第10話 檻の館 1


 その館は北の海に面した崖の上に建っていた。夏の一時期を除いて北の海はいつも不機嫌で、大きな波を絶えず崖に打ち付けては後に大量の白い泡を残した。海からの風は湿気を含んで重く、夏でさえ時に身を震わせるほど冷たかった。


 レフは館の2階の、海に面した広いベランダにデッキチェアを出して、よく長い時間座っていた。数少ないルーティンを済ませばやることは、少なくとも外に見せながらやることは少なかった。膝の上には館に置くことを許されている本の1冊を置いていることが多かった。何度も読み返して既に暗記している本をぱらぱらとめくりながら、適当な所で止めて一節を読んで、またぱらぱらとめくるということを繰り返していた。

 視線は北の海に方へも行く。別に雲が絶えず低くたれ込めている海を見るのが好きというわけではない。それでも雪が降る季節を除いてはレフがベランダで過ごす時間が多かったのは、ベランダにいれば館の中にいる人間達――執事や、侍女、下男、そして監視のための人間達――の顔を見ずにすむからだった。特に侍女達は塩気を多分に含んだ風に当たって髪がべたつくのを嫌って、長くベランダにいることはなかった。

 館は広かった。建物だけではなく、敷地も広かった。幼いレフの足では外を囲む塀に沿って1周するのに半刻以上かかった。建物の外にいるときはいつも、すぐ側に複数の護衛兵がいた。護衛と言うより監視のためだった。物心ついたときからずっとそうだったから、そんなものだとレフは思っていた。屋敷の敷地がどれほど広くても、どれだけの人間がレフに仕えていてもそこはレフを監禁しておく場所だった。その檻の館でレフは同年配の友もなく生きてきたのだ。


 時間になれば居間に続く扉を開けて侍女長がベランダへ出てきて食事を告げる。侍女長が先に立って食堂へ行き、そこで完璧な作法で食事を供される。レフも教えられた通りの所作で食事をする。上品に機械的に正確に料理がレフの口に運ばれる。味など問題にされない。多分美味しかったのだろう。食材は吟味されていたし、調理するのはきちんと修行した料理人だったから。しかしレフが味について何かを言うことはなかったし、料理人が感想を求めることもなかった。

 会食する者もなく、会話もない食事だった。侍女達はレフの後ろに無表情に控えているだけで視線を合わせることもない。食事が終われば居間へ移動する。夕食の後、執事がその日の報告、翌日の予定を告げる。ほとんど何の内容もない短時間の報告だった。その後は就寝まで居間で過ごす。この時間は表面上一人だった。いつもどこかに視線を感じながらレフがその視線について言及することはなかった。2日に一度は就寝前に侍女が持ってくる湯で体を拭き、髪を洗う。そんな日々が延々と続くはずだった。




 レフがデクティスを意識したのは8歳の時だった。たまたま中庭を見下ろせる二階の外廊下を通りかかった時、デクティスが槍を振るっていたのだ。突く、薙ぐ、振り下ろす、それに巧みな足さばきが加わって槍がまるで伸び縮みするかのように見えた。見事な軌跡を描く槍の穂先はキラキラと光っていた。デクティスの裸の上半身は逞しく、無駄のない鍛えられた筋肉が躍動していた。もう寒くなろうかという季節なのに、その体からは湯気が立っていた。

 監視者のあたまの男だ、それまで顔と名前しか知らなかった男を初めて個人として意識した。槍を振るい続ける男の所作は美しいと言ってもよく、レフは思わず見とれていた。


「レフ様、ご興味がおありですかな?」


 唐突に動作を止めて、レフを振り返って見上げながらデクティスが訊いた。レフはこくっと頷いた。デクティスの眼光が鋭くなった。


「それでは……」


 いったん言葉を切って


「明日の今頃、ここへ来ていただけますかな?」


 次の日、同じ時刻に中庭に行くと、もうデクティスはその場で待っていた。無表情な副官が一緒だった。


「レフ様のお立場で、身を守るすべが何もないというのは好ましくありませんな。長剣や槍は持っていただく訳にはいきませんので、これをお教えいたしましょう」


 デクティスがレフに渡したのは、鞘に入ったままの短剣だった。


「槍は駄目なの?」


 レフは槍を振るっているデクティスに魅せられたのだ、出来れば同じものを教えてほしかった。


「戦場で使う武器の類いはレフ様には許されておりません。あくまで護身用の武器ということでそれの使い方をお教えしましょう」


 それがどうしてなのか訊いても無駄なことはそれまでの経験で十分に分かっていた。それ以上は拘泥せず、レフは短剣を抜いてみた。両刃の短剣の刃は美しい文様を描いていた。黒く塗られたさやには細い金の線で模様が描いてあり、柄の装飾は壮麗で、見事な刃を持ちながら儀仗用の武器に見えた。


「おいえに伝わるものですな。レフ様のものにしてよいとのことです」


 つまり、以前からレフがこうするだろうことが予想されていて、その準備がされていたということだった。しかし、その短剣はレフのものだった。手に取ったときにそれが分かった。


 デクティスはまず型を教え、短剣がレフの手になじむようになると、刃引きした短剣を使って実戦形式の稽古をつけてくれた。レフは短剣しか持たなかったが、デクティスは長剣や槍を使うこともあり、そのどれにも達人と言っていい腕を持っていた。デクティスは意図して異なる武器を使ってみせ、その武器に対する戦い方を教えたのだ。個人的な感情の動きをほとんど見せないデクティスが示した、レフに対するわずかな好意だったのかも知れない。

 デクティスとの稽古時間は短く、個人的な会話をすることはほとんどなかった。レフにはデクティスに何かを訊いても肝心なことは答えはしないだろうということが分かっていた。デクティスは欠点を指摘するときは容赦ないが、もともと子供にどう言葉をかけたらいいのか分からない男だった。

 言葉に出してしまえば取り返しの付かないことを知っていたから、なおさら言葉数が少なかったのかも知れない。


 訓練の時でさえ、デクティスと一対一で会うことはなかった。必ず誰か立ち会う人間がいた。デクティスに限らず、館の人間と会うときは必ず相手は複数だった。相互監視のシステムだった。言葉の聞こえる範囲に他人がいれば不用意な発言はできない。


 3年もたたず一見互角に打ち合うようになったレフに、デクティスは目を見張った。


「さすがにお血筋ですな。これほど早く上達されるとは」


 デクティスの珍しい個人的な感想だった。“お血筋”とは何なのかデクティスは説明しなかった。説明がなくてもレフには分かっていたし、レフが分かっていることをデクティスも知っていた。


「しかし刃筋が甘うございますな。他人を傷つけることを躊躇われますか。その優しさが命取りになりますぞ」


 レフがデクティスの前から消える直前まで稽古をつけてくれたが、最後にはデクティスも本気を出して相手をするようになっていた。そしてデクティスが本気になればレフにはほとんど勝ち目がなかった。


 後から考えると、デクティスは槍を振るう場面をわざとレフに見せたのだと思い至った。レフが武器に興味を持つかどうか、どれほど巧みに武器を使うようになるか、確かめるつもりだったのだろう。そしてそれはおそらくデクティス一人の考えだけではなかったのだろう。







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