第8話 刺客 3
シエンヌとアニエスは息を詰めて二人の男の闘いを見ていた。さっきの男同士の話からこの闘いの帰趨に自分たちの命がかかっていることも理解していた。しかしその場を逃げ出そうという気にはなれなかった。レフがデクティスと呼んだ男にしっかりと顔を見られ、個体として認識されたのは分かっていた。レフが敗れれば、たとえどれほど離れていても逃げ切れるとは考えられなかった。あの感覚の鋭いレフに気づかれずにこの場所に現れたのだ。おそらく何日も前からレフの動きを追っていたのだろう。レフに探知されないぎりぎりの距離を知っているのかもしれない。その距離に入らずレフを追うことができるのなら、シエンヌとアニエスには到底逃げ切れるものではない。すぐに追い詰めてくる、そう思わせるものを男は持っていた。
「とんでもないわね。二人とも」
ため息をつきながらアニエスが言った。アニエスはナイフを使った闘いをかなり仕込まれていた。またその動体視力も優れていた。だから二人の闘いをかなり正確に追うことができた。
シエンヌがそう呟いたアニエスを見て、
「レフ様、勝てるかしら?」
「勝ってもらわないと、…あたしたちの命もかかっているのだから」
「レフ様が闘っている間に逃げる?」
「無駄だと思うわ。あの男、人狩りに慣れている。あたしたちのことを認識してしまったからとても逃げ切れるものではないわ」
裏社会に長く身を置いていて、アニエスはそういう感覚に長けている。
「でもレフ様の方がいくらか不利ね。あの重そうな剣を振り回してレフ様の迅さについて行けるなんて…。それにレフ様の左手が……」
アニエスの顔が曇っている。
二人の少女の目の前で二人の男の闘いが再開された。レフがなんとかナイフの間合いに入ろうとし、デクティスと呼ばれた男が剣でそれを阻止する。また金属音が連続する。ひとしきり切り結んだ後で息が上がった2人が互いにとび退いた。
そして、この機会をレフは待っていた。
大きく後ろに跳んだデクティスが着地しようとしたとき、レフが右手に持っていたナイフを投げた。首を狙ったそのナイフをデクティスが剣で弾いた。すかさず、自由になった右手で素早く懐から取り出した魔導銀の小さな塊をレフが投げた。眉間を狙って投げられた魔導銀を、デクティスが上体をひねって躱そうとしたとき、レフがその魔導銀に魔力をぶつけた。レフの魔力の全てを込めた最大限の大きさの魔力の投射だった。透明な魔力塊を通してみる景色がゆがんで見えるほどの濃密な魔力だった。およそ直径0.5ファルの大きさに円形に広がった魔力はその中心から少しずれたところで魔導銀を捕らえた。その中に蓄えることが出来る量の10倍の魔力をぶつけられて、小さな魔導銀が一瞬で蒸発しまぶしい光を放った。
デクティスは思わず目をつぶって一歩後ろへ下がった。その一瞬の隙でレフには十分だった。次の瞬間デクティスの左横をレフが奔りぬけた。レフの左手のナイフが煌めいた。デクティスの首から派手に血が噴き出した。傷口からザーッ、ザーッと規則的に血を噴き出しながらデクティスがゆっくりとレフを振り返った。その眼に賛嘆の色がある。
「そう…か、こんなことが、おできになるように…」
血色のなくなったデクティスの顔がニヤリと笑ったように見えた。そして、どうっと後ろに倒れて一度びくんとけいれんし、動かなくなった。レフが精も根も尽きたように膝をつき、手をついた。大きく肩で息をしている。
静止した目標に魔力をぶつけることはやったことがある。しかし動く物、しかも高速で動く物に魔力をぶつけたのは初めてだった。魔力の射出と方向のコントロールにほぼ全力を使い切っていた。これを外すと、もう戦える力は残っていなかった。だから本当に一か八かだった。
「レフ様!」
悲鳴を上げて二人の少女がレフに駆け寄った。レフがびっしりと汗の浮いた顔を上げた。駆け寄った少女達がレフの側に膝を突いた。立ち上がろうとしたレフが僅かによろめいた。2人の少女達がほとんど同時に手を出してレフを支えた。
「だ、大丈夫だ」
「大丈夫には見えません」
レフの体を支えながらもう一度座らせた。
シエンヌが手早くレフの手当を始めた。傷を布で押さえて圧迫し、きつく縛った。それでやっと止血できた。手当に使う布は手持ちがなく、シエンヌとアニエスが下着を脱いで、裂いて作った。下着を脱ぐときに2人ともレフの眼にその上半身の裸体を曝したが、レフも少女達も気にしなかった。
シエンヌは親衛隊候補生の時に外傷治療の訓練を受けており、実際に訓練隊でけが人が出たときは彼女が手当をしていた。
レフの負傷はそれほど深いものでもなかったが、左肩の傷は比較的大きく、出血量もそれなりだった。傷をなんとか隠しながら門をくぐって家に引き上げてから、シエンヌは、居間の長いすの上に横になったレフの傷口を丁寧に洗って縫った。上半身裸で横たわるレフの胸が大きく上下していた。
“森の中の川で体を拭いているのを見たときも痩せていると思ったけれど”
あのときはもっと距離を置いていた。それにこれほどしげしげと見たわけではない。この痩せた体のどこにあれほどの戦闘力があるのだろうと、シエンヌに疑問に思わせるほどだった。
圧迫していたせいで出血はほとんど止まっていた。鋭い刃物で付けられた傷は辺縁がきれいで、挫滅した組織を除去する必要もなく処置は比較的短時間で終わった。
シエンヌが処置を終わったとき、レフはもう眠っていた。
「夕食も摂ってないのに」
呟いたアニエスに
「今は体を休める方が良いのかもしれないわ」
シエンヌの答えだった。
シエンヌとアニエスは互いの目を見合ったが、寝てしまったレフを起こすという選択はなかった。
「アニエス、足の方を持って」
二人でレフを何とか抱え上げて寝室のベッドまで運んだ。
“本当に軽いんだ。それに骨も細い、まだ成長途上みたい。いったいレフ様は幾つなのかしら”
2人の感想だった。レフは小柄だった。痩せた体だった。
レフをベッドに運んでから少女達はレフの体を湯で拭いた。拭きやすいように体を動かされてもレフは目を覚まさなかった。レフの清拭が終わってからシエンヌとアニエスは簡単な夕食を摂り、自分たちの体も拭いて、交代でレフの側に付き添いながら
次の日、レフは一日寝ていた。シエンヌもアニエスもベッドの上で身動きもせずに眠り続けるレフをそのままにしておいた。どちらか1人がレフの側にいるようにして、側を離れた1人が他のことをした。レフの世話以外にもすることはいくらもある。レフはびっしりと汗をかきながら寝ていた。側にいる1人の主な仕事はその汗を拭くことだった。
レフが目を覚ましたのはもう夕日が沈もうかという頃合いだった。
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