣の描き方。いかに魔道銀を均等に細くして魔力の流れをスムーズにするか、魔力の流れを効率的に止めるにはどうするか、なにより法陣の紋様のひとつひとつに意味があること、その読み方を教えて貰ったわ」


 法陣を描くことを最初にこの世界にもたらしたのは初代様―ガイウス大帝だった。それだけではなく、それまで魔力を持った者がそれぞれ自己流に行使していた魔法を体系立てて整理したのが大帝だった。大帝の教えでずっと能率良く魔法が使えるようになった。

 念話、その上位互換の通心や探知を大々的に戦に使うようになったのも大帝からだった。ガイウス大帝が訓練した魔法士を使って、敵の動きを把握し、数万の軍を1つの意思の元に有機的に動かす、今でこそどの国もやっていることだったが大帝の時代に於いては画期的なことだった。その軍は当時無敵であり、それまで群雄割拠していた中原を初めて統一した。統一帝国は大帝の死後纏めていくことが出来ずまた分裂してしまったが。


 ガイウス大帝といい、父様といい、渡り人というのは魔法についてずっと大きな力と、深い洞察を持っているようだ。

 そんな父に教えて貰って、母は魔力も大きかったが、法陣を描く能力でもこの世界の人間の中で飛び抜けていた。大きな魔力を精緻にコントロールし、細い魔道銀で法陣を描くことを母ほどうまく出来る魔法使いは他にいなかった。そして実に無駄のない、簡潔でしかも必要十分な法陣を描いた。


「魔力もね、ジン様が最大限に伸ばしてくれたの、人の身にはこれ以上は危険というところまで」

「父様はどうされたのですか?私が生まれたときにはもういらっしゃらなかった」

「界渡りの能力を得た人は、普通の人と比べものにならないくらい強い超能力ちからをもつの。普通の人から見ると神にも等しいくらいの。その力を使って初代様は中原を統一なさった。でもジン様は言わば事故によってこの世界へ跳ばされたとおっしゃっていた。何でも渡った先の時空に予期せぬ空間流が発生してそれに巻き込まれてしまったって。自分の意思でこの世界に渡ってこられた初代様と違うところね。だから元の世界に帰る努力をしなければならないと。そしてジン様の仲間がジン様を元の世界に帰そうと努力していると。私をお嫁さんにしてくれる前にそう言われたの。『いつまで君の側にいられるか分からない。だから……』最後まで言われないようにジン様の口を塞いだの。それが私のファースト・キス♡」


 母がうっとりした口調になった。まるで若い生娘のようだ。


「初代様は渡ってこられてから30年、その間に帝国を築かれたのでしょう?父様はたった11ヶ月しかいられなかったの?」


 建国神話だった。30年の間に大帝国を築かれ、後を決めずに急逝された。ガイウス大帝にも予想外のことだったらしい。そのため帝国はいくつもの国に分裂し、離合集散を繰り返しながら今に続いている。


「そう……、でもあなたを残してくれた。その他にもいっぱいのことをしてくれた。私がいま国一番の魔法使いと言われているのもジン様のお陰だもの。そうそうこの際数字を一つ覚えておきなさい、いい?3.14159265、これはね円の半径と周囲の長さの比なの。魔器のための真球を作るときにとても役に立つわ。本当はもっともっと長いのだけれどこれくらいの桁数を覚えていれば十分に実用的よ」

「3.14159265、うん覚えたよ」


 レフは反芻するように頭の中でその数を繰り返した。徐々にイメージが鮮明になってきた。


「う~ん、分かった、真球を作るときにこの数を知っているのと知らないのとでは精度が全く違うんだ」


 母が魔器の向こうで微笑んだのが分かった。


「そう、それもジン様の残したもの、私とあなただけに。だから他の人に言ってはだめよ」


 レフは魔器に向かって頷いた。父と母と自分だけの秘密というのは甘い味がするものだった。


「でもどうして私は母様と離れて暮らさなければいけないの?」


 結局レフが一番知りたいことはこれだった。


「ジン様が渡り人だったから…」


 母の言葉に悲しみが混ざった。


「11ヶ月の間ジン様と私はずっと離宮にいたから、直接にジン様を見た人は少なかったけれど、私の侍女や召使いもいたし……、私の相手が渡り人だということが先代様に伝わってしまったの」

「父様が渡り人だとまずいことでもあるの?」


 余りに素朴すぎる疑問だった。今ならそんなことは訊かなかっただろう。


「初代様が渡り人だったでしょう。あの頃、現皇帝のガイウス7世陛下が立太子されていたけれど、初代様以来の渡り人の子供、しかも母は皇家の一員、というのがあなたの立場。『そなたにそんな気がなくても、そなたの子を利用しようとする輩が必ず出てくる。それが政治の力学というものだ。わしはこの国に余計な波風を立てたくない』前帝のタルキウス陛下にそう言われて引き離されてしまったの。出来るだけの抵抗をしたけれど所詮は末流の小娘、あなたに通心用の魔器を持たせることを承知させるのが精一杯だったわ。私の魔力と法陣を描く能力を帝国のために使うことも約束したの、そうすればあなたは飢えることもなく、安全に保護されると言われたから」


 母が申し訳なさそうにそう言った。だが海千山千の先代陛下を相手にしてはそれが限度だったのだろう。


「でも魔器があったから、母様をすごく近くに感じられたから、そんなに……寂しくはなかったよ」


 子供の精一杯の強がりだった。


「もっとたくさんだったらもっと良かったけれど、せめて5日に1回くらい…」


 直接に抱きしめて欲しいなどと言えなかった。11歳はもう大人じゃないか、そう思っても涙がこぼれるのを止められなかった。




 その夜私は熱を出した。高熱は3日間続き、周囲をおろおろさせた。母をつなぎ止めておくためには私を生かしておかなければならない。私が死んで母がこの国にいる理由がなくなれば、母は出て行くだろう。生きてか死んでか分からないが。そうなればこの国は国一番の、魔法使いにして魔器の製造者を失う。それが分かっているから侍女達は懸命に看病してくれた。しかし高熱に曝されながら私には分かっていた。父が私に残してくれた知識が私の頭の中で解凍しているのだということが。父の名前がキィワードだった。だからこそその年まで私は父の名前を教えられなかったし、父に意識が行かないように母に巧みに誘導されていた。

 父は私の脳がその知識の氾濫に耐えられるようになったときに解凍するように知識の塊を、まだ胎児だった私に遺していってくれたのだ。私の成長を見ることが出来ない父の精一杯の想いだった。勿論父の知識の全てが与えられたわけではない。そのごく一部だっただろう。それ以上の知識を受容するには胎児の脳のキャパシティは余りに小さかったからだ。母にもそれが分かっていたのだろう、私が高熱を発していることは魔器を通して伝わっているはずなのに母はただ黙って見ていた。



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